第三十一話 別離

「くっ……!」


 迫り来る地獄の業火に、シエルは意地でも避けようとせず、正面に両手をかざして魔法で反撃を試みようとする。


「シエル!!」


「くっそ、これでもくらいやがれ!!」


 それを見ていたフィールカとレオンは、咄嗟に弾かれるように自分の身体が動いていた。フィールカはシエルに真横から突っ込み、レオンはルティシアに向かってスナイパーライフルから予め装備変更していたアサルトライフルを立て続けに発砲する。


 だが、二人よりも一歩早く動き出していたセクリアスは、魔女の盾になるように透かさず間に割り込んでくる。


「はぁぁぁあああああああああ————ッ!!」


 裂帛れっぱくの気合とともに、とても常人では有り得ない速度で前面に槍を高速回転させると、連射で飛んでくる銃弾をいとも簡単に次々と打ち落とす。


「——きゃっ!?」 


 それと同時に炎の龍がシエルに当たる直前、フィールカは勢いよく彼女に飛び付くと、そのまま二人は激しく地面に転がる。


 燃えさかる獄炎は数秒前まで少女がいた空間を焼きながら通り抜け、正面にあった民家の石壁にぶつかる。有り余る火力を一滴残さず使い尽くすと、白かった壁面を一瞬で黒く焦がした。


 突然乱暴に押し倒されたシエルは、自分の身体に覆いかぶさっていた青年を見て思わず怒りが込み上げる。


「なっ……なんで庇ったりなんかしたのよ!! 私の復讐の邪魔をしないで!!」


「落ち着けッ!!」


 少女の肩を握って必死の形相で向き合い、フィールカは言い聞かせるように叫んだ。


「もしあのまま攻撃を続けてたら、お前がまず命を落としてた!! 一旦冷静になるんだ……! 今の俺たちじゃ……魔女には勝てない!! この消耗し切った状態じゃ尚更だ! 今はここから逃げることに専念して、一度態勢を立て直すんだ! 生き延びれば、また復讐できる機会はやってくるだろう!!」


「——逃げる、だと……?」


 レオンの発砲した銃弾を全て防ぎ切ったセクリアスが、凄まじい怒気を孕んだ声で呟いた。


「これだけ散々好き放題に暴れておきながら、今さら生きて還れるとでも思っているのか?」


 全身の肌を針で突き刺すような強烈な威圧感に、青年たちは思わず気圧けおされる。


「くっそ……! フィールカ、こいつ強いぞ!!」


 そう言いながら、レオンはアサルトライフルから空になったマガジンをさっと引き抜くと、ダンプポーチから予備のマガジンを取り出して新しく差し換える。


 フィールカとシエルもすぐに立ち上がり、奴らに身構える。


 対するセクリアスは、自分の主に鋭い視線ですぐさま反撃の許可を求める。


 すると、ルティシアは興を削がれたように剥き出しの細い肩をすくめた。


「もう飽きちゃったし、あなたの好きにするといいわ。——ただし、その子だけはちゃんと生かしておいてね」


 ちらりと赤髪の少女を一瞥し、自分の配下にそう指示する。


 若年の戦士は胸に左手を当てて慇懃いんぎんに頭を下げると、青年たちに向き直り改めて言った。


「先ほどの上位魔級を葬ったからには、多少は骨があるようだが……」


 彼らを称賛すると、セクリアスはゆっくりと腰を落としながら左足を一歩前に出し、右手で槍を後ろに構える。


 全身から圧するような凄まじい気迫を放ち、厳かに呟いた。


「——私を、あの下等生物と一緒にするなよ?」


 突然、奴の姿が消えたかと思うと、勢いよく地面を蹴ってこちらに突っ込んでくる。


 ——速いッ!!


 フィールカが脳内で即座に認識した時には、すでにセクリアスの攻撃範囲に入っており——青年に向かって高速で槍を薙ぎ払っていた。


 しかし次の瞬間、広場に鳴り響いたのは肉を斬り裂く湿った音ではなく、ガガァン!! という鈍い金属音だった。


 フィールカの前に金髪の青年が咄嗟に割り込んでおり、奴の槍をしっかりと剣で受け止めていたからだ。


「ダイン!?」


 フィールカは面食らったように思わず声を上げる。


 己の攻撃をあっさりと防がれたセクリアスも、驚嘆したように目の前の青年に言った。


「ほう。私の速攻にすぐさま反応し、さらに受け止めるとはな。ただの雑魚ではないようだ」


「ケッ、テメェこそ俺様に両手を使わせるなんて、思ってたより雑魚じゃなくて良かったぜ」


 血の気の多い野獣のように歯を覗かせて、ダインは思いきり槍を弾き返す。


 セクリアスはさっと後ろに飛び退き、一度距離を取る。


 金髪オールバックの青年は正面に剣を突きつけると、宣言するように言い放った。


「まずは準備運動にテメェを片づけてから、次いでにそこの世界最強の魔女様もブッたおして、俺様が誰よりも最強だってことをすぐに証明してやるよ」


「貴様……! 私の攻撃を一度凌いだくらいで、あまり良い気になるなよ……!」


 物凄い剣幕で歯軋りしながら憤激を滲ませるセクリアスに対し、しかしルティシアは特に意に介した様子もなく、口許に色っぽい笑みを浮かべる。


「ふふっ、あなた随分と面白いことを言うのね。けれど、セクリアスはあなたが思ってるほど決して弱くないわよ?」


 自信に満ち溢れた彼女の口振りに、フィールカは目の前に佇む青年に叫んだ。


「無茶だ、ダイン!! いくらお前でも、こいつら相手じゃ分が悪すぎる!!」


「うっせーなァー。負け犬にいちいち指図される筋合いはねぇんだよ!! 逃げたきゃ勝手にテメェらだけで逃げやがれ!!」


 大声で罵倒し、ダインは左手の親指と人差し指の上に剣の切っ先を載せると、顔の横に水平に構える。


「さあ、とっとと始めようぜ。こっちはさっきから、テメェらを斬りたくてうずうずしてんだからよ」


 全く聞く耳を持たないダインに、青年が逃走することを決断しかねていると、すぐにレオンが隣から叫んだ。


「フィールカ、こいつには何を言っても無駄だ!! それはお前が一番わかってることだろ!!」


「くっ……!」


 きつく歯噛みし、胸中で激しく葛藤する。


 今ここで戦うことを選択すれば、ほぼ間違いなく自分たちの全滅は免れないだろう。だからと言って、このままダインを見捨てるのか……? ここであいつを見限れば、もしかしたら自分は一生後悔するかもしれない。それでは一体どうすればいい——。


 不意に隣を見ると、そこにはシエルの姿があった。


 そうだ。自分は先ほど、絶対に彼女を護ると決めたばかりではないか。


 相棒のレオンもそうだ。それは、リースベル近辺の森の中でミスリア先生とも約束したことではないか。最後まで二人を護り抜く——それが、己の誓った決意だ。


 フィールカはようやく迷いを断ち切ると、青年の背中に向かって最後の一言をかける。


「……絶対に死ぬなよ」


「ケッ、そんなつもりはねぇよ」


 ぶっきらぼうに応えると、フィールカはさっと身を翻し、レオンとシエルに向かって叫ぶ。


「二人とも、急いで高台の方角に走るんだ!!」


「ああ、わかったぜ!!」


「…………」


 レオンはすぐに明快に応えたが、シエルだけはルティシアへの復讐に対する未練を捨て切れていないようだった。


 だからフィールカは無理やり少女の手を取り、レオンとともに島の中心に屹立する北山の方角へと死に物狂いで走り出す。


「——逃げられるとでも思っているのかッ!!」


 すぐさまセクリアスがそれに反応すると、決して逃がすまいという恐ろしい速度で三人に襲いかかる。


 しかしそれよりも早く、ダインが透かさず奴の前に立ちはだかる。


「テメェの相手は俺様じゃねぇか」


「どけぇえええええええええ————ッ!!」


 セクリアスは絶叫とともに槍を薙ぎ払う。


 それをダインは無造作に剣で弾き返すと、二人の間で激しく火花を散らしながら剣戟の応酬が始まる。


 その間にフィールカたちは、全速力で北の街路に向かって広場を駆け抜ける。


 だがその瞬間、彼らの前を烈風の刃が横切ると、左前方に佇んでいた建物を木っ端微塵に吹き飛ばした。


「——どこに逃げるつもりかしら?」


 ルティシアがこちらに手をかざし、たのしそうに嗜虐しぎゃく的な笑みを浮かべていた。


 シエルは悔しさを滲ませてギュッと唇を噛むと、何かを決断したように声を張り上げた。


「ここは私が食い止めるッ!! 二人は走って!!」


 少女の思いがけない言葉に、フィールカは到底納得できずに首を左右に振る。


「そんなこと出来るわけないだろう!!」


「……大丈夫。ちょっと派手にブッ放すだけよ」


 すると、シエルは闇属性の魔力センスの粒子を右手に集め、手鞠てまりほどの大きさの黒い球を生み出すと、それを思い切り地面に叩きつける。


 次の瞬間、ボンッ!! という小さな爆発音を起こし、雲海のような黒煙が広場の中央を瞬く間に呑み込む。


 たちまち三人の姿は目視できなくなり、ルティシアは少し残念がるように呟いた。


「煙幕……やられたわね」


 フィールカとレオンは肩越しにその派手な光景を見ながら、それでもシエルを信じて必死に走り続ける。


「や、奴らを絶対に逃がすなッ!!」


 視界が悪い濃煙の中で、グラウスが青筋を立てて皇国兵たちに素早く指示する。


 北の街路を封鎖していた奴らはそれに従い、抱えていた小銃を一斉に構えると、フィールカたちの前に容赦なく立ちはだかる。


「くっそ!! どうするフィールカ、このまま強行突破するか!?」


 レオンが焦燥感に駆られるように、隣から必死に訊いてくる。


 出来ることなら面倒な戦闘を避けたいのはやまやまだが、広場を抜ける通路が東西南北に一つずつしかないため、どうしてもそこを通るしかないのだ。


 逡巡の末、フィールカは諦めて戦闘態勢に移ろうとした時だった。


「——二人とも、私の手に掴まって!!」


 不意に、背後からようやくいつもの頼もしい声が聞こえてきたかと思うと、後ろで立ち込めていた黒煙を勢いよく突き破り、シエルが地面ぎりぎりを滑空しながら一瞬で追い付いてくる。


 フィールカとレオンはそれに咄嗟に反応し、二人の間に割り込んできた少女の両手にそれぞれ掴まった直後、彼女の身体がふわりと宙へ浮き上がる。


「「うわっ!?」」


 異口同音に素っ頓狂な声を上げ、二人はがっしりと少女の手を握る。


 突然の慣れない浮遊感覚に激しく襲われながらも、どうにか崩れた体勢を立て直す。


「このまま一気に屋根まで昇るわよ!!」


 シエルは二人を引き上げながら飛燕の如く飛翔すると、街路沿いの民家の屋根の上に軽やかに降り立つ。


 青年たちの予想外の行動をただ見ていた皇国兵は、呆気に取られたようにその場に立ち尽している。


「な、何をぼさっとしているッ!! さっさと撃ち落とせッ!!」


 慌てて駆けつけたグラウスがすぐさま命令すると、その怒声を聞いてようやく我に返った兵たちは、屋根の上にいる三人に向かって次々と銃を発砲する。


 しかし、フィールカたちは建物の屋根から屋根へと軽快に飛び移り、銃弾を危なげなく避けていく。


 その派手な騒動を遠目に見ていたルティシアは、目の前で肩を小刻みに上下させている青年に視線を戻すと、酷く憐れみを込めた瞳で言った。


「仲間を逃がすために、たった一人で残るなんてね。けれど、勇敢と無謀は全くの別物よ?」


 小馬鹿にした態度で問いかけると、その間に呼吸を整えたダインは吐き捨てるように言った。


「ケッ、別にあの雑魚どもは仲間でもなんでもねぇし、そんな関係も必要ねぇ。それに俺様は、テメェらに負けるなんてこれっぽっちも思ってねぇぞ」


 挑発するように言い放ち、親指と人差し指をくっつけた指先を見せつけると、見下すように傲然と顎を突き出す。


 相変わらずのたっぷりな自信ぶりに、セクリアスは救いようのないといった顔で忠告した。


「どうやら威勢だけはずいぶんと良いようだが……あまり自惚れるなよ? この広い世界には、貴様より遥かに上のつわものがいくらでもいることを今からその身にはっきりと教えてやろう」


 そう言い終えた瞬間、セクリアスは全身から純粋な萌黄もえぎ色の魔力の奔流ほんりゅうを放出させ、周囲の地面と空気を激しく震わせる。


 さらに魔力は戦士の携えている槍に滑らかに流れ込んでいくと、まるでいにしえの龍を彷彿とさせるかのようにたちまち具現化する。


 魔力に魂が宿ったかのような生物そのものの動きに、しかしダインはさして驚いた様子もなく、素っ気ない口調で言った。


「なんだそりゃ。テメェの飼ってるペットか? 見たこともねぇ技だな、おい」


「当然だ。これは私のオリジナルだからな。言っておくが、これを使用したからにはもう手加減はできんぞ」


 するとダインは、クックック……と不気味に嗤いを洩らすと、突然顔を手で押さえて高らかに哄笑こうしょうする。


 そしてすぐに下品な嗤いを収め、不敵に言い放った。


「おもしれーじゃねぇか。——そんじゃ俺様も、取って置きの技をテメェらに披露してやるよ。ビビってチビんじゃねーぞ」


 傲岸不遜な態度でそう言って、右手の剣に意識を集中させると、いきなり刀身から暗黒の魔力を解放させる。


 へえー、とルティシアの顔が一気に興味津々になる。


 青年の剣から噴き出している瘴気のようなドス黒い魔力の奔流を見て、セクリアスも思わず感心した様子で言った。


「ほう。その歳で、すでに《闇属性》の魔力を行使できるか」


「まだ人間には一度も使ったことねぇ技だ。まさかこれで死ぬなんてことはねぇよなァ!!」


 言い終えると同時に、ダインが虚空に剣を一閃させた瞬間、突然魔力で具現化された二匹の黒い狼が放たれる。


 血に飢えたような狼たちは力強く地面を蹴り、セクリアスに向かって一直線に襲いかかる。


《ウルフ・ファング》——毎晩、静まり返った学校を密かに抜け出し、青年が日頃の修行によって自ら編み出したスキルである。さすがに人間を練習台にするわけにもいかず、——というよりそんな相手がいなかった——魔物を相手に試し続けることでようやく完成したこの上位剣技は、野獣が群がるように敵を喰いちぎる。


 セクリアスの龍と同じく意志を持つかのような狼たちの不規則な動きに、しかし奴は全く動じた様子も見せず、落ち着いた声音で呟いた。


「——喰らえ、神龍しんりゅう


 すると、槍に宿っていた魔力の龍がその名前に呼応し、突然空中をうねるように動き始める。


 神龍、と呼ばれた龍は自分の主に襲いかかってくる狼たちを見た途端、蛇のごとき動きで突っ込んでいく。


 まず最初に横から狼に喰らいつくと、そのままもう一匹の狼も巻き込んでまとめて喰いちぎる。狼たちは黒い光を四散させて呆気なく消滅し、勢いそのままに龍はダイン目がけて襲いかかる。


「チッ、可愛くねぇ野郎だ!!」


 毒づきながら、龍が剥き出した鋭い牙を正面から剣で受け止める。


 眼前の龍の凄まじい迫力に、ダインは微塵も臆することなく攻撃を受け流すと、すぐさま今度はこちらから反撃を仕掛けようとする。


 しかし、いつの間にか奴の姿が視界から消えており、不意にどこからともなく冷え切った声が聞こえた時だった。


「——どこを見ている?」


 横から感じた嫌な気配に、ダインは反射的に剣を振り払っていると、セクリアスが横薙ぎに繰り出してきた槍と激突する。


 放電のような大量の火花が地面に飛び散り、刃同士がぎりぎりと不快な金属音を立てながら、どちらも譲らない形で互いに激しくせめぎ合う。


 すると、先ほどの攻撃から立ち直った龍がぐるりと宙を旋回し、ダインに向かって横から突っ込んでくる。


「……チッ!」


 セクリアスの攻撃を押さえている状態の青年はろくに動くこともできず、自慢の怪力でどうにかそれを押し返してから、一度後ろに跳んで距離を取る。


 その直後、数秒前までダインがいた空間を龍が勢いよく通り抜けると、セクリアスの周囲を取り巻くようにもとに戻ってくる。


 それを見た青年は、苛立ちを隠そうともせずに地面に唾を吐く。


「ケッ、同時に攻撃してくるなんて、ずいぶんとズリぃ戦法じゃねぇか」


「フッ、悪く思うな。これが私の基本的な戦い方なのだ。戦場でどれほど卑怯と罵られようが、一度死んでしまえばそこで終わりだからな」


 当然と言わんばかりの態度で答えながら、再び槍を構え直す。


「ふあ〜、さっきから何を遊んでいるの、セクリアス? さすがにもう見飽きちゃったわ。そろそろ終わらせてもいいんじゃないのかしら」


 後ろからルティシアが上品にあくびをして退屈そうに言うと、それに対して戦士は真摯に応える。


「申し訳ございません、姫様。早急に終わらせてみせます」


 すると、セクリアスはこれまで以上の殺意を帯びた瞳で青年に向き直る。


「そういうことだ。貴様には悪いが、一瞬で終わらせてもらうぞ」


 堂々と宣言し、風属性の魔力の塊である神龍を一旦槍に戻す。


 身体をまとっていた黄緑色の魔力がいっそう強さと輝きを増すと、周囲の地面まで音を立てて放射状に激しく亀裂が走る。


「——ここから先は、純粋な速さでの勝負だ」


 刹那、セクリアスの姿が視界から完全に消える。


 不意にダインは背後から感じたおぞましい殺気に剣を一閃させていると、奴が突き出してきた槍をぎりぎりで弾き返す。


「さっきより断然速くなってるじゃねぇか!!」


 即座に斬り返すが、剣は虚空だけを裂いてかすりもしない。


 はっきりと目に捉えることができない奴の高速移動に、青年は周囲から殺到する刃を反射的にただ防ぐことしかできない。次々と繰り出す攻撃を的確に捌き続けるダインに対し、さしものセクリアスも驚きをあらわにする。


「ほう。この速さにも付いてこられるか……! 最初に攻撃を防いだときもそうだったが、どうやら力と反応速度だけは相当なものだということは認めざるを得ないな!!」


 ますます火が付いたように攻撃が加速し、目にもまらぬ速さで動き続ける。


「では貴様に敬意を表して、特別に見せてやろう——人間の限界速度をな」


 そう言った途端、セクリアスの速度がさらに上がると、ダインの周囲にもだんだん変化が生じ始める。


 無数の残像が地面と空中にまで発生し、もはやどれが本物か区別がつかないほどの神速である。


 これにはダインもさすがに毒づく余裕はなく、奴から放たれている殺気だけでどうにか反応している状態だ。セクリアスは自身の神速を最大限に活かし、縦横無尽に容赦なく攻撃を浴びせてくる。防戦一方のダインは成す術もなく反撃に転じることができず、やがて青年の反応が徐々に遅れ始める。


「どうした? どんどん動きが鈍くなってきているぞ」


 息つく暇もなく剣を振り続けるダインに疲労の色が見え始めるが、対するセクリアスはこれだけの激しい動きをしているにもかかわらず、全く体力が衰える気配を見せない。


 そんなダインは苛立ちからか、隙だらけの力んだ空振りをしてしまう。


 その瞬間、戦士はニヤリと笑った。勝利を確信したからだ。


「——これで終わりにしてやる」


 そう告げた時には、セクリアスは青年の頭上を跳んでいた。戦士は腰が反り返るほど両手で槍を振り上げると、渾身の一撃を振り下ろす。


 ハッと上を向いて眼を見開き、ダインは間一髪で反応して両手持ちの剣で槍を押さえる。


 が、頭上からの凄まじい衝撃に立っていることすらままならず、そのまま後ろに押し倒されてしまう。何ロン(トン)もの鉄槌で殴り付けられたような衝撃波が青年の全身を激しく叩き、地面にクレーターの如き巨大な穴を穿うがつ。


「ぐはっ……!」


 息を詰まらせて苦悶の声を洩らし、口から血を吐き出す。


 セクリアスは攻撃の反動で後方に一回転すると、軽やかに着地する。


 ダインは大の字に倒れたまま、二度と立ち上がることはなかった。


 セクリアスはゆっくり彼に歩み寄ると、称賛の言葉を投げかける。


「……まさか、この私をここまで本気にさせるとはな。久々にたのしい戦いだったぞ。——礼を込めて、一瞬で楽にしてやる」


 青年の心臓に向かって、槍を突き立てようとした時だった。


「——待ちなさい、セクリアス」


 不意に、ルティシアが背後から制止の声をかける。


 すると、彼女はとても信じがたい言葉を口にした。


「気に入ったわ。その子も一緒に、城まで連れて還ることにするわよ」


 突然の言い出しに、セクリアスは血相を変えて反論する。


「なっ……本気のおつもりですか!? なぜこのような者を生かしておくのです!? それも、姫様の大切な城に連れて還るなどと……!」


「セクリアス、あなたはその子の実力に対してどう思ったのかしら?」


 いきなり問いかけられると、ルティシアは地面に横たわっている青年を見ながら自信ありげに言った。


「今はまだこの程度だけど——近い将来、ダイン=ランザックは確実に化けるというのが私の見立てよ」


 当の本人は愉しそうに言うが、セクリアスは当然納得できない様子で異を唱える。


「た、確かに実力も伸びしろも充分にあるとは思いましたが……し、しかし、このような無法者を城に入れるのはあまりにも危険過ぎます!! 姫様にもしものことがあれば……!」


「——私の言うことが聞けないのかしら?」


 不意にルティシアは、威圧的な口調で自分の配下を咎める。


 これにはセクリアスも思わず圧倒され、何も言葉が出てこない。


 ルティシアは普段から部下に対し、常に笑顔を絶やさず優しく接してくれるが、このように突然声色が変わったときの彼女の雰囲気は恐ろしく威厳を感じるのだ。


 それでもセクリアスは終始不服そうだったが、やがて折れたように呟いた。


「……かしこまりました。ですが、もしも姫様に今後危険が及ぶようであれば、この者を即座に斬り伏せさせていただきます」


「ええ、それで構わないわ」


 彼の意見に特に不満もなく、ルティシアはさらっと答える。


「それでは、残りの連中はどうなさいますか?」


「そうね……本当ならもっと彼らと遊びたいところだけど……。これからの予定も詰まっていることだし、後はグラウスに任せてこれで還ることにするわ」


「かしこまりました」


 セクリアスはうやうやしく一礼して身を翻すと、彼女と少し距離を取る。左手の親指と人差し指をくっつけて小さな輪っかを作り、それを口に入れて甲高く指笛を吹く。


 ——ギャアアアアアアッ!!


 突然、けたたましい咆哮が遠くから返ってくる。


 バサバサッ、と翼をはばたかせる音がどんどん大きくなってくると、やがて東の上空に一体の影が見えてくる。


 漆黒の翼、鋭い鉤爪の四肢と尻尾を備えた、小柄な黒い飛竜だ。小柄、と言っても体長はおよそ三ルメール(メートル)ほどあり、人間と比べればとても大きな生き物である。


 竜は広場の上空で停止すると、ゆっくりと翼をはためかせて降下してくる。


 広場に荒々しく砂埃を巻き上げながら着地し、たくましい翼を折り畳んだ竜は、血のように赤い瞳を己の主に向ける。


 セクリアスは愛竜に近寄ると、ざらざらした鱗で覆われた頭を優しく撫でる。


「待たせたな、ザギラ。行きよりも少々面倒な荷物が増えてしまったが、許してくれ」


 名前でそう言われた竜は言葉が解ったのか、強面こわもての顔を一瞬さらに醜悪なものにしたが、すぐにいつものように彼に大きな頭を擦り寄せてくる。


 セクリアスは自分の大切な竜を愛でてやると、ルティシアの方にさっと向き直り、地面に深く跪く。


「さあ姫様、お乗りください」


 礼儀正しく言ってから、セクリアスは騎竜の背中に着けられた二人乗り用の鞍の後部座席に彼女を乗せる。


 次にぐったり倒れたままのダインに慎重に歩み寄ると、まず呼吸を確認する。どうやら本当に気絶しているらしく、当分これでは目覚めないだろう。


 とりあえずセクリアスは右手に携えていた槍を《武装解除術式リリース・オーダー》で消し、自分の《記憶保管メモリーストレージ》に収めると、さらに白煙とともにロープを出現させる。それでダインをしっかり拘束してから片腕で軽々と抱き上げると、騎竜のもとに戻っていく。鞍の前部座席にぞんざいに青年を乗せ、セクリアスもそこに跨がる。


 両手で手綱を握り、出発しようとした時だった。


「——お待ちください!!」


 不意に街路のほうから、グラウスが慌てた様子で息を切らしながら走ってくる。


 騎竜の横で立ち止まると、彼はその場に跪いて淡々と告げた。


「申し訳ございません、姫様。逃走した三人は、我々だけで必ずや捕えてみせます」


「ふふっ、期待してるわよ、グラウス」


 ルティシアは優雅に微笑み、自分の配下に信頼の言葉をかける。


 離れろ、セクリアスはグラウスに冷たく一言放つと、手綱を鋭く打ち鳴らす。黒竜が勢いよく助走し始め、それとともに周囲の景色もゆっくりと流れていく。最後に力強く地面を蹴ると、次の瞬間、黒竜の巨体がふわりと宙に浮き上がる。


 大きく広げた翼をはばたかせて上空へと一気に舞い上がり、先ほどまでいた広場がたちまち小さくなっていく。ニルヴァスの街を離れ、黒竜は東の空に向かって高く飛翔する。


「——セクリアス」


 バレス島を出て沖合の上空に入ったところで、不意にルティシアが背後から声をかける。


「どうかなさいましたか、姫様?」


 戦士は肩越しに怪訝けげんな顔で訊き返す。


 すると、ルティシアは何やら悦に入った口調で告げた。


「今回は良い収穫が手に入ったわね。これからがとても楽しみだわ」


 それを聞いたセクリアスは鞍の上で眠っている青年を一瞥し、重々しく呟いた。


「そうですね……」


 三人を乗せた黒竜は西の空に沈む夕陽の光を背中に浴びながら、遥か東の大陸にある皇国へと飛んでいく。見る見るうちにその姿は遠ざかり、黄昏の闇に紛れて消えていった。


 まもなく、バレス島に夜が訪れる——。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る