第一章 剣と邪眼とヘルメット
第8話
それは、顔を知っているつもりだったのだが、いざ本人を前にすると、どうにもその名前が出て来なかったり――逆に、名前を知っているつもりだったのだが、その名前を前にすると、何故だかその人物の顔が出て来なかったりしたのだ。
つまり、夏目陽景と言う存在が、僕の中で顔と名前とを組み合わせ、一人の人物として認識されていなかったのだ。認識しようとしなかったのか、認識させられなかったのか、どっちにしろ――僕は、夏目陽景を認識することが出来なかった。
けれど、それは何も僕だけではなかった。
入学してからの一、二週間、積極的に友達を作ろうとはしなかった夏目は、目立つことも無く、誰かと話すこともなく、ずっと読書をしているだけだった。最早、このクラスに置いて、存在そのものが無いに等しい――と言っても、過言では無かった。
しかし、今では学校の規模がそこまで大きくはないと言えど、上級生、同級生、下級生を合わせ、更に教師やPTA、保護者を含み、彼女の夏目陽景と言う名前を知らない者は誰一人いなかった。
一人も、だ。
それは、夏目が善良で、優秀で、寛容だったからでは無い。全くの正反対。不良で、劣悪で、粗暴だったからだ。いや――そうなった、と言った方が正しいのかもしれない。
僕たちには、夏目がそのどちらだったのか、分からない。
夏目陽景と言う人間を知らな過ぎて。
ある日のこと。
それは、何の前触れも無く起こった。
夏目は、授業中に突然大声を上げ、自分の鞄を振り回し、暴れ出したのだ。今にして思えば、その様子はまるで自分に迫り来る何かから、自分の身を守る様にしているようにも見えなくも無かったが、あくまでそれは今にして思えることだった。
次の日、昨日大事を取って早退した夏目は、何事も無かったかのように登校して来た。何事も無かったかのように、何事も無く登校して来た彼女に対し、僕等は挨拶を交わすことも無く、いつも通りに何事も無く過ごすはずだった。
そう、はずだった。
すらりと伸びたその長身。
研ぎ澄まされたような鋭い瞳。
手には木刀。
そして、安全第一と書かれたヘルメット。
僕たちは、昨日までクラスにおいて、存在そのモノが無いに等しかったはずである夏目の格好に――いや、夏目の変わり様に、判断やら、解釈やら、理解やら、何もかも不能にされていた。
そもそも、考えること自体が無為だったのかもしれない。
だが、敢えて言うならばそれは、自分を狙う何者かから自身を守るかのような――そんな格好だった。僕が、錯乱していた夏目を、何かから必死に自己防衛しようとしている様に思えたのも、この格好を見てからだ。
しかし、自分が何者かに狙われていると、本気で思っているのだろうか。
授業中だったのだから、間違いなくあの瞬間はクラスメイトと教師以外は誰も居なかった。夏目が錯乱し出したことを除けば、何も起きてなど無かったはずだ。それを僕たちは、はっきりと証明することが出来る。
それなら、夏目は誰かに嫌がらせや、ちょっ掻いを受けていただろうか。
いや、そんなはずも無かった。夏目は、このクラスにおいて、存在そのものが無いに等しかったのだ。文字通り、無いに等しいものに対して嫌がらせや、ちょっ掻いの的になどされようも無い。
だとすれば、あの時の夏目の行動は、どこか可笑しくはないだろうか。
何かに向かって必死に鞄を振り回していたあの姿。自身を守るかの様な木刀にヘルメットと言うその姿。それでは、まるで――見えない敵と戦っているようではないか。
そして、それは起きたのだ。
授業が終わるチャイムと同時に、静かな廊下を伝って、ガラスが割れる音が響き渡って来たのだ。それも、一枚ではなく、何枚も割れる音だった。その音に、教師は慌てて飛び出していった。
勿論、そんな異変に興味本位な野次馬が集まらないはずが無かった。
その光景を目にした女子生徒の一人が、悲鳴を上げた。その悲鳴を聞き付け、更に野次馬を呼ぶこととなり、付近の教室への出入りが出来なくなる程に、廊下は埋め尽くされていた。
一体、何が起こったのか。
自分の中のその疑問を解決する為に、野次馬達の頭を縫うようにして様子を覗き見ると、僕の目に飛び込んで来たのは、予想外の出来事どころか、何があったのかを予想すら出来ない光景だった。
その渦中に居たのは――大量に割られた窓ガラスの中で、木刀を手にし、安全第一と書かれたヘルメットを被り、息を荒げ、ふらふらと立つのもやっとの極限状態だが、それでいてどこか凛とした――夏目陽景が、そこに居た。
そう、その奇抜な容姿も目を引く一因であることには違いなかったのだが、それは夏目がこれ程までに注目を集める本当の理由ではなかった。
夏目陽景と言うその名前を知らない人が誰一人として居なかったその理由は――彼女のあまりにあまるその奇異な行動にあったのだ。
そして、僕はこの時初めて、夏目陽景と言う人物を――認識した。
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