瓶詰めの人魚

葵生りん

第1話 喧嘩


「なぁ、夏姫なつきさ。ダイエットとか言って冷や奴ばっかり食ってるわりには、最近ちょっと太っただろ?」


 思い返せばすべてのはじまりは、この一言だった。







 まだ朝だというのにエアコンが切れてうっすらと汗ばむ気持ちの悪さで目覚めた。記録的な酷暑の夏が過ぎても残暑はまだまだ続いていて、蝉の最後の大合唱がうるさいことこのうえない――と、時計を見ればもう10時が近い時刻だった。

 今日のバイトのシフトは昼12時から夜9時。まぁ、ちょうどいい時間だ。

 だらだらと起き出して顔を洗い、着替えてリビングに向かう。キッチンに人影があったから「おはよ」と声をかけたら不機嫌な声で「」と返ってくる。で、規則正しい生活習慣がなんのとか小言がついてくる。

 「おまえはおふくろかっての」と聞き流しながら彼女の手元を覗くと、刻んだネギとニンジン、ウィンナー、キムチ。それから卵が一個とラップのかかった冷やご飯がひとりぶん。オレの朝兼昼飯にキムチチャーハンをつくるところなのだろう。そして流しの脇にはまだパックに入ったままの豆腐が置いてあった。


「まぁた冷や奴ぉ? 手抜きもたいがいにしろよ」

「うるっさいなぁ。優大ゆうたの分はちゃんと作ってあげてるでしょ? 私はダイエット中なの!」

「ダイエット、ねぇ……」


 最近、夏姫は夏バテ気味みたいだった。だからオレは――。


「なぁ、夏姫なつきさ。ダイエットとか言って冷や奴ばっかり食ってるわりには、最近ちょっと太っただろ?」


 それはさ、何気ない、些細な忠告のつもりだったんだ。

 ムリで無駄なダイエットなんかやめろよって言うつもりだった。なのにそれを言う前に夏姫は猛然とキレた。高1の夏からちょうど4年の付き合いだが、ここまでキレたのははじめてじゃないかという大激怒だった。

 そんなに怒ることじゃないじゃんかとオレが少々ムッとしていると、夏姫は唐突に「別れる」と言い出した。


「何でだよ?」

「浪人したくせに大学に行けなくてさ、受験に挫折したうえに就職も決まらなくってバイトばっかじゃん!」

「う」


 それは高卒後堅実に大手企業に就職した夏姫には絶対に勝てない論点だった。オレが言い返す言葉を探しているうちにも、頼りないだとかデリカシーがないだとか――様々な鬱憤をマシンガン並の勢いで列挙していく。


「――今まで、ずっとあんたのそーいうとこ不満だったのよ!!」


 そんなセリフで締めくくられても、オレはこの口喧嘩に勝利できる糸口をひとつも見つけられなかった。その苛立ちから頭を掻いて勢いで飛び出たのが、


「あぁ、そうかよ! わかったよ、別れればいいんだろ!!」


 という一言だった。

 それを口にした途端、しん、と空気が固まったような沈黙が流れた。

 夏姫の目に滲んだ涙があっという間に溢れ、ぽろりと頬に当たった瞬間。止まっていた時間を取り戻そうとするような勢いで夏姫は出て行った。

 オレはただ乱暴に閉まった扉を呆然と見つめ、それからキッチンの行き場を無くして取り残された刻み野菜を見つめた。


 オレはその時まだ、ただちょっといつもよりひどい喧嘩をしただけだと思った。

 今までだってたくさん喧嘩してきたし、なにも言わなくてもどちらともなく仲直りしてきたし。家賃がもったいないよねって話の流れから一緒に暮らしはじめて1年と少し経つけれど、うまくやってきたと思うし、ずっとこんな日々が続くと思っていた。

 だからオレは豆腐を冷蔵庫にしまい、行き場を無くした刻み野菜をフライパンに放り込んで火をつけてチャーハンを作りながら、きっと暑さで虫の居所が悪かっただけだろうと思った。頭を冷やせば別れるほどのことじゃないって理解わかるだろうし、なにごともなかったように元の生活に戻るんだろうと思っていた。

 けれどオレがコンビニのバイトから――新商品のロールケーキをふたつ買って――帰宅したら、築40年の古アパートにあったオレ達の部屋は、がらんとしたオレだけの部屋になっていた。



 悪い冗談やめろよ、とかなんとか言いながら、隠れる場所なんかない1DKの部屋をぐるぐる回ったけれど、夏姫はどこにもいなかった。

 最後にリビングに立ちすくみ、スマホの画面を睨むようにして着信もメールもLINEもきていないことを確認する。


――あんたのマンガちょっと捨ててよ。

――やだよ、お前の服ちょっと減らせよ。


 何度もそんな喧嘩をした狭い部屋が、今は寒いほどに風通しがよかった。その自分の部屋じゃないような居心地の悪さに、オレは飲みに出た。そんな時に限って友人達は都合がつかなくて、仕方ないから一人で酒を煽り――どのくらい飲んだのかは、よくわからない。

 うんざりした顔をしている店員に「閉店です」と揺り起こされ、支払いをしたのは覚えている。「タクシー呼びましょうか?」と聞かれたのも、覚えている。オレは歩いて帰れると断って店を出た。

 ――それも、なんとか覚えている。


 けれど、覚えているのはそこまでだった。









 そして――今、ベッドの上でごろりと寝返りを打ったオレは降り注ぐ朝日が眩しくて、瞑ったままの目をさらに強く閉じた。

 漂う甘い匂いは昨日リビングの机の上にほったらかしにしたロールケーキのものだろう。それから自分の酒臭さと、頭痛。どれも不快なのに、チラチラと刺すように目元を照らす朝日が憎らしい。今日はバイト休みだし、寝直そうとしてカーテンを引くためにのそりと起きて出窓に手を伸ばす。と、なにもないはずのそこに手に触れるものがあった。

 ゆっくりと光に慣らしながら目を向けると、そこには金魚鉢のような瓶がぽつんと置かれている。そしてその瓶の中には砂と海草がセッティングされていて、海草に金魚のようなものが隠れていた。


(なんだこれ? なんでこんなところに――……)


 ゆっくりと瞬きをして昨夜の記憶を掘り返していると、海草がゆらりと揺れた。海草にくるまるようにして眠っていたのは、手のひらに乗りそうな、とてもとても小さな……上半身が人間で下半身が魚の生物――いわゆる、だった。



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