老夫婦の苦悩

あさままさA

老夫婦の苦悩

「婆さんや、晩飯はまだかいのう?」


 ある晩、爺さんが婆さんに問いかけた。


 息子も結婚して家を出て、盆や正月に孫を連れて帰っては来るものの――逆にそれ以外で我が子と交流のない老夫婦、二人暮らし。近所付き合いもなく、あまり友人の多い方ではなかった二人の老後暮らしは密やかながらも、平穏であった。


 しかし、奇しくも痴呆症が――この老夫婦の平穏を乱してしまったのだった。


「さっき食べたじゃありませんか」


 爺さんの言葉に対して、嘆息交じりに心底、面倒くさそうに返答する婆さん。


 婆さんの感覚的にはもう「何度、この言葉を聞いただろう」と呆れと苛立ちが募っており、爺さんの発言に対して条件反射でこのような表情を浮かべてしまうのだ。


 そんな婆さんの表情、言動に伴うイントネーションに対して寂しそうな表情を浮かべる爺さん。


 痴呆症と、そうでない人間の間では釣り合わないストレスが行き来し、胸中を鬱屈とさせる……今まで、どれだけ仲のいい夫婦だったとしても。


        ○


「婆さんや、朝ごはんの準備はしとらんのか?」


 ある早朝、爺さんが婆さんに問いかけた。


 定年退職し、家にずっといる爺さん。彼は今まで仕事一本の生活だったため、家事を手伝おうにもどうしたらいいのか分からない。ご飯の炊き方さえ知らないため、こうして婆さんを頼りに朝食を依頼するのだが。


 婆さんは嘆息し、半ば睨むような視線で爺さんを見つめる。


 そう――また、である。


「さっき、朝ごはん食べたでしょう……何度、言ったら理解してくれるんですか! 私ももう、そういったお爺さんのボケには限界ですよ。沢山です!」


 年相応の弱い声には似合わない、強く咎めるような口調。


 そんな婆さんの態度に爺さんは閉口し、しゅんとしてしまう。


        ○


「婆さんや、昼ご飯はさっき食べたんじゃないかの?」


 ある昼食時、婆さんが台所にて調理をしていると爺さんが現れて言った。


 そんな爺さんの発言に対して、突如――調理に使用していた包丁、まな板を順にシンクの中へと怒りに任せて放り込み、爺さんを疎ましそうに睨む婆さん。


 シンク内の食器が激しく割れる音を響かせた。


「いい加減にしてください! 今度はもう食べた、なんて言い出すんですか! お爺さん、もうそんな風になってしまったら人間――終わりですね」


 法が許すならばシンクに投げられた包丁は爺さんに向けられていたかも知れない――と思うくらいに強く睨み、体を震わせ、手をぎゅっと握りしめて憤慨する婆さん。


 そんな婆さんの態度に爺さんは悲しそうな表情を浮かべ、シンクの中を見つめる。


(……確かに人間、こうなってしまったら終わりかもしれんの)


 爺さんの視線の先――昼食を食べ終え、水に浸けていた食器の割れた残骸がシンク内に散乱していた。

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