勇「――上等でしょう」

 私の父親は少々普通の親とは違うというか、端的に言えば他の親とは子供に注ぐ愛情の質量が違うとでも申しましょうか。


 そんな父ですので、順序よく私達の事情を説明していく中で「何を言っているのか?」と表情に浮かべていた呆れのようなものが段々と現実味に触れたというか、それが追いついたというべきか。私が家族との思い出を語ってお父さんにとって本当の「息子」である事が実証されてくると、父の表情からは余裕が消え失せ、唇が震えて顔面からは血の気が失せていくのでした。


 そんな父を見た時、私は今回の行動に関してもしかすると「失敗だったのではないか?」と――そんな風に思ってしまいました。


 独りよがりで、自分達の気持ちの整理のために両親の心にもしかすると「必要のない傷」を与えた。そう考えると、胸中に途方もない後悔が押し寄せるのです。しかし、後悔はどうしても先に立ってくれず、そんな中でもう引き返す事は出来ないと悟らされる問いかけを、父は投げかけてくるのです。


 そう。父はある意味で「当然」とも言える質問を、したのです。


「ま、まぁ。入れ替わった事は信じ難いが、理解はしたよ。それで、それで……どうしてこの三か月ほどの期間を誰にも相談せず、医者にもいかず――元に戻ろうという行動を起こさないのかな?」


 そんな質問に対して私と優は互いの顔を見合わせて、青ざめて震える父に対して、後には引けないのですから告白したのです。


 本来ならば、自らの体を取り戻したいと願うべきはずの「入れ替わり」をまるで「納得している」かのように平然と過ごしている私達の謎を。


 自分達が、性同一性障害であるという事を。

 今の姿が、自分達にとって、適材適所であるという事を。


 そんな言葉を発した瞬間に父は目を見開き、そして手を、歯を、身をガタガタと震わせて沈黙し、後に立ち上がると何らかの圧倒的な感情に掌握された父の胸中がまともな体の挙動を妨げたのか、何度も転びそうになりながらまるで自分の想像を越えた畏怖の対象から必死に逃げるように、頭を抱えてぎこちなく部屋を出て、そして歩み連ねて段々と小さくなる足音の聞こえる方向からして、屋外へと逃走したのでした。


 そんな父の後ろ姿を見つめて、あのような反応を繰り出すとは私達には想像が出来なかっただけに追いかける事が出来ず。そして、それは呆気に取られたわけではなく、確信してしまったのです。


 やはり、告白すべきではなかったのか。


 体の力が抜けて、何だか全てが終わってしまったかのような感覚。


 理解してもらえると勝手に判断しても、相手の心の強度だったり、覚悟。そういったものがどれだけ胸中に保持されているかは分からないのです。


 でも――でも、と。


 そう思った瞬間に、優は小さな声で呟きます。


「やっぱり、よくなかったのかな。まさか、あんな風に体を震わせて、現実から逃避するみたいに部屋を出るなんて俺達には想像できなかったなんて、仕方ないとかそういう文句で済ませられる事じゃないよな」


 優は、そう弱々しい語りに準じたように、苦痛と後悔に歪めた辛そうな表情を浮かべていました。


 確かに、私達の行動は軽率だったかも知れません。


 しかし、それでも現実問題――偽り欺いて過ごしてきた日々には戻れないのです。そういう意味で、絶縁するように親を捨てて、真実を両親から遠ざける生き方が正しいのでしょうか?


 隠し、偽り、そんな風にして生きる事が正しかったとしても。それも結局は真実ではないのです。そして、真実が正しいとは限らないけれど――偽る事こそ正しいなんて、私は思いたくないのです!


 それがエゴだというのならば、こんな私達です。



 ――上等でしょう。



 ですから――ですから。


 私は優に「ここで待っていて下さい」と告げると、部屋を出てそのまま何らかの予感に導かれるように玄関で靴を履き、そのまま門外へ。吐き出された道の上、左右を交互に見つめて私はこれといった理由もなく一方を選び取って走り出します。


 父が行きそうな所というのは数多あるのです。それらの全てを私が知っているわけではありません。無論、父しか知らない場所、父が習慣的に行きつける場所があるでしょうが、何故でしょうか?


 ――私には父が、自分の『娘』しか知らない場所に『息子』が来る事を恐れつつも期待し、そして裏切られる事を願いつつも、望んでいるような気がしたのです。


 ただ明確なのは、父の背を追って今は走り連ねる事。


 迷いは、確かにまだあります。


 父が逃げ去った場所に辿り着ける私を迎える、私の肉親の表情が次に向き合った時にはどんな模様を描いているかは分かりません。


 しかしもう、現実にその場所へと辿り着けるのはこの、『勇』だけなのですから。


 それから幾つかの場所を巡って、私が父の姿を見つけたのは近所の野球場を兼ねた有料公園でした。私が実家から飛び出した時、父が行きそう場所を考えて一番最寄りの場所と知っていながらも、無意識に訪れる事を後回しにした場所。


 近所の大人達と結成した野球チームが練習をする、父が休日を過ごす場所。


 私が――。

 私が――幼い頃、ボールとグローブを手渡されて父に野球を教えられた、場所。


 そんな場所に、父が居る。

 その意味が、どういう事なのか。


 それはそのまま、父が性同一性障害であるという告白を受け、耐えかねて出ていったしまった事の理由にも繋がっていて、だからこそ思うのです。


 それでも、私達の告白は間違っていなかった、と。


 ゆっくりと歩み寄り、私は父に声を掛けました。きっと聞きなれていないであろう声が発した「お父さん」に対して、父はゆっくりと振り向いて。そして、「やっぱり、君の方がここに辿り着くのか」と言いました。私はそんな時の父の表情を見るのが怖くて目を逸らしましたが、しかしそのイントネーションで分かってしまいます。


 その、声が帯びたもので、分かってしまうのです。

 その、胸中が――。


 きっと、それが親にとっての心理で私達には分かるはずも、想像出来るはずもない事なのです。でも、いずれは分かるようになるかもしれない。そんな瞬間まで胸にしまっておくべき事実と共に語られた、父の「言葉」を。


 父から突如、手渡されたグローブ。理由は問いかけず手にはめると私に向かって、受け止めさせる気遣いを伴った緩やかな声を描く投球を父は行ったのでした。


        ○


 キャッチボールを交わしながら行われた暫しの会話。エネルギーを伴ったボールがグローブに収まった瞬間、手中に炸裂するその感触は父の想いを言葉以上に伝えているようで。添えられた言葉の相乗効果も相俟って心に染みわたっていくのを感じました。


 親として、抱えずにはいられない心理。

 親から生まれた子供である内は完全な理解を示せない一つの伏線。それは解かれ、意に介されるべき来る未来の暗示。


 裏側を見せ合って初めて知る姿を胸に、会話を経て――私は父をその場に残し、実家へと戻りました。そして待っていた優に対して、私は確信を持って告げました。


「私達の告白は傷付ける事にはなっても、過ちを犯す事にはなっていなかった。それだけは確信しました。ですから」


 行きましょう――、と。


 私の言葉に対して、「どういう事だ?」という質問もなく、ただ父との間に交わされた言葉によって得た確証が「信用に足る」と判断してくれたのでしょう。優は首肯して「分かった」と言い、私達は共に家を出ました。


 私が、生まれ育った思い出の家を。


 そして、優の実家に向かう道中、私の脳内には鮮烈に刻まれた父の後ろ姿。


 言葉がどう響くか、なんてあくまで他者である個々の人間には推し量れないという現実を知りながらも、確かに分かり合える。理解というのは難しい事ではないのだという確信を胸に抱き、緊張で言葉数の減った優の手をそっと私は握りました。


 何かの言葉が生まれるわけではなく。

 何かの表情を浮かべるわけでもなく――。


 ただ握り返してくる彼女の手から伝わる体温に、自分を受け入れてくる存在を確信しつつ、私達は優の実家へと辿り着いたのでした。


 そして、その場所で私の実家の前で言ったように「どうしようか?」という話題になりました。私は優の家族。まぁ、あの時はお母様でしたが、あの人に対して引っ越しの際、失礼を働いたわけではありません。ですので、この姿で堂々と家の中に入っていく事に問題はないのです。


 しかし優は若干、躊躇いつつもインターホンを押しました。


 それはもしかしたら、完璧な意味でこの家屋の中に何食わぬ顔をして入っていける人間などこの二人の内には一人たりともいない、という自虐的であるような。しかし、決意めいたものでもあるような。そんな不思議な意図があると感じたのは私の深読みでしょうか。


 少しの間を持って玄関を開き、出てきたのは優のお母様。ダウナーな感じのジト目が印象的な優のお母様は私ではなく、優の方を見て「あら?」という表情を浮かべました。実の息子が連れてきた女性の存在が気になったのでしょう。


 固い表情を浮かべて佇む私達二人を暫し、見つめてお母様は表情を柔らかく微笑に切り替えて「入りなさないな」と軽快な口調で促しました。


 誘われるまま、内部へと入っていく私達はお母様の後ろを追うように歩んでリビングへ。そして、リビングと地続きになっているダイニングに設置されたテーブルを挟んで私と優は向き合うようにお母様の前に座ります。


 久しぶりに訪れた自分の生まれ育った家。そんな光景の中にあって、優は何を思うのでしょうか?


 お母様は片肘をついて私達を見つめ、しかし語りだす私達を待っているようでもあって。そんな意図を受け止めたのか、優は語り始めました。


 まずは――入れ替わりの事を。


 優のお母様はこういった不思議という言葉で片付けては粗末な気さえするトンデモ現象に寛容なのか、「へぇ、凄いね」と言いました。もしかしたら未確認飛行物体も「おー、飛んでる、飛んでる」なんていう風に軽々しく受け止めてしまうのかも知れないですね。


 マイペースというか、おっとりしているというか。


 入れ替わりに関してはとりあえず、納得して頂けたご様子。私の父は疑ってかかったので、家族との思い出であるとか「本人でないと知り得ない事」を語って、信用を得るしかなかったのですが、お母様は入れ替わったという言葉だけで疑う事をしなかったのです。


 しかし、優が一応というか、自分がこの家で培った思い出のようなものを語っていくと、「あぁ、本当に入れ替わったんだねぇ」と驚いた風な口調もなく言いました。


 そして――そして。


 私が確信に触れる事になるぞ――と構えていた事情が何故か、起こらなかったのです。


 ――どういう事なのでしょう?


 そもそも、私達が入れ替わりの事実をこれまで他人に悟られる事を恐れていたのは、「入れ替わったのに、戻りたいと焦らないのは何故?」と聞かれた先に答えとして、例の障害が待っていて、それを露呈させぬため。


 そして現状――入れ替わりは明かされました。


 なのに、優のお母様は「入れ替わりは理解した。驚くべき事だ。……それで?」といった風な対応なのです。


 定石と思っていた質問が、飛んでこなかった現状。

 我が子が他人の体と入れ替わってしまった事実を平然と受け止められる理由。


 そんなものが、あるというのでしょうか?


 いえ、逆に思考すべきでしょう。入れ替わりを果たした事実を平然と受け止められる理由があるとすれば――まさか?


 いえいえ、そんな訳が――ですが、そうは言っても、否定しきれません。

 目の前に座って、片肘をつくこの女性。

 勇のお母様は。


 そんな予想が的中した、瞬間。


「なら、『勇』は今――幸せって事?」


 そう語られた瞬間、体の中を電流が駆け巡ったような衝撃を受けたのは私だけでなく自分が長年、一緒に暮らした母を前にした優だって同じはずなのです。目を見開き、口を開いたまま硬直する彼女を横目で見つめます。


 彼女にとって、それはどれほどの衝撃なのでしょうか。



 ――お母様がそんな言葉を発しないように立ち回ってきた人生だったのです。



 それなのに、悟られている。

 優のお母様はもう、ずっと前から。


 その明確な時期は分かりませんが、きっと入れ替わる以前から。優――いえ、「勇」が性同一性障害という明確な言葉を用いる事はなくとも、何らかの「性に対する悩み」を感じていたと、見抜いていたという事。


 だからこそ、入れ替わった事実を知っても驚かず――寧ろ、我が子はその現象によって望んでいたものを掴んだと悟ったのです。


「今まで、自分の子供が男性である事に疑いを持っている――そんな予感を抱きながら、母さんは俺を育ててきたってのかよ?」


 恐る恐るといった風に問いかける優に対して、お母様は崩れそうな笑みを浮かべます。


「分かるよ。自分の子供が息子なのか、娘なのかくらいは。だって、ずっと見てきたからね」


 ゆっくりと、我が子を労わるように語るお母様。


 引きこもっていた私とは違い、「勇」という息子としてお母様と接してきていた彼女の挙動、些細な言動は断片的に――その内面を伝えていた、という事でしょうか?


 だとすれば、その内面事情に勘付きながらも、我が子が必死に悟らせまいと振舞う「男性らしさ」を受け止める、お母様の胸中は――どんなものだったのでしょう?


「今まで言えなくて、ごめん。……でも俺、学生の頃に自分の障害が気になって調べた事があるんだよ。図書館で性同一性障害についての本を読んでたら、直接は怖くてメールでカミングアウトした人が親から――」


 そう語って一旦、言葉を途絶えさせた優の唇は震えていて、声は涙に歪んでいました。


 彼女の頬を伝う、涙。

 そこから瞬間的な間を持って――意を決した優は続きを、語ります。


「親から――親から、『早急に死んでくれ』って返信された人がいるって。それ見てから……怖くて、怖くて仕方なかったんだよ。俺がもしも、絶対ないって言い切れるくらい信用してるけれど――母さんから、そんな風に言われたらって思うと……とても、言えなかった。俺が、性同一性障害だ、なんて……とても、言えなかったんだよ」


 そう語って優は啜り泣き、俯いてしまいました。


 そんな彼女を見つめて微笑みを浮かべるお母様はそっと優の手に触れ、優しく包みながら「そんな事、言うはずないじゃない」と言い、我が子の感情の放流――そんな落涙に誘発されたかのように発する声に、涙を伴わせていました。


「辛かった?」

「うん」

「苦しかった?」

「うん」

「ちゃんと産んであげられなくて、ごめんね」


 それは、お母様から「娘」へ。

 今までずっと言おうとして、しかし「息子」としての彼女へ贈るには躊躇われていた言葉でした。


 感情の起伏が少なそうな優のお母様の言葉はあまりに痛烈で、切実な語り口調。

 感極まって裏返り交じりの声質。


 それは――後悔。


 唇をぎゅっと結び、それでも震える口元は必死に胸中の感情が溢れだすのを抑えているようで……きっと、我が子の方が辛い思いをしてきた。そんな日々が用意に想像出来るからこその我慢なのでしょう。


 現実的に不可能だとしても、「きちんと産んであげたかった」などと口にしてしまうのは親の立場でしか語れない、特有の心境による言葉。


 そうです、私の父は言ったのです。



『性同一性障害という言葉を聞いて、自分の娘が息子だったと知った事よりも、そんな事実に今まで気付けなかったのがショックだった。そして――そんな我が子のために何かをしてやれなかった後悔ほど、親を殺す事実もまたとない』



 だから、父はあの場を飛び出して行ったのです。


 今まで自分が行った事、語った全てが――我が子にどう響いていたのか。

 そんな想像の断片にでも触れれば、無自覚に振っていた言葉のナイフがどれだけ自分の子供を傷付けていたのか。


 それが怖くなった、と。


 私の父はそのような心境であり――逆に、優のお母様は「もしかして」という疑念を常に抱きつつも、何も出来ない日々が何年も連なっていた。


 そんな、無力感はお母様もきっと、同じだったのでしょう。


 世の中、数多の人間が存在して、まともな親に恵まれない子供もいます。それでも、自分を産み、育てた親にとって共通する心境が父から語られていたのであれば、私達の今日の行いは傷付ける行為でありながらも、間違いではないでしょう。


 ――そう、確信したのです。


 だから、この場所へ来る事を優に促して。そして、語った言葉の先に待っている結末が苦い味ではありながらも、無味ではないと信じたのです。


 無意味では、ない。

 必ず何かの、意味になる。

 だって、そうではないですか。


 ――何故なら私達は、


「俺達は今、幸せだよ。まさか、母さんが俺の事に勘付いてたなんて知れなかったけどさ。俺は俺なりに、傷付けたくなかったんだよ。自分の子が、体と性の差に苦しんでるなんて事を負担にしたくなかった。そこには勿論、俺がバレる事に恐怖してたってのもあるんだけどさ。そんな俺の気遣いが母さんを苦しめていたとしたら俺、どう謝っていいか……。でも――でも、これだけは言える。



 俺は今の俺として生きるために生まれたんなら、生まれてきてよかったって。



 そう、心から思えるから。だから、きちんと産めなかったんだとしても、それを後悔しないでほしい。そこから始まった今に、俺は感謝してるんだから」


 語った優の言葉。


 涙に濡れていてながら、語る表情は希望を湛えた美しいもので、隣に語る彼女の芯の強さと――優しさに、満ちていました。


 優が語り終えると、お母様も涙に濡れた瞳を拭いつつ笑って、


「そっか。あんたが母さんの娘で、良かったよ」


 と、言いました。


 それは奇しくも――いえ、やはりと言うべきでしょうか。



 父があの野球場で最後に、私に対して発した言葉とよく似ていました。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る