勇「機械音痴もここに極まれり」

「あれ? おねーちゃん? 偶然だねー」


 背後から聞こえる可愛らしい女の子の声に対し、髭面に長身で筋肉質の男性である私に対して「おねーちゃん」という呼称を用いるとはどんな奇特な性質の持ち主なのか。そう考えると怖くなって振り向く事を躊躇し、そのまま硬直してしまいました。


 も、もしかしたら、何らかの幻聴かもしれませんし。


 しかし、背後からは「あれ? 聞こえてないの?」と問いかける声。幻聴という線はなくなったらしく、どうやら奇特な人物に背中を取られている事は確定的に明らかな様子。


 うーん、ずっとこのまま声を聞き流していても仕方ないですしねぇ。

 ならばと思い、一思いに振り返ると、


「あぁ、なんだ。愛衣ですか」


 そこに立っていたのは私の妹、愛衣でした。


 安堵と高まった緊張の糸が切れた事によって生まれた「まるでガッカリした」かのようなイントネーションに愛衣はむっとした表情を浮かべます。


「何? 私じゃない誰かを期待してたっていうの?」


 愛衣はそう語ると突如、「もしかして」と何らかの推測を抱いたかのような事を呟き、表情を意地の悪い笑みへと変えました。


「……優さんだと思ったの?」


 どこか面白がっているようなイントネーション。まるで私と優の間で生じている事情をすでに知っているかのようですね。まぁ、知る由もないはずですけれど。当事者である私が勝手にそう受け止めているだけなのでしょう。


「まず、おねーちゃんという呼称を優が用いるわけがないでしょう。……まったく、こんな髭面の男に背後から『おねーちゃん』だなんて、どんな奇特な人が声を掛けてきたのかと思いましたよ」

「え? でも私はおねーちゃんの事を一人の男性として好きなんから、十分に『奇特な人だ』と思うけどー?」

「あー! そこは私が『でも、愛衣は十分に奇特な人物ですか』って意地悪そうな笑みで皮肉ろうと思っていたのに!」


 最後にとっておいた好物を横取りされた気分な私。


 何だか、感情の折り合いもつかない不完全燃焼となってしまい、ただただ嘆息するしかありません。


「それにしても、おねーちゃんって呼び方で違和感を憶えるなんて随分と慣れてきたって事じゃない? 男性としての振る舞いに」

「……一応、おねーちゃんという呼び方は女性の体の時から違和感でしかなかったですからね?」


 私は強く訂正するように言うと、愛衣は「そっかー」と大した興味も持ってない風に軽く返事をしました。


 それはさておき。


「そういえば愛衣。あなた、どうしてここにいるんですか? さっき偶然と言っていましたが、一人で喫茶店を訪れるようなキャラでしたっけ?」

「一人で喫茶店を訪れるのにキャラクター性なんて必要ないと思うけど」


 呆れた表情とそれに伴うイントネーションで語る愛衣は続けます。


「それにどうしてって、愛するおねーちゃんがピンチだから駆けつけた。これって素晴らしい姉妹愛だと思わなーい?」

「ん? ピンチって……ど、どうしてそれを――というか、駆けつけたって、どうやってこの場所を突き止めたんですか!」


 私はそう驚愕が引き連れてきた焦燥感から飛び出た疑問を投げかけつつ、改めて周囲を見渡します。


 三浦さんと別れてからの事です。只野君と昼食を頂いてから、いつだったか彼と談笑のために入った「あの喫茶店」へと移動しました。そして、彼との会話の中で私は優のアニメに対する嫌悪の由縁をそれとなく聞き出す事に成功したのでした。


 ちなみに、それとなく聞き出さなければならなかったのは無論、只野君の視点からすれば私は「彼の元級友、『勇』本人」なのです。自分の事を問いかける事になってしまっては不自然というものでしょう。優と彼の諍い的にも入れ替わりを無許可で開示するのはよくないかと思いまして。――とはいえ、まさか只野君に対して「私って過去に何って言ったんでしたっけ?」などとは聞けないので、そういう話題になるように何とか持っていったのですが。いやはや、どうしたものでしょうか?


 ――もう、完全に私の思考は行き止まりという感じでしたね。


 優がアニメを嫌う理由……最初に触れた作品の題材が良くなかったとも言えますね。相性としては最悪だったと、そう表現できるでしょう。


 そして何より私も場合によってはそういった感想、評価を得たかも知れないという予感が思考を停止させるのです。共感してしまうからこそ、私は優の解釈、その一字一句に対してぐうの音も出ないのです。


 優がアニメを嫌う理由はまず、根本的に否定出来ないもので。そして、それ以上に私がもう堂々と「好きなものを好きだと言う」その姿勢に対する気力を完全に削がれるような内容だったのです。


 それを自覚してから、私は心ここにあらずと言った感じでして。只野君との会話がおざなりになってしまったからでしょうか。彼は私が疲れているのだと思ったのか、「今日はお開きにしようか」と言ってくれました。その言葉は嬉しかったのですが、私は帰るという選択肢を選べない。知ってしまった以上はこちらも優に対して用いる言葉を見つけなければならない。自分の趣味を認められない彼女に、何と声を掛ければいいのか?


 しかし、それは今の所浮かんでこない故の、行き止まりでした。


 ――何だか、随分と話が逸れてしまいましたね。


 そんな状況でして只野君には先に帰ってもらって現在、十六時。私は一人でこの喫茶店に留まっていたのです。そしてこの喫茶店、常習的に利用している店というわけではないので、そう簡単には見つけ出せない場所に自分はいると思うのです。なので、愛衣がここをどうやって突き止めたのか。駆けつけたという言葉がもつ意味である「意図した行動」は成立しづらいと思うのですが――。


「いやいや。家にカメラとか仕込んでいる私がおねーちゃんの居場所を特定出来ないと思うの?」


 あっけらかんと答える愛衣。


「さらっと恐ろしい事を言わないでください! あと、それは偶然とは言いませんから!」


 私は引き攣った表情と、それに伴う上擦った声で悲鳴のような言葉を口にしつつ、もしかしたら携帯に何か位置情報を示すものが仕込まれているのかも知れない。そう思い、近々携帯を買い替える決意を固めました。


 恐怖に脅されて高鳴った鼓動を鎮めるために深呼吸をします。


 さて。落ち着いた所で、閑話休題。


「と、とりあえず愛衣がどうしてここを突き止めたのかは分かりませんが、察する事は出来ました。流石は私の妹と言ってしまうと何だか私も同じ穴の貉みたいなので、そういった表現は避けておきますがしかし、用件がまだ分かりませんね。ピンチだから駆けつけたと言われても私、何かに困っているように見えますか?」


 本当はかなり困っているのだけれど、という心の声を必死に聞かないようにして、私は意図して平静を装いつつ愛衣を見つめます。


 しかし、そんな私の態度に対して嘆息して「やれやれ」と言わんばかりに外国人風に肩を竦める愛衣。先ほどまで只野君が座っていた向かい側の席に腰掛け、店員さんを呼びつけてエスプレッソを注文しました。


「その質問に答えるとしたら、休みの日に友達と遊びに行ってしまうおねーちゃんに対して残念そうな表情を浮かべる優さんの気持ちを、『はっきりものを言う人だから』という理由で片付けて察する事をやめちゃって。で、そんな日々で折角重なった休みを一緒に過ごそうという選択肢を捻り出せずに苛立たせて、うっかり漏れた優さんの一言に激怒して家を飛び出したおねーちゃんが困っていないとは思えない」

「あなたはエスパーですかっ!」


 今日という日の私達をあらすじにしたかのように簡潔に語ってくる愛衣に、私は店内であるという事も忘れて大声でそう叫んでしまいます。驚きのあまり椅子ごとひっくり返りそうにもなりました。


 そんな瞬間、他のお客さんの視線と店主の鬱陶しそうな表情がこちらへ向けられ、私はやり過ごすが如く身を委縮して時間による解決を待ちました。


「いや、きちんとした科学だよ。この場所を簡単に突き止めてしまう私が、おねーちゃんの家で起きている事を知らないと思うの?」

「か、カメラ!」

「まぁ、安心してよ。優さんから外すように頼まれてね。リビングのカメラはきちんと外しといたから」

「あ、そうなんですか。よかった――って、私の部屋は!」

「優さん曰く『俺に迷惑が掛からないのなら好きにしてくれ』との事で、迷惑をお掛けしない程度に好きにさせてもらってるー」

「迷惑ですよ! 私のプライバシーは無視ですかっ!」


 私はそう強く、しかし他のお客さんの迷惑にならないように声のボリュームは落として言いつつ、内心では「優も何を許可してくれているのか」と思います。


 そんな思考をしていた最中、愛衣が注文したエスプレッソが届けられ、そのミニチュア珈琲カップとでも表現できそうな様相に「何ですか、それ。お子様用の珈琲ですか?」と嘲笑交じりに問いかける私。それに対して愛衣は、「そんな事言ってるおねーちゃんがお子様だよ」と呆れ交じりに返答してきました。


 今考えてみれば、そもそもエスプレッソって何なんでしょうか?


 そんな疑問を脳内で転がしつつ、注文していたココアを口に運ぶ私。


 いやいや、そんな事はさておき。

 あちらからの閑話休題。


「いやぁ、でも女の子に監視されてるって悪い事じゃないでしょ」

「女の子である以前にまず、私の妹です」


 私がそう断言するように言うと、愛衣は不敵に笑んで私の手を片方、その両手で包み込んでじっとこちらを見つめてきます。うっとりと、しかし意地悪に笑んだ口元と相まって何だかアダルトな艶っぽい表情で。


「もう血は繋がってないし、男と女だもん……何をしたって問題ないんだし。おねーちゃんさえよかったら――優さんから私に乗り換えてもいいんだよ?」


 そう語って愛衣は上目遣いで私を見つめ、わざとらしくパチクリと瞬きをします。


「い、い、いやいやいや! 私は優一筋ですよ! あんな理想の女性他にいませんから!」

「……なーんだ。喧嘩しててもやっぱり、そういう風に思ってるんだぁー」


 つまらなそうなイントネーションでそう語ると、愛衣は両手で包み込んでいた私の手をあっさりと離します。そして、片肘をついて視線を私から逸らすと「喧嘩するほど仲が良いなんて妬けちゃうなぁ」と物悲しそうに言い、突如――意地悪そうな笑みを浮かべて再びこちらへと視線を配ってきました。


「さ、さては、これを言わせる気だったんですね!」


 私はうっかり優に対する気持ちを吐いてしまったのが愛衣の意図した事だったと気付くと、我ながら騙されやすさに呆れてしまい、羞恥心を感じてしまうのでした。


「大正解! まぁ、私の気持ちも本当だけどねー。でも、優さんの事を本当はどう思っているのか。それを探るためには単純なおねーちゃんにはこういう手段が一番かなって」

「単純って……。でも、さっき仄めかしてましたけど愛衣は今日、優と会ってるんですよね?」


 さきほどの言葉。カメラを外すように頼まれたというのは、恐らく今日の話でしょう。私達の言い争いを聞いた時点ではカメラはまだ設置されていたはずなのですから。


 ……というか、制服を着てはいますが優に会ったという事は愛衣、学校をサボってますよね。


 一方、私の問いに対して、愛衣は「そうだけど、何か気になる事でも?」と薄っすらと不敵な笑みを浮かべて問い返し、私は「この状況を楽しんでいるな」と愛衣の若干の不謹慎さに怒りとかそういったものを通り越したのか、呆れを感じて嘆息してしまいます。


「いえ。どうしていたのかな、と思いまして」

「やっぱり心配なの?」

「そりゃそうですよ」

「おねーちゃんの大事なアニメのディスクを破壊しかけてた」

「な、何ですって!」

「いやいや、嘘だけどね」

「何でそんな嘘をつくんですか!」


 私は安堵したような、しかし怒ったような複雑な感情を乗せて強く言いました。


「あ。でも、それほど嘘でもないのかな」

「どっちなんですか!」

「まぁ、結局は優さん、あのアニメを見ようとしてたんだよ。でも、プレイヤーの使い方が分からなかったらしくて、電源も入ってないのに挿入口にディスクを押し込もうと」


 愛衣はそういってくすくすと笑いながら「ちょっと可愛い一面だよね」と茶化したように言いました。私としては肝を冷やすシチュエーションですが……しかし、機械音痴の優だからこそ、というべきか。容易にその光景が想像できますね。


「まったく、勘弁して下さいよ。結構、昔のアニメなんですから新品では売ってないんですよ」


 私が優の行動を聞いて顔面蒼白といった感じにリアクションしたのがさぞかし面白かったのか、愛衣はくすくすと笑っていました。


 失礼な、と思いますが――それ以上に引っかかる事があります。

 ――優があのアニメを視聴しようとした?


 それはどういう事なのでしょうか。歩み寄ろうとする姿勢? だとすると私としては何だか心温まる展開ではありますが、しかしそのような事はあり得ないような気がするのです。他ならぬ私が共感してしまい、まるで自分の事のように彼女の価値観を解釈出来る私だからこそ、そう思うのです。


 だって、優がアニメを嫌う理由は――。


「自分達の障害をネタに見せ物が作られているようで気に入らない。そんな創作物を皆が好き好んで視聴しているという世の中が本当に心外であるし、そもそもあのアニメは勿論絵で描かれたものであるから、男性が女性の、女性が男性の格好をして本来の性別を演じるという事で周囲に与える違和感が軽減されて、リアリティがない。都合のいい部分だけ抽出して作品のエッセンスとされているようで。そんな作品を見ていると、心を痛める以外に感想を得られない。だから、ああいった表現を平気で行う創作物、特に絵という媒体で自由の効くアニメが嫌い――それが、優さんが抱くアニメに対する価値観らしいね」


 私が語る前に全てを代弁してしまった、愛衣の言葉。


 しかし、そこに私が只野君から聞いて「優が抱いている真意はこういうものだろう」と解釈していた内容とは全く相違はありません。


 解釈とは無論、


『学生の頃、勇くんに勧めたアニメのあらすじでもの凄く取り乱していたと思うんだけど……やっぱり、覚えてないかい? 今は勇くんも好きだって言ってくれてる、あのアニメなんだけど』


 というような、あくまで只野君は「優」本人ではありませんので彼が優に言われた事を聞き、私が優の立場に立って物事を考えた時に行き着いたのが――愛衣も語ったような、そういう「思想」なのです。


 しかし、私がそう悟った時にはショックだったものです。アニメという媒体をそういう風に解釈する事も出来るのか、と。そして、それは一意見として流せるようなものではないと、私の立場だからこそ――私達の立場だからこそ、思うのでした。


 ――私だって、状況が状況ならそのように解釈したかも知れない。


 よりによってあのアニメが私達の意見を分かつとは……運命的というか、もしくは因果だと言うべきなのか。


 ですが、あの作品が私にとって救いでなかったら、ただ単なる嫌悪の対象だったかも知れない可能性はやはり、否定できないのです。それだけ嫌悪しているならば――そんなアニメを好む人間達に対して本心でなかったとしても、不意に。そう、不意に「あんな奴ら」と。自分の悩みを題材にした作品で喜ぶ人間達に嫌悪を感じられても、今の私は今朝のように怒れないのです。


 ――しかし、不可解ですね。


「愛衣。あなた、どうしてそんな事まで知っているんですか? 私だって先ほど、この場所で友人から聞いた所なのですよ?」


 私の咎めるような問いかけに、外国人風に肩を竦めて答える愛衣。


「おねーちゃんの居場所とプライバシーを管理している私が知らないと思うの?」

「と、盗聴までしているというのですか!」


 私は妹に隅から隅まで管理されているという事実が段々と怖くなり、体がガタガタと震えてくるのでした。


「いや、流石にそこは優さんに直接、聞いたんだけどね。でも、そういう思想を持った上でも、優さんは歩み寄ろうとしている。それを伝えるために私はおねーちゃんの所に来たんだよ。……だって、もしもだよ? おねーちゃんは優さんの過去を知っている友人と今日、会う予定があって。そして、優さんのアニメに対する嫌悪に疑問符が浮かぶような事件が起きた。それを知っている私の推測はこうなる。『きっとおねーちゃんはそのお友達のえーっと……そう、只野さんから詳細を聞き出そうとする』ってね。でも、私が優さんから『その価値観』を聞かされた時、おねーちゃんはきっと思考停止して、一歩も動けなくなる。それを確信したの。そんな嫌悪のされ方を聞かされたら、もうおねーちゃんは『好きなものを好きだ』と言えなくなる。そうじゃない?」

「……愛衣は鋭いですねぇ」


 私は圧倒的とも言える愛衣の洞察力に驚きながらも反面、自分にとって思考停止した現状が課題である事を今一度突きつけられた。もしくは向き合わされたような気がしました。


「それで、そんな行き止まりに陥りかねないから、私が優さんの現状を伝えようとしたんだけど――」


 愛衣の言葉に割ってはいるように突如――私の携帯が不意に鳴り響きます。


 皮肉にも、事件の渦中とも言うべきあのアニメの曲と共に。呼び出しに応じて私はポケットから携帯を取り出すと、そこにはメールの受信を知らせる画面が表示されていて。


 差出人はなんとあの機械音痴で、文字入力もまともに出来ない優からでした。


「どうも私のお節介だったみたいだね」


 そんな愛衣の悟りきったような言葉も耳に入らず、私はそのメールを開いてみます。


 内容が分からない故に生まれる少々の恐怖と緊張。しかし、それを凌駕する期待は優の「歩み寄る姿勢」を聞かされた事による確かな希望でした。


 そして、表示される文面は、


『じゅうろくじにこうえん』


 と、だけ記載されている簡素なもの。


 ただそれだけの端的な文章でしたが、伝えるという役割はきちんと果たされていると思うのです。


 そう、彼女が会いたがっているという事は、確かに伝わります。

 何だか、微笑ましくなるその文面です。


 しかし、奇妙な点が一つだけありますね。


「あれ? 十六時に公園って……」


 私は携帯の画面内に表示されている時計を確認しましたが、何度見ても時刻は十六時十五分過ぎた所。しかし、メールは今受信したばかり。指定した時間を間違えたのかでしょうか。まぁ、確かにその可能性もあるのですが……そんな推測を押しのけて浮上する、ある一つの予感。


 それを抱いたのは奇しくも、愛衣も同じだったようです。


「おねーちゃん……もしかして」


 私は呆れによって嘆息して片手で頭を抱え、しかし自然と口元は微笑んでしまう。そんな優の憎めない一面によってもたらされた感情は随分と穏やかなものでした。


「多分、そうですね。残念な話ですけど、きっと十五時過ぎくらいからこの文面を作成し始め、打ち終わって送信出来たのが今だったという事ですか」


 だから、「十六時に公園」という文章は、十六時を大きく過ぎてから届いてしまった。


 機械音痴もここに極まれりって感じですね……この短文。しかも漢字変換もまともに行われていない文章にそれほどの時間を要するとは。


 私はそんな微笑ましく、そして愛おしくもある優の失敗に心を温めつつ、それでも急いだほうがいいかも知れないと感じます。


 ずっと思考はストップし、最早どうしたらいいのか分からなくなっていました。そんな現状に変化がもたらされたとは思いませんが、しかし――私と優の現在、置かれた状況……その何かが変わるかも知れない、そんな予感に自然と動いた体が椅子から立ち上がらせ、そんな様子を上目遣いで見つめる愛衣は微笑みを浮かべます。


「やっぱり行くんだね? 優さんに対して語るべき言葉が見つかったって事?」


 愛衣の問いかけに対して、私はあっけらかんと首を横に振ります。


「残念ながらノープランですよ。でも、優が歩み寄ったのなら、私も彼女の方へと歩み寄って行きたいんです。今までずっと、『理解されたい、理解されたい』と繰り返して、本当に分かり合うために必要な事をしてこなかった、



 そんな私達にとっての転機であるならば、何かが変わるかも知れないなら、もしくは変わらないのだとしても、私は――それを理解したいのです」



 そう語りきって店から出ようとする私。そんな背後から数歩を歩んだ瞬間、「待って」と愛衣の声が聞こえて足を止めます。


 振り向き、見つめた愛衣は一瞬、視線を逸らして申し訳なさそうにしつつもしかし、意を決したのか強い視線で私を見つめます。


「行くんだったら、これをお願い」


 そう言って愛衣は一枚の紙を私に託します。


 ――それは、愛衣の注文したエスプレッソが書き記された伝票でした。

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