空の満月

西野つばさ

不可視の殺人

 11月も半ばに差しかかった頃、僕はとあるマンションの一室で、首吊り自殺というモノを目の当たりにした。

 生活感の無い殺風景な一室の玄関を跨いですぐ、天井に巻きつけられたロープと、天井を仰ぐようにして転がる木箱が、視界の隅に小さく映る。

 その中央には、首吊り自殺の標本にでもなったかのようにして、吐瀉物を撒き散らしながら、ゆらゆらと亡骸が揺れていた。

 鬱血により変色した手足は、力無く垂れ下がっており、室内に充満した刺激臭が僕の鼻腔をすり抜ける度、腹の底からは、津波のように嗚咽感が押し寄せた。

 ただ、箱の中で静かに眠りにつくその在り方は、僕には何処か、身近な死(もの)に思えて仕方が無かった。

 恐らくは亡骸(それ)が、僕には秒針だけが止まってしまった、振り子時計のように見えたからだろう――。



一、


 僕が紅月沙耶(こうげつさや)という人物に初めて出会ったのは、まだ10月の終わり、満月の晩のことである。

 高架下の路地で猟奇殺人の現場に出くわすという、とんでもない光景を目の当たりにしながら、僕の視線は彼女――紅月沙耶に釘付けになってしまっていた。

 黒絹のような綺麗な長髪に、肌は雪のように白く。

 整った顔立ちの中にある切れ長の紅い瞳は、ルビーのように凛々しく輝いていた。

 服装は白のニットシャツに、藍色のアシメスカート。太ももが露出した足先には、茶色の編み上げブーツ。

 口元に手を当て、うっとりとした表情で血流を見つめる沙耶の井出立ちからは、まるで名家のお嬢様を連想させた。

 でも、それだけなら僕は、無残にも傍に散らばる肉片を余所目にしてまで、女性の姿に見惚れたりはしなかったと思う。

 僕には沙耶のその幻想的な佇まいが、他の"人"とは違って見えた気がしたのだ――。


ニ、


「ちょっと青葉、聞いてるの?」

「ごめん、すこし考え事をしてた」

「まったく……。青葉の悪い癖ね」


 沙耶は呆れたようにそう言うと、オフィスデスクの座椅子に腰を掛け、咥えタバコを吹かしているマギーさんへと視線を向けた。

 マギーさんとは、町外れにある人形店、"メイト"の店主であり、凄腕の人形師だ。――そして、自称魔法使いでもある。

 とても繁盛しているようには思えない、この古ぼけた小さな工房の一室で、マギーさんは日々、球体関節人形の製造・展示・販売を行っているんだそうだ。

 天井に備え付けられた数少ない照明は、節電の為に薄暗く灯りを落とされており、小口ヤケのような昼間の日差しだけが、人形店メイトのライフラインを支えていた。

 人形達が所狭しに鎮座する埃っぽい店内で、チカチカと明滅を繰り返していた蛍光灯が、その短い役目を終えた時。

 ボロボロのソファーに腰を落としていた僕はというと、ふと、最近巷で噂になっているアレについて、マギーさんへと訊ねてみることにした。

 アレというのは、最近この冬実(ふゆみ)市内で頻発している、連続昏睡事件のことだ。

 僕の通う冬実高校の卒業生で、情報通でもある速見(はやみ)先輩から聞いた話では、それは決まって、人目につかないような場所で起きているらしい。

 発見された遺体に目立った外傷は無く、まるで充電の切れたケータイのような状態だったと言う。

 県警は血眼になって犯人を探しているそうだけど、犯人は未だに特定されておらず、唯一の手がかりと言えば、雨の日の犯行ということだけ。

 僕もその後、何度かテレビニュースに取り上げられているのを見たけど、どうも今月に入ってからは、既に4件目の被害者が出ている。


「マギーさん。誰にも認知されない殺人って、可能なことなんですか?」


 マギーさんは紙やすりで人形を削る手を止めると、およそ腰元まで届く長髪を束ねていたヘアゴムをするりと取り、興味津々そうに口を開いた。


「不可視の殺人、か……面白い。だがね青葉君、誰にも認知されないということは、それはもう殺人ではないよ。殺人とはね、それを見た者や聞いた者に、殺人の方法を認知されることで、そこで初めて殺人ということになるんだ。つまり認知されていない殺人というのは、初めから殺人じゃなかった、ということさ」


 毎度思うことだけれども、この手の話をしている時のマギーさんの言い回しは、僕にとっての頭痛の種だ。

 ソファーの前のデスクに置かれているのは、コーヒーの入ったマグカップ。

 僕はマグカップの水面を鋭い目線で睨みつけ、しばらく考え込んでいた。

 すると、腕組みをして壁際にもたれかかっていた沙耶は、ふいに小さな溜息を付く。


「そもそも、意識の入水を殺人とは呼べないわ。厳密には、肉体と精神が乖離してしまっているだけなの。アレは幽体離脱みたいなものよ」


 反射的に顔を上げ、僕はすぐに返す。


「でもね沙耶。殺人でなければ、自殺ということになってしまう。だってそうだろう? 殺人、つまり他殺以外で人が死ぬということは、自殺以外には無いんだ。それに、幽体離脱では人は死なないよ」

「だから、アレは他殺でも自殺でもないのよ。あらゆる生物の肉体と精神は、二つで一つなの。片方でも欠けてしまえば、それは不安定な状態になる。生きているのか、死んでいるのかすら分からない……。要するに曖昧なのよ」 


 そう、沙耶は淡々とした口調で言った。


「……ははぁ、なるほど。さては青葉君、例の昏睡事件のことを調べているようだな。けど、あまり得策とは言えないよ。君のような人物は、特に避けるべきモノだと言える」


 言ってマギーさんは、咥えていたタバコを、デスクの上の灰皿に押しつけた。


「僕のような人……?」

「そう、青葉君は純粋すぎるからね。……早い話が、悪いモノに取り憑かれやすいんだ。影響を受けやすい、とでも言えばいいのかな。ほら、青葉君って、人形が好きでこのお店に通ってくれているだろう? 純粋というのは、まさしくそれなんだ」


 自然、僕は拗ねてしまう。


「だって、人形は悪いモノじゃないですよ」

「違う、そうじゃない。空(から)を見つめすぎてしまうのがいけないんだ。その性質を持ち合わせている人は意外と多いが、君の場合、常人に比べてそれが強すぎる。子供は純粋、なんて言葉を、よく耳にするだろう? それと同時に、子供にはよからぬモノが見える、なんて言葉もよく聞くはずだ。青葉君の性質は、言うならばそれと一緒でね。ただ問題なのは、澄んでいるどころか、直んでしまっていることなんだが……まあいい。ともあれ、例の一件に絡んでいることは、そういった類の話ということさ」

「あれ? というかマギーさん。もしかして、また何か仕事ですか?」

「えっ、ああ……まあね」

「自称魔法使いともあろう人が、探偵業ですか」

「仕方ないじゃないか。ご存知の通り、本業だけじゃ食っていけないからね……」


 と、二足の草鞋を履いているマギーさんは、苦笑いで口にした。

 ちなみに僕が、何故マギーさんのことを"魔法使い"ではなく、"自称魔法使い"と呼んでいるのかと言えば、これには暦とした理由がある。端的に言えば、僕はマギーさんから、"魔法"というモノを実際に見させて貰ったことがない。だからかも知れない。僕はふいに、マギーさんにぶしつけな疑問を投げかけてみたくなった。

 長年片思いをしていた人に告白をするような心境で、僕は聞いてみる。


「ところでマギーさん。いつになったら、僕にも魔法を見させてくれるんですか?」


 案の定マギーさんは、鳩が豆鉄砲を喰らったかのように、目を点にする。

 口をぽかんと小さく開かせ、だがすこし考えるような、困ったような面持ちで、すぐにその口を紡ぐ。その返答にドキドキする。僕は今まで、誰かに告白をしたことはない。けれど告白の返事を待つ時というのは、もしかしたら、こんな感じなのかもしれない。


「……いいだろう。青葉君はうちの数少ない常連客だからね。少しだけ実演して見せよう」


 そう言ってマギーさんは、手元に置かれているジッポライターを手に取った。


「青葉君。魔法を発現させる為には、まず何が必要だと思う?」

「うーん、そうですね……。魔力とか、道具とか……」

「うん、勿論魔力も必要だし、大掛かりな魔法を行使するのであれば、時に道具も必要になってくるだろう。でもね、基礎的な土台部分のみで言えば、実はそうじゃない。例えばこのライターの火を具現化したければ、モノの骨格。言わば骨組みが必要になる。モノの現象を構成する源と、その現象が生じることによる具体的な事象、あるいは象徴とでも言えばいいのかな。ともかく、その二つを頭の中に強くイメージするんだ。すると……」


 カチッ、という摩擦音と共に、ジッポライターに火が点く。影のようにゆらりと揺らめく小さな灯火を凝視してみるが、しかし僕は釈然としない気持ちと、愕然した気持ちをほぼ同時に抱く。

 釈然としない気持ちは、僕が唾を飲み込むと同時に、心の奥底に落とし込む。それはまるで、タイムカプセルの中に、子供の頃から大切にしていたおもちゃを封入するような、淡くて純粋なモノだと思う。

 愕然とした気持ちは、僕が唾を飲み込んだ後に、体内に入った毒を吐き出すかのようにして、気が付けば口から出ていた。


「マギーさん」

「なんだい、青葉君?」

「今、普通に指で点火しましたよね」

「……。はて、なんのことだい?」


 マギーさんのその表情に、悪びれる素振りは微塵も無い。むしろ清清しいほどの笑顔だ。雷鳴は図々しく轟いているのにも関わらず、しかしそれでいて快晴な空模様の在り方を思い出す。似てる、と思った。まさしくこれだ、と思った。


「あの、マギーさん。予約していた例の人形なんですけど、あれ、キャンセルしてもいいですか?」


 なんだか急に嫌気が差して、僕は思いもしていない言葉を口にしている。右腕につけているデジタル時計に目を落とすと、時刻は夕方の4時18分。これからやるべきことは決まっている。あまり暗くなると困るな、と僕は思う。窓の外に目をやる。昼間の日差しが嘘のように、やけに灰色の雲が目立つ。

 マギーさんは火を点けようと口元に運んでいたタバコを落とし、まるでゾンビのような血相で右手を向ける。


「そ、そんな青葉君! うちのお店がどうなってもいいって言うのかい!?」


 本当に、ゾンビみたいだな、と僕は微笑してしまう。それを見て、先程まで暗雲のように立ち込めていた愕然とした気持ちは、掃除機で吸われたかのようにして、雲散霧消していることに気が付く。


「すみません、今日はそろそろ帰ります。あ、マギーさん、傘借りていってもいいですか?」

「いいよ全然いいよ!」


 その言葉を耳にしてすぐ、店の入り口隅に置かれた傘立てへと移動。黒い傘を適当に一本拝借する。


「けどね青葉君! 予約キャンセルだけはね……!」


 マギーさんの悲痛な叫びを無視して、僕は茶色の扉を開けた。扉の上部に据えられたドアベルは、風鈴のように甲高い音を奏でる。

 外に出てすぐ、僕は空を見上げる。どんよりとした灰色の積乱雲。そこには確かに、無性にざわめく嫌な予感と、雨の気配を感じられた。

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空の満月 西野つばさ @nisinonisin

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