北の地にて

 フィドゥルム王国は、三日月の形にも例えられる大陸の最南端に位置する。弧を描く大陸の南の下端すべてが、フィドゥルムの領土だ。国境を共にしているのは、北のデイルダしかない。

 デイルダは数十年前に興った、皇帝が治めている国である。デイルダの更に北に、ハル・クワルツやリューゼンといった国があるが、それらの国とフィドゥルムの交流は、わずかしかない。

 北上を阻むように領土を広げているデイルダのおかげで、その向こうの国々とは、海路を通してでしか交流を結べない。デイルダを通過するという陸路は、絶望的である。

 十数年前、デイルダが北の国境を越えたのをきっかけに、フィドゥルム王国と絶え間ない争いをつづけているのだ。デイルダは小国でありながら非常に好戦的で、冬の間の戦が困難になる時期以外、フィドゥルムの領土を少しでも奪い取ろうと虎視眈々と狙っている。

 今のところ、デイルダの狙いはフィドゥルムだけ。ハル・クワルツやリューゼンを狙わないのは、その更に南に、大陸一と言われる強国が控えているからだ。ハル・クワルツやリューゼンに手を出せば、その強国が出張ってくるのは確実で、そうなってはデイルダの手に負えなくなる。だからデイルダは、他国の救援も容易には届かないフィドゥルムの領土を狙うのである。

 デイルダの侵入を阻止するために戦うのは、《緋の夏陽》と《蒼の冬月》、二つの騎士団とそれが率いる兵団であるが、フィドゥルムの騎士は、誰もが一度は必ず、最北の戦場を経験することになっている。

 コントラルトも、騎士の叙任を受けて間もなく《蒼の冬月》の騎士としてこの地を訪れた。一度は戦線を離れ、国内の治安維持を担う《碧の秋星》に配属されたが、《緋の夏陽》に転属となって再び前線に舞い戻り、その団長となってからも毎年のように、最北の地でデイルダと刃を交わしてきた。

 何年経とうと、戦況に目立った変化はない。悪くはならないが、良くもならない。デイルダは小国ながら呆れるほどしぶとかった。


 最前線を望む砦の屋上に立てば、思わず身震いをしてしまう冷たい風が、時折吹き抜けていく。冷えた空気の中で、コントラルトの金色の髪が跳ね踊る。勝手気ままに舞う髪を押さえ、コントラルトは目の前にそびえる山々を見ていた。頂は、頭巾を被ったように白い。

 フィドゥルムは大陸最南端に位置するが、国の北部は比較的標高の高い土地が多いため、真冬には雪の降る地域もあった。ほかの土地は冬でも過ごしやすい気候の場所が多く、またフィドゥルム人は暖かな気候に慣れている者が多いため、北部に住む者は少ない。だが、北部に広がる高地と、今は国境ともなっている山脈が、デイルダの侵略を困難なものにしていた。

「今年は、冬の訪れが早いですね」

 コントラルトの隣りに立ち、同じように冷たい風を受けていたオイセルストが言った。

「ああ……」

 いいことだと思った。冬になれば、いやでも休戦となる。戦場で散る命が減るのであれば、いっそ春など来なければいいとさえ思った。

「……ここは、《沈黙の森》よりもずっと、生きていくのが難しい場所ですね」

 オイセルストの呟きに、コントラルトは弾かれたように顔を上げた。呟きは、今吹いている風のように、コントラルトの心をひやりと撫でる。

 オイセルストが《沈黙の森》にいた理由。それを思い出さないはずがない。オイセルストがいまだにそれを引きずっているとは思えない。だが、まさかという思いは拭いきれない。戦場という場所にいるせいで、一度は捨てた疑いが、また芽を出したのかもしれなかった。

 コントラルトはやはり、オイセルストを救い出してなどいなかったのではないか。

 多くの部下を失った、先日の時のように――。

「わたしは……自分が、情けない」

 オイセルストに向けたのではなく、呟く。顔は自然とうつむいていた。

「わたしの判断が甘かったせいで死んだ部下の数は、三十一人だ。深手を負って生死の境を彷徨っている者は二人。死に至らないまでも負傷した者も多い……」

 コントラルトは手で顔を覆った。

「本当は、誰も死なせたくないんだ」

 深く息を吐くと、白く濁った。

「一人でも多くの仲間を、助けたいと思っている。たった一人でも、多く。だから……」

 コントラルトは顔を上げ、もう一度オイセルストを見上げた。自分を見下ろす彼と、視線が交差する。

「だから、せめてオイセルストだけは、そんなことを、言わないでくれ」

 この時の自分は、いったいどんな顔をしていたのだろう。ひどく情けない顔だったのかもしれない。

「分かりました、コントラルト」

 オイセルストが、コントラルトの肩に手を置いた。

「あなたがそんな顔をしなくていいよう、俺が守ります。あなたも、あなたの部下も、この国も。――すべてを」

 端正な顔で、安心させるように微笑んだ。その顔を見て、コントラルトはこの男は出会った頃と変わっていないのだと思った。悪い方にではなく、良い方に。

 相変わらずの自信過剰な台詞。オイセルストのそんな態度に、何度呆れたことか分からない。だけど、今はその変わらぬ姿が頼もしかった。そう思ったのは、きっと初めてだ。

 それだけ、先日の一件が堪えているのかもしれない。あるいは、自分で思っていた以上にオイセルストを頼りにするようになったのかもしれない。

 今を心地良いと思う、そんな心境に苦笑した。やはり、堪えているのだろう。

「思い上がるなよ、オイセルスト」

 コントラルトは肩に置かれたオイセルストの手を掴み、そっとどける。そして、正面から彼を見据えた。

「わたしは、守られてばかりで良しとする女じゃない。わたしだって、守ってみせる。おまえも、おまえの部下も、この国も。――すべてを」

 たった今自分に向けて言われた、自信過剰だと思っていたはずの言葉をそのまま返す。もしかしたら、オイセルストに似てきてしまったのかもしれない。

「それでこそ、我が妻です。コントラルト」

 オイセルストがにやりと笑った。コントラルトも笑みを返す。きっと、オイセルストと同じように笑っていただろう。

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