第五話 禁所にて

「おかしらぁ、ほんとに行くんですかい?」


 十数名の夜盗の一団が、目の前の暗い荒れ野を見渡した。


 左右からじりじりと、包むように松明が押し寄せて来る。社の背後に灯りがないのは、そこにおびき寄せて滅する為であろう。頭領の読みは当たっていたが、窮地を脱する役には立たなかった。彼らの退路は、すでに禁所の中にしか残っていなかったのだ。


 ぼさぼさと生えている木立ちは、のがれる間身を隠してくれるだろう。無闇に兵の間を突っ切ろうとしてむざむざ切り伏せられるよりは、まだ機がある。むろん、村民に限らず領主までもが怖れて踏み込まぬ禁所に分け入るのは気味が悪い。が、もういとまがない。意を決した頭領が短く発声した。


「行くぞ!」


 頭領は、血刀を下げたまま禁所と社を隔てる小川をひらりと飛び越えた。

 ざざっ。ざさっ。闇の中で、草が揺れる音が次々に続いた。


 草を分ける音が止んで。頭領が素早く頭数を数える。全員が揃ったことを確かめた途端、夜盗たちのたむろする薮の少し先で、がさりと小さな音がした。人の動く気配ではない。何かが投げ込まれたような、もっと小さな音。


「なんだ?」


 頭領は、用心深くその音がした辺りに近付いた。


「ああ?」


 それは女の腕だった。


 久保の兵から逃れる手立てを考えるのに気が急いて、女のことなぞ心中になかった頭領は首を傾げる。肩からちぎり取られたような無惨な腕。まだ温もりを残しているかのような生々しさで、かすかな星灯りの下に腕がほの白く浮かび上がる。


 誰がかのような? 権か? いや、儂らの誰にも女に気を回す余裕はなかった。誰が?


 頭領がじっと見下ろしていた女の腕。それが突然動き出した。何かを掴み取ろうとするかのように、五本の指をうねうねと開閉する。


「なんだ、こやつ!」


 頭領が振り下ろした山刀が当たる前に、ひゅっと風を切る音がして、それは目前から姿を消した。


「どうしたんですかい? おかしらぁ?」


 権がおっかなびっくり近付いてくる。


「ああ、大したこっちゃねえよ」


 平静を装った頭領が振り返った瞬間、異変は始まった。


「うわあああっ!!」


 頭領の真後ろに来ていた権が、いきなり頭上に舞い上がった。


「なにいっ!?」


 群雲むらくもに隠れていた月が出て、『それ』は夜盗たちの前に正体を現し、その度肝を抜いた。


 腕! 腕だ!


 長く鋭い爪を権の手足に食い込ませ、ぎりぎりとそら高く体躯を掴み上げる白く巨大な腕。それは腕だけで、胴も頭もない。


鬼女きじょの腕か!」


 頭領は権を放させようと腕に切りかかったが、それをあざ笑うように、腕は権を掴んだまま中天高くに浮いた。そして……。


「お、おかし……」


 頭領に助けを叫ぼうとする間もなく、権はぐしゃりと握り潰された。鮮血が飛び散り、生臭い雨のように夜盗たちに降り注いだかと思うと、粉々になった肉塊がつぶてのように夜盗たちの顔を打った。


「うわああああっ!!」


 これまで、まがりなりにも頭領の統率下にあった夜盗の群れ。それが、焼け油に落ちた水のようにぱちっと散った。未曾有の恐怖に怯えた夜盗たちは、越えてきた小川を飛び戻ろうと闇雲に走り、川辺に駆け寄って身を翻した。

 だが飛び越えたはずの川向こう。そこは社の敷地ではなく、なお禁所の中であった。幾度川に走り寄って飛び越えても、そこは小川で切り離された禁所の荒れ野の中だった。


 出られねえ!? なぜだ! なんで、出られねえんだよ!!


 気が狂ったように荒れ野を逃げ回り、川を跳び越し続ける夜盗の一人、また一人と。何処いずこからか現れる巨大な腕に背後から掴まれ、断末魔の叫びだけを残してぐしゃりと握り潰され、砕け散っていく。

 そして荒れ野のそこかしこに振り撒かれる、かつて人であった残骸には、闇から切り取られたように現れた無数のからすが群がり、ぎゃあぎゃあと鳴き騒ぎながら争ってその肉を喰らった。


 荒れ野を闇雲に逃げ惑う手下たちに目も呉れず、ただ頭領一人だけが、最初に腕を見つけた場所にじっと留まっていた。


「とんでもねえヤマだったって、ことかい」


 頭領は冷静だった。手下はいつでもどこからでも調達出来る。強大な敵から逃れる時は、群れを率いるよりも単独行動の方が身動きしやすい。頭領にとっては鬼女の腕も久保の兵も、自分には敵わぬ相手であるという点で違いはなく、命乞いなど決して届かぬことは自明であった。敵のわずかな隙を狙い、ひたすら血路を開いて茗荷山に逃れるしかない。


 夜気を破り続けていた夜盗の悲鳴、断末魔の叫び声と烏の騒擾そうじょうが収まり、荒れ野に不気味な静寂が戻った。


 頭領の狙いはただ一点だった。自分を掴み殺しに来る鬼女の腕が姿を表した瞬間に、それを切り捨てること。身体中の神経を研ぎ澄まし、頭領は腕が現れるのをひたすら待った。


 りぃぃぃ……。

 小さな虫の音が足下で響き、辺りを煌煌と照らしていた月がまた群雲に隠れた。


 その瞬間!

 ひゅん!


 わずかな風の動きに反応して頭領が身を巡らせ、背後に迫っていた鬼女の節くれた指を山刀でずばりと断ち落とした。


 ばらばらばらっ! 大きな音を立てて、指が地に跳ね落ちる。


「へっ。指がなけりゃあ掴むこたあ出来ねえだろ」


 足下に転がった巨大な指を蹴って、頭領は不敵な笑みを見せた。


「あたぁ、久保の囲みをどう抜けるかだな。うぬ!?」


 思案を巡らそうとした頭領が、再び身構える。先程切り落としたはずの鬼女の指。それがいつの間にか、足下から姿を消している。そして……。


 ひゅん! すんでのところでたいかわしたが、切り捨てたはずの鬼女の腕は、先程となんら変わらない姿で宙に浮いていた。それだけではない。先程までは一本だった腕が、六本に増えていた。


「なん……だと?」


 何故かを考える間もなく、腕が頭領に襲いかかる。これまでと違い、腕はもうその気配を隠さなかった。久保の兵と同じように、数を頼みに押し寄せて来る。頭領は必死に腕の指を切り払って窮地を脱しようとするが、切り落とされた指はどんどん新たな腕と化し、その数を増して行った。宙にはひしめきあうように無数の腕が浮かび、かちかちと爪を鳴らしながら頭領ににじり寄った。


 冷静さを保っていたはずの頭領だったが、逃げるという選択肢を選ぶにはしばし時を要した。


「ちっ!」


 舌打ちした頭領は刀を盾にしてじりじりと下がると、さっと小川を飛び越えた。ここでこいつらを相手にするよりゃ、まだ久保の兵の隙を突く方がましだ。そう判断して。


 しかし。頭領だけが。最初の位置からずっと動いていなかった頭領だけが。逃亡が無駄であることをまだ覚っていなかったのだ。頭領は、社の敷地に戻れずにまた禁所の中に立ち戻っていることに気付くや否や、運命への抵抗を諦めた。


「これまでか、よ」


 がらん。刀を足下に放って、どすんと胡座あぐらをかく。


「どうにでもしやがれ。権のようにさっさと握り潰せばいいだろう。けっ!」


 頭領は、宙にひしめく腕に向かって悪態をついた。


「儂は己の欲に飽かして好きにしてきた。おめえもそうなんだろうが」


 頭を持たない腕がそれに答えることなんざねえだろう、と。頭領はそっぽを向いた。だが……低いしゃがれ声が闇を震わせた。


「そうじゃな。娘の恨みは、狼藉者をあらかた討ち果たして晴れたじゃろうて。されば、お主くらいは儂の愉悦にさせてもらう。それを儂の欲と呼ぶのなら、然様さようなのであろうぞ」

「誰だ、おめえ!」

「儂か? 儂はここにはおらぬ。ここに在るのは儂の欲だけじゃ。欲に名なぞないわい」


 はっはっはっ! 乾いた短い哄笑が響いて。すぐに途絶えた。


 虚空を埋め尽くしていた鬼女の腕。それが一つ消え、二つ消え、最後は四本だけになった。巨大だった腕はするすると縮んで、最初に薮で見た時と同じ、艶かしい女の腕に戻った。それらがすうっと頭領の側に寄ると、まるでしなだれかかるようにして、それぞれ頭領の手足を取った。


「な、なんだぁ!?」


 何が起こっているのか分からず、頭領がその腕を見つめる。


 めきめきめきっ! 突然。女の細腕とは思えぬ凄まじい力で、頭領の両腕、両足が一瞬のうちにちぎり取られた。


「ぐああっ!!」


 激痛で転げ回りたくても、その手足はない。そして女の腕が、もぎ取った頭領の手足を無造作に胴体の真横に放って、ふっと消えた。


 首を巡らせた頭領の目が捉えたもの。それは、無数の烏が自分を見下ろす視線だった。笑いを含んだ低い声が闇の中をたゆたう。


「最後の最後まで、儂をたのしませてくれい。最後まで、な」


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