二章 体育祭

体育祭-1

(影が長い……)

 夕方、学校からの帰路の途中で僕は忘れ物に気づき、来た道を引き返していた。

 それには電車の中で、それもかなり家に近い場所で気づいた。だから、こうして学校の最寄り駅まで戻り、そこから学校を目指して歩いている今は、かなり遅い時間になっている。

 目の前に落ちる、自分の身長以上の長さの影を踏みながら歩く。

(…………)

 神崎と屋上の前で落ち合い、詫びの品と言葉を受けてから四日が経っていた。

 その間、僕と神崎は一度も会わず、あの時の記憶さえ徐々に薄らいでいる。

 ただ、木下の言葉だけがはっきりと頭に残ってはいるが、今やそれさえ僕の中では意味をなさないものとなりかけている。

 あのことがきっかけで二人の仲が縮まるのならともかく、四日経っても僕と神崎は会ってすらいない。

 全ては丸く収まったのだ。だから、もうあの一件は僕の頭の中から消えかけている。

 そしてまた、代わり映えのない毎日が始まり、今日も今日とて僕は無為に過ごす。

 勉強を投げ、先のことも考えず、打ち込む物もなく、何一つ楽しいことを見つけられずにただ生きるだけ。

 何も新しいことなど始まらない、始まる気配すらない。

(……こんな風に腐った男など、この世にあと何人いるだろう)

 よく、そんな疑問が浮かび上がる。そして、いつも同じ答えが浮かび上がる。

 ここは進学校だ。

 勉学に励んでいる大多数の者、あるいはスポーツに精を出す者、さまざまな活動に参加し、地域に貢献する者。他にも様々な種類の人間が僕の周りにはひしめきあい、それら全員が夢と向上心に燃えているように見える。

 当然だが、学内の生徒たちには年齢層がほとんどない。まして今時の高校生、特に進学校の生徒はほとんどが大学進学を考えている。故にここにいる人間は、社会という大きな視点から見れば、考え方や方向、人間性もある程度限られてくるはずだ。

 社会に出れば、もっと多種多様な人間が動いていることは想像できる。

 でも。

 ほとんど同じ人間ばかりが動いているこの学校の中で、自分のような異端者がいて、自分と同じ、もしくは似たような者は見つからない。

 僕だけが、おかしい。僕だけが、変だ。

 だから、先ほどの自問に「誰もいないのではないか」という答えがすぐに導かれる。

 これは一つの錯覚だった。

 自分だけが、社会に取り残されていると。

 僕は今、この学校という小さな社会に取り残されている気がしている。小さな社会で取り残されるものは、大きな社会でも取り残されることは当然だ。

 周りはみな目を輝かせ、先を見据えるか今を楽しむかのどちらか、あるいは両方に一生懸命。

 なのに自分はどちらでもなく、それどころか貰った命を食い潰すように毎日をただ生きている。

 周りの人間を斜に見ておきながら、同時にその人間たちに変な目で見られている。

(ああ、腐っている。僕は腐り果てている)

 歩きながら、頭を激しく左右に振った。

 考えがそれで打ち消せるわけではなく、単に打ち消したいと思う気持ちの表れだ。何の効果もない。

 結局は、考えてもどうにもならないのだ。

 立ち止まって呟いた。

「僕は、もう駄目なのか」



 詮ないことを考えていても足は勝手に動き、僕の体を自分の教室の前まで運んでいた。

 忘れ物というのは、一問一答型の日本史の副教材だった。月曜日までに、指定されたページを埋めて提出しなければならない。

 今日は金曜日だ。授業のない土日にわざわざ学校へは行きたくないし、土日なんてそれこそ一日中奴らの道具として働かされてそんな余裕などどこにもない。

 面倒だからパスしてもよいか、とも思ったのだが、僕はこれまでもこの教材を何度も提出せずにいた。今回は流石に提出しなければ、定期試験の点数も良くない僕は日本史の成績が「1」になるかもしれない。仮にも進学校だからかなんなのか、僕の高校は「1」がひとつでも付くと留年の危機に陥る。

(ああ、部活の終わった高城にメールして取ってきてもらうという方法もあったのか)

 今さらのようにそんなことを思う。しかしあの男がもしメールを確認しなかったらそこで終わりだと思い直し、これでいいんだと言い聞かせる。

 僕は不確かなものに期待するくらいなら、自分で行動する。

 それは、僕がいつの間にか孤立していったからかも知れないし、大好きだった母が変わってしまったことにより、人を信じられなくなったからかも知れない。

 外はまだ明るいが、時間はもう遅かった。運動部もそろそろ解散となる頃合いだろう。

 早く帰って、あの二人のために家を掃除しなければならない。

 僕は誰もいないはずの教室の扉を開け放ち、中に入った。



「あ……」

 小さな声が、教室の中から聞こえた。

 誰もいないと思っていた教室で、女の子が一人、教室の真ん中ほどの席で座っていた。

 そしてその席は、あろうことか。

「……僕の席で何をしている」

「えっ……」

 現在の僕の座席なのだ。

 女の子は僕の言った言葉を聞くと、しばらく固まっていたが――。

「すっ……すみませんすみません! わ、わたし、ただその……ご、ごめんなさい、いますぐどきますからっ!」

 喚くようにそう言って、机上にある物をかき集めながら立ち上がろうとする。

 そのさまが異様に必死だったので、僕はつい面食らって、「あ、いや、すまない……別にいいんだ」などと言って女の子をなだめようとする。

「急にやってきて、すまなかったな。僕、忘れ物を取りに来ただけなんだ」

「は、はう……」

 なぜ僕のほうが遠慮気味なのだろうか。

 誰もいない教室の中の僕の席でなぜか一人で座って何かをしているというなんとも奇妙な行動を取っているその女の子――四日前に会った神崎開耶と言う名前の少女は、僕がそう言うと心底申し訳なさそうに肩をすくめてその場で小さくなった。

「ちょっと、机の中、いいか」

「は、はいっ! ごめんなさい!」

 近寄ってそう尋ねると、神崎はバネのように立ち上がって僕の席を離れた。僕は机の中に入っていた探し物の教材を出し、鞄にしまった。ついでに問題を解くために必要な日本史の教科書も一緒に持ち帰る。

(…………)

 わざわざ隣のクラスにやってきて、こんな時間に誰もいない場所で何かをしている。気にならないわけがなかった。

「神崎さんは、ここで何をしているんだ?」

 まだ少し離れた場所で硬直している神崎に歩み寄って、そう訊いてみた。彼女は僕が近づくとびくっと身を強張らせたが、やがてたどたどしく「あっ……えと……絵、です」と答える。

「絵だと?」

「絵というか、ポスターです。わたし、体育祭の実行委員なんです」

「ああ、去年も体育祭が近くなると学校中に貼られていたな……あれは実行委員が描いていたのか」

 神崎から目を離し、僕の机を見る。するとそこに、画用紙と、色鉛筆と、彼女のものとみられるペンケースがある。なるほど、絵を描いているというのは本当らしいが――。

「それ、今日が締め切りなのに、忘れてしまって……月曜にってお願いしても、今日残って描きなさいって、先生に」

「……で、どうしてここで描いている」

 僕のさらなる質問に、神崎もまた続けて答えた。

「放課後、実行委員会がこの教室だったんです。席も、勝手に決められて……だから、そのまま……わたしの他にも、忘れた人は何人かいて、そういう人たちはここで描いていたんです。でも、わたしはいちばん遅くて、みんなどんどん帰ってしまって、結局こんな時間になっても、わたしはまだ半分くらいしか……」

「そうか」

 なるほど、事情は分かった。

 この女の子は体育祭実行委員で、今日の放課後にこの場所で委員会があり、おそらくクラス順とかそう言った配列で僕の席とも知らずにここに座らされ、課題のポスターを忘れ、委員会が終わってもそのままこの席から動くこともできず、一人になってもいまだポスターと格闘しているところに僕が忘れ物を取りに現れたというわけか。

(まあ、どうでもいいと言えば、どうでもいいんだが)

 僕には関係ないし、このまま帰ってしまおうか。

 しかし、このまま忘れ物を持って、目の前の女の子を置いて、帰ってしまうのがどうしてだか気が引けた。

「いつから描いていたんだ」

「委員会が終わってからですから……五時半くらいから、ですね……」

 時計を見る。六時二十分だった。

 ということは、このまま一人で描くのであればおそらく完成はどんなに早くても七時半前後になってしまう。

 それから家に帰るとすると、ここからの距離は分からないが、結構遅い時間になってしまうだろう。

(手伝ったほうがいいのだろうか)

 そう思い、悩む。

 奇妙な縁があるとはいえ、この女の子と僕は他人だ。親交もなければ手伝う理由もない。

 だが、この子は僕の目の前で困っているようだった。さて、どうしたものか。

 そんな僕の様子を察したのか、神崎は自分から言ってきた。

「あの、だいじょうぶです。……ひとりで、できますので……」

「そうか?」

「はい……ここまでも、ひとりでやってきましたから」

 そう言って、神崎は僕をよけてから、座っていいのか悪いのか悩んだように妙な挙動を取ったかと思うとそれから遠慮がちに僕の席に座り、ペンを取った。

 その絵をもう一度覗き込む。

 どう見ても、進行状況は半分どころか三分の一も進んでいない。下描きでもう詰まっているようだ。これでは、完成は七時半どころではなさそうだった。

「あ……う……」

 苦戦している状況を見られたのが無念だったのか、神崎は言葉にならないうめき声を小さく上げた。

「……手伝おうか」

「えっ? い、いえ、だいじょうぶですから……」

「終わらないだろう、これでは」

「でも……上杉さんのお手を煩わせてしまいます。貴重なお時間、いただくようなことでもないです……」

「……貴重な時間、か」

 それは、どんな時間だろう。

 一分、一時間、一日をずっと無駄に過ごしている僕に、貴重な時間などあるのだろうか。

 あるいは、流れていく一瞬一瞬の時間がみな貴重なもので、僕はそれをすべて無駄に費やしているのか。

 少なくとも、僕は今までに、この瞬間は貴重な時間だ、などと思ったことは一度もなかった。

「いいんだ。どうせ……時間は嫌と言うほど持て余している。だから、手伝う。……いや、手伝いたい」

 仮にそのまま、神崎を置いて家に帰ったとする。

 すると、おそらく剛史と母親のため、僕は家を掃除するのだろう。いつもと同じ、貴重さの全くない時間がそこにある。

 それよりはこの女の子を手伝ったほうが、貴重とは言わなくともよい時間を過ごせるはずだった。そう思ったから、手伝いたくなった。あとあと面倒なことになると、わかっていても。

「駄目か?」

「あっ、いえ……でも、ほんとうにいいんでしょうか……」

「ああ」

 まだ遠慮がちに聞く神崎に、僕は少しだけ強く頷いて言った。言いながら、隣の席から椅子を拝借し、自席の側面に陣取って座る。

「じゃあ……お願いします」



 七時を五分ほど過ぎたところで、絵は完成した。

 神崎が色鉛筆をしまい、小さく、ふう、と息をつく。

「終わったな」

「はい……思っていたより、ずっと早かったです。ほんとうに、助かりました」

「ああ、良かったな」

「今から帰れば、お母さん、今日もわたしのご飯を食べられます」

 神崎は物を鞄に次々としまいながら、嬉しそうにそう言う。

「ご飯……神崎さんが作っているのか」

「はい、お母さんと一緒に作ることもありますけど、だいたいわたし一人で作っちゃいます」

「…………そうか……」

「……? どうしたんですか?」

 下を向いてそう言った僕を変と思ったのか、神崎は聞いてきた。

 平静を装って、彼女の持っているポスターを指さして言う。

「いや、何でもない。それ、提出して帰ろうか」

「あっ……そうですね」



 一度別れ、昇降口でもう一度合流する。

 別に帰り道まで一緒にいることはなかったが、なんとなく神崎を待っていたくなった。

 少し待っていると、階段を降りてくる神崎が目に入った。彼女は僕の姿を見ると、小走りで僕のもとに駆け寄ってくる。

「待っていてくれたんですか」

「ああ、なんとなく、な。迷惑だったか?」

「いえ……」

 帰る方向は同じらしく、駅までの道を二人で歩いていく。

 少し歩いたところで、神崎が口を切った。

「上杉さんには、迷惑かけっぱなしですね……最初のときも、今も、迷惑掛けてばかりで……」

 俯いたまま、申し訳なさそうに言う。

「そんなことない。迷惑だと思うくらいなら、初めから手なんて貸していない」

「そ、そうでしょうか」

 僕が否定すると、神崎は顔を上げて僕のほうを向いた。

 空は暗くなりかけていたが、神崎はその顔にまだ若干、不安の色を残しているのが見て取れた。最初の印象が穏やかなものではなかったせいか、神崎は僕に対して、無駄に気を遣っているように思える。それは詫びの品を持ってきたときもそうだった。

「あまり、変に気を遣ったり、身構えたりしなくてもいいから」

「は、はい……」

 あまり会話らしい会話もしないまま、駅前に着く。神崎はバスターミナルの中で「6」と書いてあるバス停の前まで歩いていき、バス待ちの人間の列の最後尾に並ぶ。

「わたし、ここからバスで帰ります」

「そうか、気をつけて」

「はい……あのっ、今日はほんとうに、ありがとうございました」

 ぺこっと頭を下げた。

「いいって。また月曜日、学校で」

「はい……」

 僕はそのまま改札口へと向かった。

 改札を抜けてから後ろを振り向くと、神崎はまだそこに立っていて、僕に気づくとまた頭を下げた。

「…………変な女の子だな……」

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