居酒屋の客

@wirako

第一話

 最近、居酒屋にハマっている。


 といっても、僕はまだ十九歳の大学一年生。お酒が飲める年ではない。それに、僕はお酒が嫌いだ。だから二十歳になったとしても、あんな飲み物にわざわざお金を払うつもりは毛頭ない。


 僕がお酒を嫌う理由は三つある。まず、臭いだ。僕にとってお酒のアルコール臭は、小学生の頃に参加していた廃品回収の日を思い出させるのだ。


 それは毎月一回、第三土曜日に行われ、マンションの住民が共同で利用するゴミ置き場に溜まった紙類や空き缶などをまとめて、リサイクル資材として業者に回収してもらう、大掃除兼住民の交流の日だ。住民のうち、小学生は全員参加という暗黙のルールがあったため、五階に住む僕は嫌々ながらも毎月顔を出していた。


 作業中は当然、ゴミの臭いで鼻は曲がるし、いつ付着したのか分からない汚れに悩まされるし、人見知りなのに他の住民と一緒に作業をしなくてはならないしで、気分は常に最悪だった。


 中でも空き缶潰しは一番嫌いだった。我がマンションには酒飲みが多いせいか、大量の空き缶がゴミ置き場に溜まる。それをゴミ置き場のそばで、一つ一つ足で踏んづけてコンパクトにする決まりがあるのだが、この作業がまあ臭い。


 七階に住む後藤ごとうのおじさんが、かごをひっくり返して産卵のごとく放つ空き缶からは、アルコールとゴミの不愉快な臭いが発せられる。この独特な臭いは何度経験しても慣れることはなかった。おかげで毎回空き缶潰しに張り切る後藤さんのことも好きにはなれなかった。


 空き缶を潰す作業も、垂直に足を下ろせば子供の力でも簡単にぺしゃんこにできるが、少しでもバランスを崩すと空き缶があらぬ方向へ飛んで行ってしまう。最悪の場合、空き缶の中に残っていた中身を足にかぶることになるから油断できない。


 それでも、月に一回だったからまだ耐えることができた。喉元のどもと過ぎれば熱さを忘れる、とはよくいったものだ。


 しかしそんな僕の覚悟は、空き缶よりもぺしゃんこに潰されることになる。


 今でも忘れない、あれは僕が小学四年生だった頃の夏休みに行われた廃品回収の日だった。


 いつものように臭いに耐えながら足を振り上げては振り下ろす動作を繰り返し、ふと集中力が切れた時にそれは起こった。僕の足は空き缶の中心を外れ、それによってすべった空き缶はゴミ置き場の壁面にぶつかり、跳ね返って僕の足に内容物をひっかけのだ。


 小さな悲鳴を上げた僕は、ぷんと鼻を突く不快臭にまみれた靴下に、なにか小さくて黒い物体が引っついているのを見た。なんだろうと思い顔を近づけると、それは唐突とうとつに靴下からふくらはぎへ、ふくらはぎから太ももへと凄まじい速度でい寄ってきた。


 子どものゴキブリだった。


 さきほどとは比べものにならない絶叫ぜっきょうを上げた僕は、腰が引けてその場に尻餅しりもちをついてしまった。そのままバタバタと足と振る。必死のあがきでどうにかこうにかゴキブリを振り払いほっと安堵あんどすると、今度はお尻に違和感を感じた。タイルの地面に尻餅をついたはずなのに、でこぼことした感触が伝わってくる。潰し損ねた空き缶の上に転んでしまったのだと瞬時に悟った。


 が、それにしてはお尻のある一点がくすぐったい。僕はおっかなびっくり腰を上げてみた。


 それを待っていたかのように、僕が乗っていた空き缶の飲み口から、ひょいっと別の子ゴキブリが顔をのぞかせた。続けて、一匹目を押しやるように二匹目、三匹目、四匹目が無機質な母胎ぼたいからわらわらわらわら……と産み出され、僕の足に飛びついた一匹と共に辺りを駆けずり回った。


 無論、その場にいた全員が大パニックとなり、掃除の場が阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図へと変貌へんぼうした。


 こうした経験から僕の脳は、アルコールをぐとゴキブリを連想し、ゴキブリを見るとアルコールの臭いが思い起こされるトラウマを植えつけられた。以来、僕は中身が見えるペットボトル飲料を好んで飲むようになり、廃品回収には二度と参加しなくなった。


 二つ目の理由は、お酒に飲まれる人間があまりにもみにくいからだ。


 僕の親父はかなりのお酒好きで、休日は朝からお酒を買いに行く。それを昼と夜の食後にがぶがぶと飲むのだが、その後しばらく経つと、いつのまにか横になって大いびきをかく。その姿がなんとも情けない。妊婦のように膨らんだ腹を上下させながら地鳴りにも似たいびきをかく様は、自分の父親であっても醜悪しゅうあくと評する他ない。こんな人間にはなりたくないと常々思う。


 三つ目の理由は至極単純で、ただただまずいからだ。


 過去のトラウマと親父の反面教師振りから、絶対にお酒にはかかわらないとちかっていた僕だが、未知の味への好奇心にはどうしてもあらがえず、一度だけ親父に勧められたビールを一口飲んだことがある。


 そのまずさは衝撃的だった。とにかく苦い。そしてえぐい。こんなにもまずい飲み物が世界中で親しまれていることが信じられなかった。めまいと走馬灯そうまとう併発へいはつしたのは後にも先にもこの瞬間だけだ。


 そんな僕がなぜ居酒屋に興味を持つのか。それは酔っ払いが面白いから。これに尽きる。


 僕と親父とお袋、そして妹の四人で住んでいる、都の外れにある十階建てマンションの裏手には、金網をへだてて長さ五十メートルほどの、アスファルトで舗装ほそうされた小道が縦に伸びている。横幅は軽トラック一台分より多少広いくらいだ。両脇には道に沿うように二軒ずつ一軒家が立ち並んでいて、その短い小道の先に、僕が関心を寄せる一軒のこじんまりとした居酒屋<ヨミ>が店を構えている。


 ヨミの居酒屋としての見た目は、特にこれといって目立ったところはない。木材でできた引き戸にはくもりガラスがはめ込まれていて、引き戸を開閉する際は昔懐かしの――といっても僕がその時代を知っているわけではないが――ガラガラガラ……といった小気味いい音が響き渡る。店先にはぼんやりと赤く灯った提灯ちょうちんかかげられ、誘蛾灯ゆうがとうめいてふらっと通りがかる客をいざなう。


 店主は恐らく、僕が何度か目にしたことのあるお婆さんだ。白髪頭しらがあたまと腰の曲がった姿が、どことなく居酒屋の店主としてのそれっぽさを僕に感じさせた。もしかしたら、このお婆さんの名前がヨミなのかもしれない。


 店の前は、一本目の小道と同じような幅の小道が横に伸びている。この辺りは昔こそにぎわいを見せていた商店街だったが、現在は他に小さなカラオケバーが一軒と、なにやら怪しげな団体が老人相手に講演会を開く集会所以外は閑散かんさんとしている。


 各建物の立地場所を簡単に丁の字で見立てると、僕の住むマンションが縦棒の一番下で、その縦棒の両脇に二軒ずつ、計四軒の一軒家が建っている。そしてヨミは縦棒と横棒の交わる場所に存在する。


 はじめてヨミの存在を知ったのは、五月中旬のことだったと記憶している。自分の部屋で寝転がりながら遊んでいたスマホゲームのライフポイントを使い切り、そろそろ寝ようかと思っていた矢先、ふと外の騒がしさに気づいた。


 曇りガラスの腰高窓こしだかまどを開けて五階から外を見ると、丁字路の交点に店を構えていた蕎麦屋そばやが、深夜一時にもかかわらず暖色の提灯で店を照らしていた。店先ではサラリーマンとおぼしき二人の男がなにかいい合っている。


 あそこの蕎麦屋って、もう誰もいないはずじゃ……。


 この日から半年ほど前、蕎麦屋<まいづる>を営んでいた老夫婦は、借金を苦にして首吊り自殺した。しかもあろうことか店内で、だ。発見が遅かったせいで店内は腐敗臭であふれ返り、ご近所は大騒ぎだったそうだ。これは、その手の情報には鼻が利くお袋から聞いた話だ。


 とにもかくにも、明かりと人が存在するということは、あのいわくつきの物件に店を構えた酔狂すいきょうな人間がいることになる。


 胸から上を窓から出してじっくり店構えを観察してみると、それはどうも居酒屋のようだった。


 ただそれだけなら僕もさして興味は湧かなかっただろう。だが、そのあとすぐに僕の好奇心が刺激されることとなる。


「なんだてめえ、やるのか!」


「調子に乗るなよ、こら!」


 店先にいた男の一人が、もう一人の肩を乱暴に押したかと思うと、突然二人が取っ組み合いをはじめた。


 酔っ払いか……。


 よく聞けば、二人共ろれつがあまり回っていない。お酒に飲まれて気が大きくなっているのだろう。


 近所迷惑だとは思ったが、このまま寝入ってしまうのももったいない、と僕はお袋譲りの野次馬根性を発揮し、事の行く末を見守ることにした。


「逃げんじゃねえぞ!」


「お前こそ!」


 二人はなりふり構わず相手に殴りかかる。が、お互い酔いが回っているためか、それとも単純に慣れていないためか、それは子どものケンカのように映った。擬音ぎおんで表現するなら「ポカッポカッ」といったところだ。


 二人共らちが明かないと考えたようで、殴り合いを止めた手でお互いが相手の服をつかんで、ぐるぐるとその場で回りはじめた。そのさなかでも荒い息と怒声が、静まり返った夜空に響き渡る。しかし本人たちは真剣に怒っていても、まるで遊園地のコーヒーカップみたいに回転する光景はとにかく滑稽こっけいで、僕は深夜のテンションも相まって、笑いをこらえるのに必死だった。


 そうしているうちに二人はついに足が絡み合い、小道のど真ん中でずてんっと倒れ込み、うめき声を上げたまま動かなくなった。


 僕はとうとうこらえきれずに、声を上げて笑い転げてしまった。世の中にはこんなに面白い人間がいるのか、と妙な感動さえ覚えた。


 しばらくして立ち上がった二人は、再び文句をいい合いながら、どこからか聞こえてくる自動販売機の稼働音をBGMにして、夜の闇に消えていった。


 この光景に満足感を覚えた僕は、たびたび夜更かししては酔っ払いたちの動向を覗き見る生活を送るようになった。




 次に珍客を見たのは、夏の訪れを感じさせる六月下旬のことだった。


 大学の参考書を開きながらアイスコーヒーを片手に勉強に励んでいると、いつぞやのサラリーマンの時のように騒がしい……というより、やかましい声が耳に入ってきた。


 壁かけ時計の短針が二時を指しているのを一瞥いちべつして、外の人間に見つからないよう部屋の電気を消してから、網戸越しに様子をうかがった。


 ヨミの近くに男が二人、女が三人の計五人がたむろしている。提灯の明かりが逆光になって顔までは判別できないが、声の質はどうやら若者のようだった。


 五人はおぼつかない足取りで一軒の家の前に立った。僕から見て丁字の右側に建つ二軒の、奥側の家だ。


「○○ちゃーん、いるんでしょー」


「一緒にあそぼーよー」


 女のうち一人がインターホンを鳴らし、あとの二人が大声で○○ちゃんに呼びかけている。残る男二人は、お酒を覚えたての大学生のようなテンションで三人をはやし立てている。


 ○○ちゃんとやらは無反応だ。僕も同じ立場だったらだんまりを決め込むか、素直に警察を呼ぶ。近所に彼らの仲間だとは絶対に思われたくない。


 いや、あの家の住民は本当に彼らとは無関係なのかもしれない。なぜなら彼らは酔っ払いだからだ。思考力が鈍って○○ちゃんの家を間違えて認識している恐れがある。僕は眼下の光景を楽しみながらも、被害を受けている家の住民に心から同情した。


「ちょっと、早く出てきてよー」


「マジむかつくんですけど」


「○○ー、水飲ませてー、水ー」


 次第に五人は無視され続けていることに腹を立てたようで、執拗しつようにインターホンを連打し、門扉もんぴを乱暴に揺らし、声のトーンも一段上げはじめた。それに比例して僕の同情心、そして好奇心が膨れ上がる。あの家の住民には悪いが、これからどんな展開が待ち受けるのか楽しみで仕方がなかった。


 実際に「対岸の火事」を見たことのある人たちも同じ心境だったのではないだろうか。遠くの家々が燃え盛り、壊れていく様に恐ろしさを感じつつも、それと同時に、祭りに近い興奮や高揚感こうようかんを味わっていたに違いない。ことわざ通りに、自分に被害が及ばないからといって、非日常を無関心でいられたとは到底思えない。


 それにしても、こんなに大きな騒ぎが起きているのに、どうして店主のお婆さんは注意しに出て来ないのだろう。


 やはり怖いのだろうか。相手は若者五人だ。逆上されて殴りかかられでもしたら、お婆さんなら最悪死んでしまう。それに、心証を悪くしたらもう店には来てくれないかもしれない、というシビアな理由もあるだろう。


 いやしかし、このまま知らんぷりしてしまう方が、長い目で見れば店にとって悪影響を及ぼしそうなものだ。少なくとも近隣住民はいい顔をしないだろうし、悪化すれば警察にも目をつけられるだろう。店を退去させられる可能性もある。だからパフォーマンスでも、一度は店から顔を出して一言注意するべきだ、と僕は思う。


 結局僕があれこれ考えを巡らせている間に警察が駆けつけ、わめく五人を連行していった。お婆さんは最後まで出てくることはなかった。




 それから二週間が経った。深夜三時。また面白い客が見られそうだ。僕はいつものように室内の電気を消し、網戸を通してそっと外を覗いた。


 今回の客は男女のペアだった。声の質からして、どちらも中年と思われる。


「てめえなんか目障めざわりだ、消えろ!」


「お願い、話を聞いて!」


「もう聞いただろうが! この豚が!」


 男のいう通り、女はぽっちゃりと呼ぶにはだいぶ肉づきがよかった。逆に男はごぼうのようにほっそりとした体つきだ。


「てめえは一人で帰れ! もう知らねえ!」


「いやよぉ! 置いてかないでぇ!」


 男はさっさとその場を去ろうとする。それに女がすがりついた。


「触んなこの裏切者! 糞野郎が!」


「違うの、誤解なのよおお!」


「あれのどこが誤解なんだよ! 売女ばいたのくせに調子に乗んじゃねえ!」


 争点がなんとなく分かった気になった僕は、ますます目を凝らし、耳をそばだてた。


 それにしても声が大きい。以前のサラリーマンや若者も騒がしかったが、この二人は肺から酸素をすべて放出する勢いで、獣の咆哮ほうこうにも似た叫びを上げている。ここまで声が大きいと近くの四軒の家のみならず、僕以外のマンションの住民も二人のやり取りに耳を傾けているかもしれない。


「あああぁ、うぜえ! 殺す! てめえなんか殺してやる!」


 男は絡みつく女を振りほどき、とうとう暴力を振るいはじめた。たるのように丸まった女を何度も踏みつけ、蹴り飛ばす。それまでにやついて事態を楽しんでいた僕も、この光景に良心が痛まないほど人として腐ってはいない。かといって突然の出来事にどうしていいのか分からず、ただ自分の部屋でおろおろすることしかできなかった。


 幸いすぐに警察が現れ、男は拘束された。女の方はうずくまったままだったが、ほどなくして救急車が駆けつけて彼女を運んでいった。店主であろうお婆さんはまたしても姿を現さなかった。


 僕はうっすらと背筋が寒くなった。たがが外れた酔っ払いの危険性を目の当たりにしてしまったからだろう。それに加え、酔っ払いの狂い振りが段々過激になってきているのも、恐怖を増幅させる要因の一つだった。


 もう止めようかな……。


 酔っ払いを観察したい、もっと面白い光景を見たい、という衝動は僕の胸にくすぶるが、もし今日のような男に万が一でも覗き見ていることがばれたら、大変なことになりかねない。僕だけならまだしも、家族には絶対に迷惑をかけたくない。


 僕は遠ざかる救急車のサイレンを遮断しゃだんするために、多少室内が暑くなるのを我慢して窓を閉めた。




 喉元過ぎれば熱さを忘れる。この性格はまだ僕の中に根づいていたらしい。夏が本格的に顔を出しはじめた一週間後の今日も、引き戸が開け放たれる音と、そのあとすぐに小さく連続した異音を聞きつけた僕は、ヨミを観察しようとベッドから起きた。


 今の僕は欲求への衝動を抑え切れずにいた。五階という、高過ぎず低過ぎずの位置に部屋があるのもそれを助長させた。もはや今の僕は、あの居酒屋とその客にかれているといってもいい。


 今日の客は、丁字路の縦棒の丁度真ん中あたりにいる。そのため提灯の明かりが届かず、なんとなくの輪郭りんかくをつかめこそするものの、男か女かは判別しづらい。ただ、男だろうと推測はできた。


 その客はなにが楽しいのか、両手を横に伸ばして目一杯跳躍ちょうやくを繰り返していた。それがアスファルトを蹴る音となって僕の耳に飛び込んできたのだった。跳躍の高さは驚くべきことに、周囲の家々のへいを飛び越えそうなくらいだ。だから僕は身体能力からかんがみて男だと当たりをつけた。


 男は休むことなくその場で跳躍を続ける。途中から回数を数えてみたが、ペースを乱さずに百を軽々突破した。驚嘆きょうたんに値する体力だ。運動不足気味の僕なら十回でギブアップだろう。


 たーん、たーん、たーん、たーん、たーん、たーん……


 ひたすら規則的に、アスファルトを蹴りつける音が辺りにこだまする。男はなにを思ってこの行為を続けているのだろうか。酔っ払いだから特に深い意味はないのだろうか。どちらにせよ、不気味なことに変わりはないが。


 不気味……。


 そう、その男は不気味だった。今までの客からは、アルコールによる感情の暴走、そして理性の崩壊からくる破滅的な恐怖を感じこそすれ、まだ僕の理解の範疇はんちゅうにいた。行動の中に人間らしさを感じ取れた。


 だが、今僕の目に映っている男は、これまでとは打って変わって騒がしさが動から静に変化した分、別のどこかが狂ってしまっているように見える。とても同じ人間だとは思えない。


 男の跳躍回数は既に三百を突破している。人間の身体能力には詳しくないが、たとえオリンピック選手だって、塀の高さまでの跳躍を数百も繰り返していられるわけがない。仮に可能だとしても、そんな優れた人物がわざわざこんなさびれた場所に現れ、酔っ払い、奇行を行う確率などゼロに等しい。あり得ない。


 そうだ、こんなのあり得ない……。


 蒸し暑い夜なのに、まといつく悪寒によって体がすっかり冷え切っていることに気づいた。汗が背筋を伝い、思いがけずぞくっと体がびくつく。もうベッドに横たわって、なにも見なかったことにしたい。


 たーん、たーん、たーん、たーん、たーん、たーん……


 僕がただならぬ恐怖を感じている間に、男は少しずつヨミの方へと跳躍していく。今なら男の顔はマンションとは反対の方へ向いているはずだから、この機を生かして窓を閉めてしまおう。クーラーは苦手だが、この暴れる心臓を冷ますには現代文明の英知に頼るしかない。


 僕が一歩後ろに下がり、窓に手をかけたその時だった。


 タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ――


 男は腕をぴんと伸ばしたまま体の向きを変えることなく、驚くべき速度でこちらへ向かって跳躍してきた。


 うわあぁ!


 声こそれなかったが、実際は飛び上がるほど驚いた。


 男がぐんぐんとマンションへ迫る。跳躍の高さは今までと比べ物にならないほど低く、間隔も狭い。さながら案山子かかしの水切りだ。


 実は正面を向いていたのか? そんな疑問をいったん頭の隅に置き、僕は急いで窓を閉めた。念のために鍵も素早くかける。


 男が金網にぶつかったらしき耳障りな騒音が響いたのと、僕がレースのカーテンを引いたのがほぼ同時だった。


 僕はカーテンを握ったまま動けなくなってしまった。体が戦慄せんりつで硬直してしまっている。


 時計の秒針が無機質に、そして規則正しく時を刻む。僕はそれを石像のごとく固まって聞き続けた。


 あいつはどうなったんだろう……。


 しばらくしてようやく金縛りから解放された僕は、気になっていた疑問を心の中でつぶやいた。


 絶対に見てはいけない、関わってはいけない……僕の心が警鐘けいしょうを鳴らす。その一方で、ぶくぶくと膨らんだ好奇心が、自制心を押し潰してしまいそうになる。


 しばらく迷った結果、悪魔が天使を駆逐くちくした。僕はもう一度カーテンと窓を恐る恐る開き、目を細めて眼下を覗き込んだ。


 誰もいない……。


 男の姿はなく、男が衝突したはずの金網にも変わった点は見当たらなかった。


 その後も辺りを見回してみたものの、収穫はなかった。人の営みも、ヨミの明かりと遠くから聞こえてくる自動車の走行音のみで、他はなにも感じられない。


 僕は狐につままれる思いで眠れない夜を過ごした。今度こそあの店に興味を持つまい、と決意しながら。




 笑い声が聞こえる。


 くすくす、くすくす……と押し殺した男女の声が、はかなさとやわらかさに満ちた月明かりと混じって僕の部屋に届く。それは楽しげに笑い合っているようにも、侮蔑ぶべつを込めて嘲笑ちょうしょうしているようにも聞き取れる。ただ一つ確かなのは、それは聞く者の不安をあおり、つのらせ、狂わせる笑い方だということだ。


 僕の体には、もう何十分も前から鳥肌が立っている。クーラーのせいではない。眠ろうとしているのに、あの笑い声は壁や窓をすり抜けて耳に忍び込んでくるのだ。小さな音のはずなのに、気持ちの悪いくらいはっきりと聞こえてくるために、目を閉じるのも怖くなってしまう。


 時計を確認する。深夜二時。この時間帯は魑魅魍魎ちみもうりょうが町を跋扈ばっこする、と昔観た心霊番組でいっていたのをタイミング悪く思い出してしまった。外にいる二人の男女は魔物なのだろうか。あの跳躍男も、そして店主のおばあさんも……。


 怖い。外を見るのが怖い。早く朝を迎えてしまいたい。それなのに、窓を開けたい衝動に駆られてしまう。これは好奇心ではない。恐怖に対する自衛本能だ。このままあの笑い声を聞き続けていたら、日の光を浴びる前におかしくなってしまいそうなのだ。だからいっそのこと、窓を開けてその姿を確認したい。一目見るだけでいい。


 未知の相手を既知に変えてしまえば、恐怖心をなくすことはできなくても、いくらか和らげることはできる。「知っている」ということは、多少なりとも相手を理解するということだ。それはある程度の安心にもつながる。


 逆に、「知らない」というのは恐ろしい。足りない分の情報を想像でおぎなってしまう。想像には際限がない。ただの家鳴やなりが殺人鬼の足音にも、化物の吐息にも姿を変えてしまうのだ。


 僕は一つ深呼吸をして、窓の鍵に手をかけた。びつきによるささやかな物音も立てないように、慎重に窓を横に引いていく。


 金色に輝く月の下で、ぼんやりとした赤い光が見えてきた。ヨミの提灯だ。


 途端にいいようのない違和感に襲われた。眼下には今までとは明らかに異なる空間が広がっているのだと直感的に悟ったのかもしれない。


 やがて人影が見えてきた。二人だ。どちらの人影も黒い影がのっぺりと張りついていて、人相がはっきりしない。かろうじて判別できるのは、背の高さくらいだ。左の方が背が高い。たったそれだけの情報しかこの距離では得られない。


 くすくす、くすくす……


 二人は向かい合ったまま笑い続けている。肩を揺らす、背を曲げる、などの笑いにともなう動きは一切ない。実はマネキンがそこに立っていて、見えない場所で男女が笑い合っているのではないか。そんな突飛な考えが浮かぶほど異様な光景だった。


 くすくす、くすくす……


 笑い声だけが今、この空間を支配している。空気を震わせ、建物に反響し、ありとあらゆる隙間に染み渡っていく。


 おかしい……。


 僕はようやく違和感の正体に気づいた。


 音がない……。


 この部屋で生じる音と男女が発する声は聞こえるが、それ以外の音がまったく耳に入って来ない。深夜という時間帯はどんなに静かでも、耳をすませば自動販売機の稼働音や自動車の走行音、季節によっては虫の鳴き声が聞こえてくるものだ。


 しかし、ここではいくら耳に神経を集中させても、第三者の発するかすかな音さえ鼓膜に触れることがない。まるでこの世界の住民が、僕たち三人だけだとでもいうかのように。


 僕は危機感を覚えた。あちらの声がこちらにはっきり届くなら、こちらの音もまたあちらによく聞こえているかもしれない。僕は机の上のリモコンを手に取り、慌ててクーラーを消した。その一連の動作が普段の何十倍にも大きく聞こえる。呼吸は無意識に止めていた。


 ……。


 …………。


 ………………。


 …………………………。


 無音。僕がクーラーを消すと同時に、ついに笑い声すらもこの世界から消失した。あとはわずかに胸の心音が聞こえてくるのみだ。


 二人は今どうしているのか。僕に気づかず帰ったのか。帰ってくれたのか。


 僕はたっぷりと時間をかけて窓の前に立った。そのまま窓を閉める選択肢は存在しなかった。今の状態で呑気のんきに寝転がれるほど僕の神経は図太くない。


 そぅっ……と、外の様子を確認する。二人はまだ同じ姿勢で店の前にいた。心なしか、二人を包む影が濃くなったように見える。


 どうやら僕の存在に気づいてはない。そっと安堵の息をついた。


 その時、二人の顔がこちらを向いた。


 ひっ!


 悲鳴が口から出なかったのは幸いだった。だが、目が合っている。影で覆い尽くされているのに、それがことごとく理解できてしまった。


「君も来なよ」


「あなたもいらして」


 さあっ……と血の気が引いていくのを感じた。


 喋った。ついに言葉を発した。しかしその声は、今までの笑い声とはまったく異なり、録音したテープを逆再生したかのような不自然さをはらんでいた。


 人間じゃない……。


 あれは血の通った生物ではない。視界に広がる無音の世界も、僕の見知った町ではない。この窓を境界線にして、化物の巣窟そうくつが口を開けているのだ。


 もう限界だった。これ以上は耐えられない。僕は震える手で窓に触れた。


 それをさせまいとばかりに、二人はこちらに向かって歩いてきた。


「うわあっ!」


 とうとう声を上げてしまったが、ばれているならさして変わりはない。なにやら上の方で物音がしたが、構う暇もなく急いで目の前の鍵を閉めにかかった。


 僕は肩で息をしながら、震える足を精一杯動かして玄関の戸締りを確認し、自室の鍵もかけ、レースのカーテンも忘れずに引いてからベッドに入った。


 頭が沸騰してしまうほど熱い。しかし体は悪寒に侵されて芯まで冷えている。なんとも気持ち悪い状態だった。


 頼むからもう帰ってくれ……!


 自分の呼吸がうるさくて外の気配が伝わらない。息を止めてみる。なにも聞こえない。深呼吸をしてからまた息を止める。やはりなにも聞こえない。足音一つ響かない。


 帰った……?


 わずかな希望が胸のうちに芽を出した。


 だがそれも儚い命だった。


 ぴちゃっ、ぴちゃっ……


 水しぶきに似た音が僕の心をかき乱した。


 ぴちゃっ、ぴちゃっ……


 ずっと下の方から聞こえてくる。


 ぴちゃっ、ぴちゃっ、ぴちゃちゃちゃ……


 音の数が増えた。徐々に徐々に、上へ上へと登っている気がする。


 ぴちゃっ、ぴちゃちゃちゃ、ぴちゃぴちゃぴちゃ……


 確実にこちらに迫っているのが分かる。


 ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ……


 突如速度が増した。もうそこまで近づいている。


 ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ……


 ついに音がすぐそばまで到達した。


 ぴちゃ……


 ……………………。


 音が止んだ。


 僕の視線は今、曇りガラスの向こうに釘づけとなっている。


 ドクン、ドクン、ドクンと心臓が恐怖にのたうち回る。今にもせきが切れて悲鳴を上げてしまいそうになるのを必死に我慢する。涙を流す余裕などありはしなかった。


 視界に黒いなにかが映った。


 それは窓の下からにゅうぅぅっ……と伸びてきた。続いて細く黒いものが二本、なにかの左右に現れ、ぴちゃっと窓に張りついた。


 覗かれている……!


 僕は飛んでしまいそうな意識の中でそう確信した。最初に出て来たなにかは「頭」らしきもので、横の細いなにかは「腕」らしきものなのだ。


 しかし、その「らしきもの」は、決して人間のそれではなかった。人間でないものが人間の形を成そうとした、異形の姿だった。


 目の前にいるなにかは、いまだ窓に「頭」をくっつけて僕の姿を認めようとしている。僕をあちら側に連れて行こうとしている……。


 ぴちゃっ……


 新たな「腕」が窓に張りついた。そしてもう一体のなにかが、またしてもにゅうぅぅっ……と姿を現した。


 二体のなにかが僕を覗く。「目」を凝らして、じぃっと僕を見つめ続けている。


 ここは悪夢か、または地獄なのか。僕はもう気を失ってしまいたいと心の底から願った。耐えられない。あと少しでもこの状況が続けば、間違いなく僕の中のなにかが壊れてしまう。


 その怯えが僕の体を僅かながら動かし、ギシ……とベッドをほんの少しだけきしませた。軋ませてしまった。その瞬間、


 ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ……


 音に反応したなにかの一体が、「頭」と「腕」を勢いよく、かつ不規則にしならせて窓にへばりつく。離れてはまたしなってへばりつく。壊れた玩具おもちゃのように何度も何度も何度も繰り返す。


 もう一体のなにかは、歓喜に打ち震えたかのように窓とその周囲を縦横無尽じゅうおうむじんに走り回る。機敏きびんに、そしておぞましく視界を黒く塗り潰す。その時「胴体」と「足」が見えた。どの「部位」もいびつさにまみれていた。


 ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ……


 なにかの発する音が、無音だった室内に反響する。反響してこだまとなる。こだまとなってものいわぬ声となる。声となって僕を誘い続ける。おいで、おいでとささやいてくる。僕の頭は次第に混乱してくる。なにがなんだか分からなくなる。分からなくなった僕は立ち上がる。窓に向かって歩き出す。自分がなにをしているのかが分からない。どこへ向かおうとしているのかも分からない。ただひたすらぴちゃぴちゃに身をゆだねる。ぴちゃぴちゃは気持ち悪い。でもどこか気持ちいい。不思議な気分。手を伸ばす。鍵に手をかける。ぴちゃぴちゃの波が体を震わせる。頭がぼんやりしてくる。次第に視界もぼんやりして、ぼんやりして――




 幸運なことに、僕の意識はそこで途絶えたらしい。どこからか聞こえてくる騒がしさに気づいて起き上がると、窓に映るのは夏の暑い日差しで、あの底の知れない闇の姿など、どこにも見当たらなかった。


 世界には平穏で何気ない、当たり前の日常が広がっていた。


 ただ一つ、マンションの裏手に横たわる後藤さんの死体を除いては。




 後藤さんは首があらぬ方向に曲がっていた上に、周囲は血の海と化していたため、やじ馬として駆けつけたお袋も一目で即死だと分かったそうだ。裏手側にある後藤さんの部屋――僕の部屋の二つ真上だ――の窓は開いていたようなので、そこから落下したのは明白だった。


 しかし、奇妙な点がいくつかあった。まず一つは、後藤さんの死体が発見されるまで、誰も不審な物音を聞いていないことだ。七階から飛び降りたのなら大きな衝突音がしたはずなのに、近隣住民は誰一人としてその音を耳にしていなかった。


 二つ目は、後藤さんの体がびっしょりと濡れていたことだ。これは夜露よつゆが原因だと考えられるが、それを考慮しても湿り気が多かったようで、加えて夏にそこまで夜露が発生するかどうか、という疑問も残る。


 ならば、後藤さんの身に一体なにが起きたのか。


 僕の脳裏には一つの可能性が浮かび、それこそが真実だと直感が告げている。


 あの時の不気味な男女は、どちらも僕に向けて声をかけたのだとばかり思っていたが、あれは僕と、そして図らずも一緒に外を覗いていた後藤さんの二人に対してのものだったすればどうだろう。恐らく男は僕に、女は後藤さんに向けて言葉を投げかけたのだと思う。


 結果として僕は運よく助かったが、後藤さんは開けてしまったのだ。あのなにかに誘われて……。


 それからというものの、僕の生活は一変した。日づけが変わる前には分厚いカーテンを引き、ためらいなくクーラーを起動させ、耳栓を装着してから床に就くようになった。もう覗きはしない。今度こそ本当に絶対だ。


 だが、近々また僕を誘う者が現れるかもしれない。そんな思いが頭から離れずにいる。その時僕を呼ぶのは果たして誰だろうか。あの男女か、黒いなにかか、それとも後藤さんなのか……。


 一方、ヨミは今日も普段と変わらない調子で営業している。ほのかな明かりを闇に浮かばせ、客の訪れをひっそりと待っている。

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居酒屋の客 @wirako

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