ショートショートの詰め合わせ

初瀬明生

苦学生の奇跡

 ……ああ、眠い。


 ボサボサ頭を掻きながら、電車の規則的な振動に揺れている。私の睡魔は朝からひっついて離れようとはしない。このまま大学までついてくるのだろうか。

 そういえば寝過ごして急いでいたため、今日の朝刊を読んでいなかった。何気なく隣にいるオッサンが持っている新聞に目を落とす。そこはちょうど、宝くじの当選番号の欄がある場所だった。


 おっと。


 私は身を少し乗り出して、その欄を舐めるように見た。下一桁5、せめて下一桁5・・・…。

 だが願いも虚しく、視点は最後の数字に滞り無く到達する。千六百円の小さな夢は、はかなくも散っていった。




 奇跡などというものに、私はほとほと縁がない。大した努力もせず凡庸な大学に受かり、部屋が散らかったがさつ野郎かと思いきや、二階の足音や隣近所の物音が異様に気になってしまう神経質。こんな苦学生が近づいてきたら、高校時代の女子のように幸運も渋い顔をしながら離れるだろう。

 そんな生活をしているから、たとえどんな小さな幸せでも、それと巡りあった奇跡を喜ぼうと私は心掛けている。


 スーパーが偶然にもタイムセールの最中でありキャベツが百円で買えた。奇跡である。


 見たいと思っていた映画がテレビで放映されていた。奇跡である。


 異性と話をした……それは大いなる奇跡である。


 今座っている席から、何気ないように左へと目を移す。

 今日もいた。朝の混みいった電車の中、ある女性がつり革をつかんで凛と立っていた。

 股下まである白のワンピースに黒のレギンス。凛と立って見えるのは、日本女性らしい長い黒髪とその姿勢がいいからだろう。

 その姿を見ると心臓が動く。電車の振動も、心なしか早くなったような気がする。やがて彼女は、私が向かう駅の一つ手前で降りた。


 溜め息を吐く。私はいつも、電車の中で彼女を眺めることしかできない。


 混みいった電車の中で話しかけても変に思われるだけだ。しかし大学へ向かうなら、この駅で降りても二限目には間に合う。行こうと思えば行けるのだ。だがそんな勇気はない。でも話をしたい。逆接が堂々巡りする矛盾の中で、私の心境は揺らいでいた。


 彼女の名前は知らない。この駅からどこへ向かうのかも知らない。職場だろうか。同い年のように見えるから別の大学だろうか。そんなやきもきした思いを抱え、今日も重い足取りで大学へと向かう。


 彼女のことを知ったのは梅雨に入った頃だ。つまりは一ヶ月近くこの思いを持ち続けていることになる。我ながら情けないと思う。一体いつまでこんな気持ちで講義に出て、そして学費のためバイトに勤しまなければならないのか。そんな暗い気持ちで歩いていると、同学部の友人から遊びの誘いのメールが来た。


 この日は午前中の講義だけしかないので、昼から誘ってきた友人と仲間で遊んだ。夕食まで食べる予定だったが、一人が急に都合が悪くなって、夕方にそのまま解散という形になった。バイトもなかったため、近くのスーパーに行き夕食の惣菜を買いに向かう。


 するとそこでタイムセールが行われており、惣菜が二割ほど安くなっていた。奇跡である。


 歩いていると宝くじ売り場があり、そこで千円分のスクラッチを削ってみた。千円二百円当たった。奇跡である。


 そしてその売り場の女性が綺麗だった。それは素直によかったと思った。


 今日は実に運がいい。これからも何か起きそうだ。そんな晴れやかな心の反面、こんなことで満足する自分の小ささに涙する心もあった。


 近くの駅に着くと、帰宅ラッシュから離れた時間帯だったため、人は数えるほどしかいなかった。これも奇跡であると言えよう。荷物を下ろし、椅子に座って次の電車を待っていた。

 しばらくすると後ろの方から、カッカッと歯切れのいい足音が聞こえてきた。この耳に付く音……まさか。

 振り返ってみると、私の心臓はドキリと鳴り驚愕した。


 あの女性だ。今日はカーディガンを着ているが間違いない。


 どうしてと一瞬考え、周りを見回して気づいた。ここは彼女がいつも降りる駅ではないか。

 心臓の鼓動が早くなる。それに呼応するように私は勢いよく立ち上がり、彼女の元へと歩み始めていた。


「あの……」

「はい、何でしょう?」


 彼女はきょとんとした顔でこちらを見た。


 ああ……今日はなんという日だろう。友人と遊ばなかったらここには来なかったろうし、スーパーの寄り道もなかったら、友人の一人が都合が悪くなって早く帰らなかったら、この時間帯にはならなかった。

 全てが示し合わせたように、人気のあまりないこの駅での邂逅を実現させたのだ。今までの仮初めのものとは違う、まさに奇跡であるといえよう!


「あ、あの!」


 ……しかし、その思いとは裏腹に、それ以上の言葉が出ない。心臓の鼓動はどんどんと増していき、緊張の波が止めどなく私を襲う。

 もうこんな奇跡はないぞ。これを逃したらいつになるかわからない。だから言え! 言ってしまえ!


 ようやく決心をし、激しく動く心臓を抑えながらはっきりと言った。


「下に住むものなんですけど、足音うるさいんで静かにしてもらえませんか!」


 鬱屈した思いを吐露した心臓は、規則的な振動に戻っていった。

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