神崎開耶-4

(ここに来るのも、結構久しぶりだ)

 今は、それら過去の記憶のような忌々しさはない。

 相手の目的が恋愛沙汰とかけ離れているからだろうか、それとも――。

「何を期待しているんだ、僕は……」

 一瞬でも、あの子となら悪くないかもしれないなんて思ってしまった自分を責めるように、僕は首を振って妙な期待を打ち消した。

 詫びの言葉を聞いて、それで終わりだと。

 もう一度、改めてそう思った。思うことにした。

(けれど、詫びを言うだけなら教室の前でも良かっただろうに)

 そうも思ったが、相手が場所を指定しているとなるとそういうわけにもいかない。高城の話から考えても、その子は性格的に周囲の人間に見られたり聞かれたりすることを嫌うのだろう。

 なのにそんなことは微塵も関係ないかのように、山口はついてきた。彼女だけではなく、その友人の木下と藤井もいる。

 朝に手紙のことを問い詰められ仕方なくかいつまんで説明したら、山口はそれだけで「面白そう! あたしも行く!」と言って僕の意見など聞かず同行を決め込んだ。何という女の子だろう。

 自分があの子に見つかったらどう取り繕うのかは甚だ疑問だ。

 階段の手すりから身を乗り出し、僕は下を覗き込む。廊下の壁沿いにある掃除用ロッカーの陰に隠れてこちらを見ている女の子が二人。それと反対方向の壁側、被服室の扉の内側に隠れて同じようにしている男女一人ずつ。

(みんな暇なのか……)

 高城までついてきている。僕の視線に気づくと、四人中三人が一斉に僕に向けて親指を立ててきた。呆れてため息が出る。いったい何の合図だそれは。

「なんでこんなことしてるんですか、私たちは」

(ん……?)

 やおら階下で、藤井が大儀そうにそう呟いていた。

「人の事情なんですから、別に見てなくてもいいじゃないですか。早く帰りましょうよ、めんどくさい……」

 乗り気ではない人間もいるようだった。あの中で一番常識的な彼女に、つい感情移入をしてしまう。

(まったくだ。藤井さんの言う通り、どうしてお前らはこんなところにいて出歯亀みたいなことをしている……)

 そんな藤井に、頼まれもせず高城がキザな口調で答えた。

「いいじゃねえか面白そうなんだから。それともなんだ? 早く家に帰って社交ダンスの練習でもすんのかい、マドモアゼル」

「生意気なこと言ってると歯を全部抜いて鼻の穴に詰めますよ」

「すいませんでした」

 そして藤井に返り討ちに遭い、土下座で謝っていた。前言撤回、彼女がある意味一番常識的ではない。本当にやりそうだから怖い。

 そんな光景を呆れながら眺めていると、階下の四人はいきなり物影に揃って引っ込んだ。どうやら目標人物がやってきたらしい。僕も覗きこむのをやめ、自然な感じで待っていなければ。そう思ってとりあえず腕を組んで脚を少し広げ、自然な感じで立ってみる。

 階段の一番上で腕組みをして立って待っているとか、まるで何かのゲームのボスのようだが。

 視界に女の子が映った。少女は一瞬だけこちらを見上げ、僕がいることに気づくと小さく声を上げ、急いで階段を上がってくる。

 間違いなく、先週の調理実習の時にぶつかったあの女の子だ。右手には小ぶりな紙袋を持っている。

(なるほど、お詫びの品か)

 僕と同じ場所に立つと、息を切らしたままぺこっと頭を下げた。

 息が整うまで待ってから、僕は話を振る。ポケットから手紙を取り出し、ひらひらさせながらまずは聞いてみた。

「手紙は読んだ。僕を呼びだしたのはお前で間違いないのか」

「あ、はいっ……ごめんなさい、待ちましたか?」

「いや、今来たところだ」

 なにやら下の階で、ズルバタドスンガタンと何かが滑ったような音や何かがぶつかったような音が立て続けに響いてきた。悪かったな、どうせ使うところ間違えているよ。

 目の前の女の子はそんな様子には気づかなかったのか、気づいても気に留めていないのか、弁解を始めた。

「そうですか……よかったです、わたし、掃除当番でして……」

「ああわかった、それはいい。それで、お詫びというのはそれか」

 面倒だからさっさと会話を終わらせたい一心で、女の子の右手の紙袋を指さす。

「え、あ、はい、そうなんですけど、そうではなく……」

「…………?」

「これはもちろんお詫びの品なんですが、なにより、わたしのせいであんな怪我を負わせてしまって……どうしても、直接会ってもう一度お詫びがしたかったんです……ほんとうに、ほんとうにごめんなさいっ……!」

 音がするほどの勢いで頭を下げられ、僕は少々面食らった。しかも女の子は頭を下げたまま、一向に上げてこない。短めの黒髪がパラリと落ち、それがまた風もないのに少し揺れている。なんだか、自分のほうが悪いことをしているような気にさせられる。

「だ、大丈夫だから、頭を上げてくれ」

 ゆっくりと、女の子の頭が上がってくる。幼さを残した丸顔は真っ赤になり、大きく黒い瞳は今にも泣き出しそうに潤んでいる。

 僕はできる限りの穏やかな口調で、落ち着いてもらえるように言った。

「手の怪我は大したことなくて、この通り包帯も取れた。今では誰も、僕に怪我があったことすらほとんど覚えていない。だから、忘れてくれていいんだ」

「ほ、ほんとうに……?」

「ああ、大丈夫」

「その、ゆ、許してくださいますか……?」

 女の子の声はどんどん小さくなる。腰を引いて、右手を唇に当て、左腕は自分の前で構えている。先日もそうだが、明らかに僕を怖がっているしぐさだ。

 僕からすれば、何をそんなに怖がっているのかと思うほどだ。確かにあのときは怒りもあったが、それにしてもこの怯え方は普通の女子高生のものではないような気がする。

 だから、安心してもらえるように、ゆっくりと。

「許すもなにも、元から気にしてなどいないさ」

 すると少し効果があったようで、女の子は右手を唇から離し、ほぅ、と小さく長い息を吐いてから言った。

「そう言ってもらえるのなら、わたしも少しだけ気が楽です……でもやっぱり、お怪我をされている間は、困ったことたくさん、あったんじゃ……」

「いや、切っただけだし指を動かす分には問題なかった。そうでなくてもどうせ普段からノートは取っていないし、体育も見学できて楽だったし、本当に大丈夫だ」

「そうですか……わかりました、ありがとうございます、上杉さん」

「ああ……」

 まだ不安そうな顔でそう言う女の子に対し、僕はそこで一つ疑問が生じた。

「……ん? なんで僕の名前を知っているんだ? あのとき初対面だったろう」

「えっ!? あっ、あのっ、それは……」

 女の子は僕の問いに言葉を詰まらせた。

 僕は彼女に名乗った覚えはない。考えてみると、自分のロッカーに彼女からの手紙が入っていたことも妙だ。名前を知らないはずなのに、なぜ正確に僕のロッカーに手紙を入れることができたのか。

「え、えっと……その……あの……な、なんといいますか……」

「…………?」

 女の子は胸の前で自らの人さし指をつつき合わせてまごまごしている。目が泳ぎ、あっちを見たりこっちを見たりしている。

「……まあ、別にいいんだが」

 おおかたあの場に居合わせた誰かに聞いたのだろう。大したことではない。そういうことにしたところで、また一つ気がついた。

 僕は、この女の子の名前を知らない。

 手紙にも名前が書いていなかったし、高城がちらっと言っていた気もするがそれも思い出せない。

 せっかくだし、いま訊いてみよう。

「そう言えばこの手紙、名前が書いていなかったんだが」

「えっ?」

 驚く女の子に、僕は手紙を広げ、彼女向きに反転させた。

「あっ……ごめんなさい……」

 それを確認した彼女は、両手で口を押さえる。

「わたし、かんざきさくや、です」

 彼女は名乗ってから、ぺこりと頭を下げた。今度はすぐに頭を上げて、カンザキサクヤは続ける。

「神さまの神、長崎の崎で神崎です。……さくやは……えっと……あっ、そうだ、これ見せればいいんですよね」

 言いながら、神崎サクヤは内ポケットから生徒手帳を取り出すと、すっと身を寄せ、あの透明になっている部分越しに学生証を見せてきた。

(わっ……)

 女の子にこんなに近づかれたことは、ほとんどない。もしかしたらこの距離は過去で最短のそれかも知れなかった。

(いかん、本来の目的を……)

 くだらないことを考えるのを止め、学生証を覗き込む。

 顔写真の横に氏名があった。神崎の後に続く文字は二つ。

 開耶。

 と、そう書いてある。

「変な字書きますよね、これでさくやって読みます」

「そう、か」

「えっと、あの……」

 何か言いたそうに、こちらを見つめてくる神崎開耶。

 ややあって、小さな小さな声で言った。

「よろしく、お願いします……」

「え? あ、いや……」

 今から何をよろしくする気なのだろう。

 僕とこの神崎という女の子との関係は、ここでやっと終わるというのに。

 もうこれ以上、この女の子と話すことなどない。見かけることはあっても、話しかけることなんてない。

 神崎だって、そう思っているはずだ。

 だから、早く会話を終わらせたい。

「じゃあ、そろそろ」

 そう言って彼女から紙袋を受け取る。すると神崎も僕の言いたいことを解してくれたようで、本当にごめんなさい、と最後にまた頭を下げてから、ぱたぱたと階段を降りていった。

 僕は長く息をつくと、その場である程度間を置いてから一つ下の階に下りる。すると、

「ありゃ、終わり? あんだけっすか上杉の旦那?」

 長ロッカーの影からぴょこっと跳び出した木下が、不満そうに言ってきた。藤井もそれに続いて影から出てくる。

「あれ以上何がある。あんたたちは何を求めてここまでついてきたんだ」

「そりゃ、こっから上杉くんのドキドキトキメキハートフルスペクタクルハイパーデリシャスマーベラスローリングムーンサルトハリケーンなラブストーリーが始まったりとかさー!」

「そんなものはない」

 一言で否定した。というか、前半はまだ分かるが後半はなんなんだ。

 すると、後ろから腹の立つ男の声がした。

「まあ確かに、こっからだな。俺も恋愛上級者だから分かるんだけどよ、今の段階じゃお前はまだ恋愛っつうもんを始めてすらいねえ。今日だけじゃ進展がねえのも当然と言えば当然だけどな。これから、上杉があいつにどうつけ込んでいくかが今後の課題だ」

 自称上級者の高城が、腕を組んで満足そうにうんうんと頷きながら偉そうに語りだしていた。山口も彼に並んで、にこにこと笑っている。

「だから、始めるも何もやらないと言っているだろう」

「まあまあ、そう言わずにさ。あの子、地味目だけど結構可愛いじゃん? ほっとくとその辺の男に取られちゃうかもよー?」

「ええい、うるさい! もう帰る!」

 とんだ野次馬どもだ。これ以上付き合っていられない。僕は四人を放って一人で歩き出す。



 高城と山口は部活のため、ここで解散となった。

 その後の僕は、本意ではないのに木下と藤井をくっつけたまま帰路についている。

 歩きながらの話題も、先ほどのことだった。

「あの人は、おとなしいと言うより空気みたいな存在ですね。上杉くんの好みにケチをつける気はないですけど、ああいう人がいいんですか?」

 と、藤井が口を切る。

「何をバカな……いいもなにも、まだ出会って二回目だ」

「けど、上杉くんにしては珍しく、相手の話を最後まで聞いていたじゃないですか」

「だよね! いつもすぐ、『ふん、くだらない』って言って去っていくのにさ! 意外にも!」

「……それは」

 途中から参加してきた木下の言葉に、返す術はなかった。

「やっぱり、こっから上杉くんの、初めてだろう恋が始まるってことに期待大だぜ! いやー盛り上がってまいりました!」

「そんなものは始まらないと言っている。僕もそうだし、ましてあの神崎さんだって、相手のことを好きでも何でもないはずだ」

 そう答えると木下は、わざとらしく肩をすくめて小馬鹿にするように言った。

「はー、恋を知らない子供だなあ、上杉くんは。もしかしたらあっちのほうは、きみとぶつかるよりもっと前から、ずっときみに想いを寄せていたとかそういう可能性だって無きにしもあらず!」

「なんで僕なんかがそんな風にひっそり想われているんだ。ひっそり嫌われる、ということならともかく。なにも持たない僕が、誰かに好かれる理由なんかない」

「上杉くんが自分になにもないって言ったって、その子がきみに何かを見出して好きになってるんじゃないの?」

「そんなわけあるか。自分のことは、自分が一番わかるはずだ。僕には本当になにもない。なにも」

 そう言ったら木下はため息をついて、僕の両肩を同時にバンと叩いた。

「うーん、きみはもうちょい自分に自信持ちなよー。自信持たないとモテないし、モテないとさらに自信なくすっていう、つまりそこには負の連鎖しかないよー?」

「自信満々で彼氏ができない人間を一人知っているが」

「うがっ……」

 僕が言い返すと木下は言うに事欠いて黙った――かと思えば二秒後に再び笑顔でしゃべり出す。黙っていられないのか。

「でもさー、上杉くんもそろそろ、彼女の一人くらい作っといた方がいいよー? じゃないとエリカみたいに行き遅れるよー?」

「誰が行き遅れですか、死んでください」

「ブイヤベース!」

 藤井の右ストレートをモロに横面に受けた木下は、変な悲鳴を上げてふらふらとよろめいた。倒れなかったところに彼女の運動神経の良さが窺える。

 それでも痛そうだったので、僕はつい彼女に声をかけた。

「大丈夫か……?」

「へっ……いいパンチしてるねエリカ……」

 木下は頬を押さえて不気味に笑った。涙目だが。

「まあ、あれだよね。男の子は三十、四十になってもそれはそれでなんかこうダンディーっていうか、渋いオッサンっていうか、別な外見的魅力が滲み出てくるから、そんなに焦んなくてもいいのかもしれないねー」

 ふう、と大げさにため息をついてなおも木下は続ける。

「女は損だよねー。歳とれば老けていくだけで、外見的な魅力はどーんどんなくなっていくのだ! そうして三十歳くらいになってあわてて婚活セミナーとか行きだすわけだけど、セミナー通いしてるって時点で結婚できないってことを露呈してるのと同じだから、余計結婚しにくくなるんだよねー。そういうとこから見てもエリカはもうギリギリだね! あと半年くらいでどうにかしないともうダメだね! 人生のラストチャンスだよ今が……あああああ、痛い痛い、いたたたた! 耳はやめて耳は! 取れちゃう取れちゃう! 取れちゃうからさ!」

 そして性懲りもなく藤井に制裁を受けていた。

「なんでもいいが、僕は別にそんなの始めない」

「ダメだよそんなの!」

 藤井の耳引っ張りから逃れて、ぴょこ、と木下がまた入ってくる。タフだな。

「せっかくのチャンスなんだからさ! もしかしたら、ほんとに自分にピッタリな、運命の人かもしれない、その可能性だってゼロじゃないんだから!」

「…………」

 意外と本気で言っているようだった。その顔に貼りついた笑いが、少しだけ薄くなっていた。耳は真っ赤だが。

 と思っていたら、またいつもの笑顔を全開にして藤井を指さして叫ぶ。

「ほら、この子見てごらん! みじめにも行き遅れた、かわいそーうな女の子の姿をさ! 上杉くんには私、そうなってほしくないんだよね! あははははー!」

「誰が行き遅れでかわいそうですか、死んでください」

 藤井は木下に蹴りを繰り出したが、今度の木下はそれをひらりとかわし、そのまま大笑いしながら走り去っていく。

「あーっははははー! やーいやーい、行き遅れー!」

「この……っ! 逃がすもんですか!」

 藤井は後ろからでも分かるくらいの恐ろしい気迫で木下を追いかけていった。あとには僕が一人残される。

「やれやれ……」

 ため息をついてから鞄を肩にかけなおし、僕はゆっくりと歩き出した。

 遠くから、木下の笑い声が小さく聞こえてくる。

(くだらない……恋愛なんて、最も忌むべきもので……)

 そうだ。

 この世で最も浅ましく汚らわしいのが、恋愛というものではないか。

 僕はあんなものに呑まれはしない。

 母親や剛史のような汚い人間になどなりはしない。

 それでいいはずだ。

 まだ明るい九月の夕空を仰ぎながら、僕はそう思い直して歩き続ける。

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