黒いあいつは白を選んだわけでありまして
笛吹ヒサコ
「俺、結婚することにしたんだ」
某国、某都市、某下町の薄汚い酒場。
あいつに呼びだされて、わたしはカリブ海のバカンスを急遽切り上げて飛んできたというのに……。
「俺、結婚することにしたんだ」
その短い台詞を理解するのに、わたしはかなり時間がかかった。
ありえない。
結婚なんて、ありえない。
およそ結婚とは無縁の業界にいるわたしたちにとって、結婚詐欺というものは存在しても結婚なんて、ありえない。
左手の薬指にはめられた婚約指輪を見せつけながら、黒ずくめの男は幸せそうな顔をして爆弾発言をさらに続ける。
「だから、今の仕事辞めて転職することにしたんだ」
「ぶふっ」
むせた。思いっきり、マティーニでむせた。
もう限界よ。
「大丈夫かい?」
「大丈夫なわけないわよ!」
「ああ、生きてる。大丈夫だね」
安心したと笑う彼にマティーニを浴びせてやりたくて、1度テーブルに置いていたグラスに伸ばした手首を素早く彼に掴まれた。
「離しなさいよ」
「離したら、それぶっかけられるから、やだよ」
「ぶっかけられなさいよ」
もう片方の手を使おうとしたけど、その手も簡単に掴まれる。両手を繋いだところで、わたしたちには甘い空気が微塵にも発生しないのが悲しい。
「なにを怒っているんだ?」
「あんたが寝ぼけたこと言ってるからよ!」
「寝ぼけてなんかいない」
「とにかく、手を離して!」
痛いくらい掴んでいる手を、ため息を1つついて彼は離した。
次の瞬間、彼にグラスごとマティーニを投げつけた。
パリーン!
グラスは余裕でよけた彼の横を通り過ぎて、その向こうでビールを飲んでいた黒人のデイブにヒットした。
「「あ……」」
デイブのスキンヘッドの頭に血管が浮き上がる。
「カラス!!!!!!」
振り返りざまに鋭いナイフが彼ことカラスめがけて飛んできた。カラスはめんどくさそうな顔をして、自分のナイフではたき落とす。
「デイブ、俺じゃない。サラだ」
「んなこたぁ、わかっとるわ!」
「じゃあ、なんで俺?」
「日頃の貴様に対する積もりに積もった鬱憤だ」
「ひどい」
デイブは自分のナイフを拾い上げて腰のホルダーにしまった。
「痴話喧嘩はよそでやってくれ」
「痴話喧嘩? ひどいな。俺はただサラに結婚するって報告しただけだ」
「……」
この空気の読めないカラスには何を言っても無駄だと悟ったデイブは、わたしを憐れむような目で見てきた。
(まぁ、迷惑かけない程度に頑張れや)
そんなデイブの声が聞こえてきたような気がする。
「もう行くのか?」
出口に向かうデイブの背中にカラスがたずねる。ため息をついてデイブは、立ち止まるが振り返らない。
「ああ、夜は短いからな」
「それもそうだ。じゃあな」
デイブがすれた夜の町に消えると、さてとカラスがわたしとの会話を再開した。
「ねぇ、ひょっとしてサラ、俺に気があった?」
「んなわけないでしょ!」
図星だった。だからこその即答。
わたしだって、今の今までこの男に気があるなんて気が付かなったんだから。
「なら、何が気に入らないんだい?」
「あんたのその寝ぼけた物言いよ! 私たちは殺し屋なのよ!」
そう、ここは殺し屋のたまり場なのよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます