『坂道』

矢口晃

第1話

 大きな坂道がありました。

 山の方から海の方へ、まっすぐに下る長い坂道がありました。

 その坂の上から、一個のたまごと、一個のさくらんぼが、ころころと転がっていました。

 たまごは、ものすごいスピードで坂道を転がり下りていました。もう、これ以上は出せないというくらいの、ものすごいスピードでした。

 さくらんぼは、のんびりと転がっていました。まるで転がることを楽しんでいるかのように、ゆっくりと静かに坂道を転がっていました。

 たまごは、負けるのが嫌いでした。どんなものにも勝たないと、気が済まないのでした。誰よりも早く坂道を転げ下りたいという気持ちでいっぱいでした。

 さくらんぼは、最初から負けも勝ちも考えてはいませんでした。自分にできないことをできる人のことを、すごいと思って尊敬することはあっても、そうできない自分を卑下することはありませんでした。勝つことが必ずしもすばらしいとは思いませんし、負けることが必ずしもみっともないことだとも思っていませんでした。

 たまごはどんどん速力を高めて行きました。

 さくらんぼは、ころころと、変わらぬ速度で坂を下りていきました。

 やがて、たまごとさくらんぼの距離はずいぶんと離れ、たまごからさくらんぼの姿も、さくらんぼからたまごの姿も、見えなくなってしまいました。

 たまごは、「勝った」と思いました。

 さくらんぼは、「気持ちいい」と思いました。

 やがて、坂道が突然途切れました。そしてそこから急に、まっさかさまに落ちる崖になっていました。

 そんなこととは知らないたまごは、どんどんスピードを上げて行きました。そして気がついた時には、たまごは断崖絶壁から、空へ放り出されていました。

 空へ放りだされたたまごは、なすすべもなく、崖の下の地面に叩きつけられました。坂道を転がって来たスピードの速かった分、たまごは空高く放りだされ、その結果、地面に落ちた時の衝撃も、とても強くなってしまいました。

 地面に落ちたたまごは、無残にも割れてしまいました。

 それからしばらくして、ようやくさくらんぼも崖へ近づいてきました。坂道がいきなり崖になるとは思いませんから、さくらんぼも、やはり勢い余って崖から落ちてしまいました。

 しかしたまごとは違ってあまりスピードの出ていなかったさくらんぼは、崖から落ちる時、それほど高く空へ放り出されることもありませんでした。ですから、地面へ落ちた時の衝撃も、それほど強いものではありませんでした。

 その結果、さくらんぼは地面へ叩きつけられた時、大きなけがを負うことがありませんでした。崖下へ落ちたさくらんぼは、太陽の光を浴びて、きらきらと瑞々しい輝きを放っていました。

 ふと隣を見ると、何分か前に落ちたたまごが、かわいそうに割れてしまっていました。

 それを見て、さくらんぼは、ある決心をしました。さくらんぼは、落ちたその場所からやがて芽を出し、大きな桜の樹に成長しました。

 桜の樹になったさくらんぼは、できるだけ、葉の茂った枝を、めいっぱいに広げました。

桜の樹になったさくらんぼは、こういう決心をしていました。今度いつ、たまごがまた坂道を転がってきても、今度は自分が優しく受け止めて、絶対に割れないようにしてあげよう、と。

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『坂道』 矢口晃 @yaguti

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