短編集・濡鴉

@sig-k

第2話 産みたい

 潮騒の音はやけに遠く聞こえた。

 窓から首を出せば、そのまま飛び込めそうなほど近くに波打ち際があるのに。

 私は彼の胸に顔を埋めながら、その涼やかな波のざわめきをかき消すほどに情熱的な鼓動を、永遠に鼓膜に記憶させようと必死だった。

 この幸福が続かないことを、私も彼も痛いほどに知っていたから。


 愛する人を両親に会わせたいという気持ちが、間違っていたとは今も思えない。私が間違えていたとすれば、それは二十数年も共に過ごして来た父と母への認識だった。

 私への弛まぬ愛を抱えて、真摯に我が家を訪なってくれた彼を迎えたのは、おそらく彼自身のこれまでの人生の中でも、最も屈辱的で耐え難い言葉の刃だった。

 私は、あの時ほど自分の耳が信じられなかったことはない。

 平成のこの世の中で、「身分の違い」などと言う馬鹿げた台詞を堂々と、しかも辛辣に吐く父の良識が理解できなかった。そしてそれに追従するように、彼を「虫けら」呼ばわりして見下す母の視線が恐ろしかった。

 二十年以上の間、私の最も愛し、落ち着く場所であった我が家は、その瞬間、地獄よりも酷い場所になった。

 思えばあの時、既にこうなる運命は定まっていたのだろう。

 あの地獄のような家の中で、私はもう一瞬でも呼吸することは出来なくなっていたのだから。


 彼の胸板がひくりと動いた。

 鼓膜に伝わる鼓動のリズムが僅かに変わる。

 私はそっと彼の顔を見上げた。お互いに全裸のままだから、長い髪がこすれて、彼が不快に感じないよう気を使った。

 彼は愁いの眼差しで窓の外を見ていた。

 空の青と海の蒼の稜線を見つめながら、彼が何を考えているのか、私には手にとるように分かった。

 煉獄に灼かれるようなひと時を過ごし、死ぬよりもつらい罵詈雑言の毒矢を全身に浴びせられてなお、彼は私を愛してくれていた。むろん、私もだ。だから今、彼が考えていることは、私と同じに違いないのだ。

 ほんの十数分前まで、彼に抱かれていた。

 熱く注がれた彼の“想い”は、今も私の中にある。

 それこそが彼自身であり、私への愛の正しいカタチだと思えば、ただの一滴でさえも流れ出すことに耐えられず、行為の後も私は姿勢に気をつけた。叶うのであれば、何千万もの彼の分身の全てを、ひとつひとつ、私の体内で永遠に慈しんであげたいと願った。たったひとつの私の核にたどり着けなかった無数の敗者たちを、勝者と同じように愛し、掬ってあげたかった。

 遠からず、消えてしまう二人の命に代えて。


 地獄から逃れたいと思うのは当然だ。

 私にとって地獄以下の恐ろしい場所に変貌してしまった我が家から逃亡したことを、恥じても後悔してもいない。

 ただ、代償は高くついた。

 当たり前のことだが、父も母も、私が出て行くことを許しはしなかった。考えられる限りの説得を試み、それがすべて徒労だと気づくと、次は実力行使に出た。

 自宅の一室に私を幽閉したのだった。

 お前も冷静になれば分かる──などと言うくだらない言葉を、まるで自分自身に言い聞かせるように呟きながら、父と母は現実から目を背けた。自分達の理解に収まらないものをブラックボックスに詰め込んで蓋をしたに過ぎないと、おそらくは薄々気づきながらも、そうするしか出来ない狭量な人たちだったのだろう。

 私は、なんとしてもこの地獄の部屋から逃げ出さねばならなかった。

 それは自分自身の保身のためでもあるが、何より彼との愛を全うするために。

 三日目、食事を運んできた母に、私はひとつの嘘をついた。

 妊娠しているの──

 その時の母親の表情を忘れることは出来ない。驚きと言うよりも、その瞳に浮かんだのは恐怖だった。自分が「虫けら」と蔑んだ男の遺伝子が、娘の体内に宿っているという事実に恐怖した顔だった。

 その瞬間、私の覚悟には一片の迷いもなくなった。


 記憶を振り払うように、私は彼の唇を求めた。

 体を起こしたことで、股間から雫が伝った。

 慌てて横になると、目の前に彼のモノがあったので、愛おしくて口にふくんだ。

 私の舌に反応して固くなるその様が、そのまま私を愛し求める彼の気持ちに思えた。

 入れて──

 私が懇願すると、彼はゆっくりと私の脚を開き、体を重ねた。

 このままずっと私の中に居てほしいと思った。

 行為の快感などはどうでも良かった。ただ彼を自分の中に取り込みたかった。彼の愛が零れ出てしまわないように、彼自身でずっと栓をしておいてほしかった。

 彼は私の中に永遠に放ち続け、私はそれを永遠に受け入れ続ける。そんな夢想に溺れていたかった。

 そしていつか、全てを私の中に放ち切ってしまった彼を、私はこの体の全てをもって愛おしく包んであげたい。

 女の極限の愛は、愛する人の子を産むことではなく、愛する人を産むことなのだと、その時私は悟った。


 あなたを、産みたい──


 吐息のようにそう呟いた私に、彼は確かに微笑んだ気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る