待っているから
ヨナミネは音を立てないように鍵を差し込み、ゆっくり回した。
解錠すると、敷島に場所を譲った。
玄関は引き戸になっていた。
敷島は扉を少しだけ開き、隙間から中を覗き込んだ。
見える範囲に人の姿はなかった。
扉をさらに開け、足音を忍ばせ、中に入った。
広道が後に続く。
そのまま土足で上がり込んだ。
建物の見取図は覚えていた。
入ってすぐ左手は和室だった。
木口と女が寝ているとすれば、この部屋である可能性が高かった。
敷島は襖をそっと開けた。
予想通り、布団が二枚敷かれていたが、寝ている者はいなかった。
奥の台所から食器が擦れ合う音が聞こえた。
敷島と広道は顔を見合わせた。
二人は和室を出て、奥の台所に向かった。
木口とソヨンは向かい合って食事をしていた。
互いに下を向きながら、無言のまま食べることに集中していた。
2人の間に親密な空気はなかった。
よく晴れた朝の、慎ましくも幸せな食卓、と言う雰囲気には程遠かった。
お互い目の前にいながら、その存在をまるで認識していないようだった。
見ず知らずの侵入者に木口が気づいた。
箸を置き、椅子から立ち上がった。
敷島と広道は、警察だとは名乗らなかったが、九一には直観で分かった。
そこから彼の動きは早かった。
ソヨンが箸を置いて敷島の元に駆け寄ろうとしたが、九一が後ろから羽交締めにした。
ソヨンは抵抗するもののためらいがあった。
お腹の子にさわってはまずい。
九一はソヨンを引きずり、流しに近づくと、右腕を彼女の首に回した。
左手でまな板の上にあった包丁をつかみ振り上げた。
刃先はソヨンの膨らんだお腹に向けられた。
つまり、それは我が子に向けた刃であった。
「動くな!」
九一が叫んだ。
敷島と広道はその場に立ち止まった。
「刃物を捨てろ」
敷島は九一に言った。
命令口調だったが、相手を諭すような言い方だった。
九一は覚悟を決めたような表情をしていた。
逃げる様子はなかった。
この場で決着をつけてやる、そんな覚悟に見受けられた。
ソヨンはお腹の子供のために努めて冷静でいようとしたが、込み上げる恐れと悲しみは抑えようがなかった。
掲げられた包丁の鋭利な先端が横目に写った。
九一が締め上げる腕の強さを感じながら震え、涙が自然に溢れた。
敷島は九一に語りかけた。
「警察だ。君は木口九一だな…」
九一は答えなかった。
「分かってる。お前は悪くない」
敷島が言った。
「じゃあ、なぜここに来た」
「話を聞くだけだ」
「こんな朝っぱらにか?」
「まずは刃物を捨てろ。我々が君に危害を加えることはない」
「警察なら分かってんだろ? 分かってるからここに来たんだろ? だったら何を話す?」
「事実を確認したい。それは当事者である君にしか分からない」
「嫌だと言ったら?」
「いずれにせよ、お前を逃がすわけにはいかない。追いかけっこはおしまいだ」
九一は口をつぐんだ。
視線が下がった。
次に何を言うべきか、あるいはすべきかを考えている。
目の動き、唇のわずかな震え、呼吸の速度と深度、咳払い、そんな些細な身体的発信から敷島は心を読み取る術を学んだ。
ナイフを握りしめた右腕は微動だにしなかった。
「帰ってくれ」
九一が言った。
「でなければ、こいつを殺して、俺も死ぬ」
ソヨンの首に巻き付けられた九一の右腕に力が入った。
「やめて!」
ソヨンが涙声で叫んだ。
「私、待っているから…」
ソヨンは両手を掛けるように九一の右腕を掴んだ。
「私、あなたを待ってる。そしたら、今度はお腹の子と3人で暮らしましょう」
女の日本語は拙かった。それゆえ胸に迫る響きがあった。
「勝手なこと言うな」
九一の言葉にはしかし、憎しみは感じられなかった。
彼に殺意がないことを感じ取った敷島は割って入った。
「木口、これまでのお前の行動には正当な理由がある。でも、もし今そいつを振り下ろしたら正当化はできない。わざわざ罪を犯す必要はないだろ。さあ、刃物を捨てて、彼女を解放するんだ」
九一はあっさりと応じた。
包丁は握りしめたまま、しかし、両手を高々と挙げた。
解放された女は倒れ込むようにして敷島に駆け寄った。
敷島は椅子を引き女を座らせた。
「刺すつもりなんてなかった」
九一は言った。
「分かってる。さあ刃物をよこせ」
「何で俺は包丁なんか持ってるんだ?」
握りしめた包丁をまじまじと見つめた。
まるで刃物を持っていることにたった今気づいたようだった。
敷島が近づこうとすると、刃先を向けて叫んだ。
「来るな!」
敷島は立ち止まった。
九一はソヨンに話しかけた。
「ソヨン、ごめんな。どうしてこんなことしたのか自分でも分からないんだ」
九一は首を横に振り刃物を持っていない左の手で髪の毛をくしゃくしゃにしながら、わからないわからないわからないとつぶやいた。
「木口、大丈夫だ。お前は悪くない」
敷島は話しかけながら九一との距離を少しずつ縮めた。
「来るなって言っただろ!」
九一はナイフを突き出し、威嚇した。
敷島は再び足を止めた。
九一を逮捕することは実は容易かった。
もう人質はいない。
刃物を取り上げ、取り押さえればいいだけだ。
しかし、敷島はそれをしなかった。
九一に自ら包丁を捨て白旗を上げてほしかった。
しかし、九一はそうする代わりに包丁を握り替え、刃先を自分に向けた。
しまった!
敷島が飛びついたときには遅かった。
大きく振りかざした包丁を、九一は自らの腹に突き立てた。
ソヨンが悲鳴を上げた。
九一はひざまずいた。
敷島たちが駆け寄り、九一を押さえつけた。
腹から血があふれ出していた。
敷島は九一の身体を横たえた。
「救急車! 救急車を呼べ!」
敷島が叫んだ。
ソヨンが駆け寄った。
横たわる九一のそばに屈み、涙を流して九一に叫んだ。
「なに!? 一体なんなのよ、これ!?」
「・・・分かんないよ」
九一は女の頬に手を伸ばした。
「ごめんな、ソヨン」
力ない声で言うと九一は意識を失った。
(つづく)
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