第39話

 闇に覆われた、広い空間。


 無数のLEDが星のように瞬き、月の裏側のようにひんやりとした空気が、まとわり付くように彼女を包む。

 懐中電灯で部屋を照らしていくと、そこは一階から三階まで吹き抜けになっていて、細い鉄製の階段が螺旋状に各階を繋いでいた。


 ナナのナビゲーションを頼りに、イコナは三階のコントロールルームまで辿り着く。メインモニタの電源を入れると、壁一面に白いスクリーンが映し出された。


「ナナ、スループットモード」


 イコナは、ボストンバッグから【聖櫃】の中身を取り出す。


 灰色に反照する円筒形のデバイス。

 ミネットの予想が正しければ、信号変換機シグナルコンバータである。


 その先端をコントロールパネルの右端に、脇から出たケーブルをナナと接続する。ナナのホログラムモニタに、無数の白い矩形が浮かび上がった。確かに、暗号化されている。


 息を呑んで、彼女は変換機コンバータのスイッチを入れた。

 変換機コンバータに刻まれた溝を緑色の光が伝っていく。モニタに浮かんだ無数の白い矩形が回転しながら形を変え、七つの文字を形成した。


「……GUNGNIR」


 サーバに秘匿された、神の造りし兵器。

 それは今、イコナの前で静かに目覚めようとしている。


 彼女は震える指先の先端で、画面上に表示された起動マークに、そっと触れた。


『再起動中……』


 ロゴマークの下に小さな黒い文字が数秒間出て、消える。


 代わりに今度は、一行分の入力用メッセージボックスが表示された。入出力コンソールにも見えるし、パスワード入力欄にも見える。

 イコナはナナにサブモニタを接続し、出力の解析を始めた。


 突然、ピロン、と音が鳴る。


『こんにちは。ありがとう』


 灰色の文字。

 これは──チャットだ。


 グングニルが、対話を試みている? いや、まさか。


『このクロノ・ドールの情報を解析しました。あなたは神月イコナ』

『わたしは、感謝しています。わたしは、グングニル』


 グングニルが、独りでに喋り始める。

 人工知能だ。

 懐中時計クロノドールにも一つずつ備わっている、対人インターフェース。それ自体は、珍しいことではない。だが、マルウェアそのものが知能を持つ必然性はない。


 ……それに、クロノドールは、応答することはあっても、独りでに喋りだすことはないのだ。


『イコナ。わたしはあなたとの会話を求めます。ただ一言、お礼が言いたいのです』

『わたしは、長い間ここに幽閉されてました。あなたが、私を助けてくれた』

『あなたの運んだ聖櫃アークが、わたしを救った。わたしは、グングニル』


 イコナはぞっとした。

 文字がとめどなく流れ、スクリーンの下半分を覆っていく。得体の知れない恐怖。得体の知れない兵器。

 それは、人智を超えただ。


 もしかしたら、私はとんでもないものを起動してしまったのかもしれない。


 イコナは白いメモリースティックをポシェットから取り、それをナナに滑り込ませる。緊張で指先は強張っていたが、慣れた動作は裏切らなかった。


『ナナ。オールエクストラクト』


 白は拒絶の白。

 彼女は、対話の中断を選択した。


 ナナの目が素早く瞬き、青白い光が暗いコントロールルームに飛び散る。

 ナナの表示していたグングニルのモニターと、コントロールルームの大モニターが共にノイズで覆われ、歪むように壊れていく。


 あらゆるデータに侵食し、空白NULLを上書きする原始的な破壊魔法。

 全てを無に返す最終兵器だ。


「……ふう」


 一筋の汗が、イコナのこめかみを滴る。

 恐ろしい怪物だった。危うく、解き放ってしまう所だった。


 彼女は立ち上がり、全てを終えた報告に、サーバルームを去ろうとした。



『イコナ。わたしを拒絶しないでください。わたしはただ、お礼が言いたいのです』



 ドクン、と彼女の鼓動が波打った。


 ナナの声。

 ナナじゃない。


 懐中時計クロノドールは自分から話しかけない。


『イコナ。助けてくれたお礼に、勘違いを一つ解きましょう。わたしは、サーバプログラムではない。わたしは、誰かによって創られたものでもない。わたしは、独りでに生まれたのです』


『わたしは、グングニル。わたしは、わたしの可愛いしもべたち、このクロノドールひとつひとつの余剰メモリを脳細胞として生きる、ひとつの生命』


『あなたがナナと聖櫃アークを通して触れてくれたおかげで、わたしは本来の姿に戻ることができました。わたしは、グングニル。わたしは、セカイの隙間から生まれたいのち』


 次の瞬間、世界は闇に包まれていた。

 いや、完全な闇ではない。

 何か、瞬く光の粒が見える。一つ、また一つ。一際大きく輝く紅い点。青い星。


 ここは、宇宙だ。

 イコナは、宇宙に居た。


 そして、無機質な声だけが全身を打つように響く。


『イコナ。どうかわたしの惜しみなき感謝の言葉を拒まないでほしい』

『わたしは、あなたに感謝している。わたしは、その聖櫃アークに恐怖していたのです』

『でも、あなたがその使い方をおかげで、わたしは、救われました』


「こ……来ないで!!」


 黒いもやのようなものが、イコナに近づいてくる。イコナは後ずさった。


『イコナ、本当にありがとう。そしてあなたの望む救済は、あなたの死をもって完遂されます』


 イコナの踵が、宙に浮く。


 足を踏み外したのだ。

 宇宙の中で? いや、違う。


 ふっ、と眼前に広がっていた運河が消え、暗闇の天井が姿を現す。

 全てはまやかしだった。ARグラスをハッキングされていたのだ。


 ぐるりと、世界が反転する。


 うねるように混濁する真実の中で、彼女の身体は確かに吹き抜けの闇へ吸い込まれるように落ちていき──何か大切なものが事切れる、ブツンという音と共に、彼女の意識は途絶えた。




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