無意識
見栄
◇
無意識
キイキイ、と音を立てながらブランコを漕ぐ。季節が夏であるのが幸いで、二十時の今でもあまり寒さは感じない。その代わり、りんの肌には、赤い虫さされの痕が目立っていた。そして、青黒い痣。母から受けた暴力の痕である。りんは虫はなんかへっちゃらであったが、彼女の実の母親に安心を求めることはできなかった。日が沈みきった夏の夜が更けていく。しかし、いくら待てどもりんの母親は八歳の娘を家にあげようという気は全く起きない。娘に対する愛情が欠如しているのだ。
(怒ったおかあさんはこわいけど、ちょっと待てばおうちに入れてくれる、はず)
少し我慢するだけ、と自分に言い聞かせる。何度繰り返しただろうか。俯き、涙をポロリと零す。そして急いで濡れた目をこすって顔を上げた。
男が立っていた。いつの間にりんの側に来ていたのか。シンプルな服装に色黒の肌は、爽やかな若者を彷彿とさせるが、一方で長い年月を生き抜いてきた仙人の貫禄も見える。龍のような切れ長の赤い目が、りんの背筋をひやっとさせた。りんは、男の、ギラギラと光る赤い目が自分を恐ろしい目に合わせてしまうのではないかと恐くなって駆け出そうとしたが、彼はりんの姿をじっと見つめるだけでりんに危害を加えようとする気配はない。それどころか、不思議なことに、りんは赤い目の彼に対して安心さえ感じてきた。
「りん」
男が名前を呼んだ。りんは何故彼が初対面であるはずの自分の名前を知っているのだろう、と疑問を口にしかけた。が、男のほうが先に口を開いてこう言った。
「つらいかもしれないが、耐えてくれ。おまえが自殺なんかをしたら、二度と会えない」
「え?」
彼の言った言葉の意味が理解できず、戸惑った。男はりんの様子に構うことなく歩き出し、団地の公園を出て、そのうち姿は見えなくなった。
その日の夜から十年後。十八歳となった今でも、りんは赤い目の男を忘れることはなかった。その夜の次の日から、りんは彼を探しまわった。しかし、どんなに探しても男を見つけることはできず、とうとう彼を探すのを諦めてしまった。たかが小学生の力とはこんなものなのか。ただ彼が再び自分を迎えに来てくれることを待つ。そして十年が経っていた。その十年のあいだで、りんが母親から虐待を受けていたことが近隣の住民による通報によって明らかとされた。母親は刑務所に入所し、りんは母と離婚した実の父親のもとで暮らしていた。父は、憎き元妻と血のつながった娘であるとりんを嫌う、ことはなく、今まで助けてやれなくってごめんな、と涙を零しながら謝った。貧しく、いつも怯えていた生活は、豊かで暖かいものとなり、りんは幸せな日々を送っていた。
――おまえが自殺なんかをしたら、二度と会えない。
彼の言葉の通りに、ずっとそれを信じて生きてきた。暗く、いつも怯えていた人生はあの赤い目の男のおかげで救われていたのである。
学校の授業を終え、帰路につくりんはたまたま通りかかった公園の前で自転車を止めた。昔、母親と二人で暮らしていた団地の公園である。そして、赤い目の男と出会った場所。十年前のことを思い出し、りんは自転車を水飲み場の前に駐め、ベンチに荷物を置いた。滑り台やジャングルジムなど、思い出のある遊具はたくさんあったが、真っ先にブランコに向かった。ブランコの鎖を持つと、手に赤茶色の錆がひっついた。キイキイとブランコを漕ぐ。
もうあのときのような子供ではない。ブランコを漕いでいるうちに、赤い目の彼を再び探しだそうと決心をする。生きる希望となった彼のことを。彼の言葉通り、自殺はしていない。だからまた会える。男のことを思い出し、涙が零れそうになったので上を向く。
男が立っていた。りんはあのときと同じような光景に呆気にとられた。だが、男……というべきだろうか? いつの間にかりんの側に立っていた男は、青年というよりは、少年である。十歳くらいであろうか。最初のうちは、ぼう然と少年を見つめていた。しかしあのときと同じような光景というだけで、彼ではないのだ。どうにか落ち着きを取り戻そうと深呼吸をする。
「どうしたの?」
少年が黙ってこちらを見ているので、りんは、どうか自分も少年に対してうまく会話できるようにぎこちなく笑った。少年は目をぱちくりと瞬きを繰り返し、そして目を細めた。
「りん。君をずっと、待っていたよ」
少年らしからぬ大人びた表情をしながら彼は言った。確かに、「りん」と、自分の名前を。少年はりんの手を取って、ゆっくりと握った。その瞬間、頭のなかにある光景が流れこんできた。
◇
「ああ、神よ! どうかこの村に雨を降らせ、作物を実らせてください! この子供を貴方のものとして捧げます!」
村人たちは跪き、社に向かって祈る。社の中に閉じ込められた少女は、為す術もなく、自分が水不足と凶作から村を救うための生贄とされた事実を、黙って受け入れるだけであった。少女は、元々山に捨てられていた子で、身寄りもいない。当時、少女を山から連れ帰った年配の竹刈りも、既にこの世にはいなかった。死んで悲しむ者は誰一人いない彼女だからこそ、神に捧げる生贄として選ばれたのだ。
やがて村人たちの祈祷の声はしなくなり、辺りに誰もいなくなった。少女は孤独には慣れていたものの、これから神に連れて行かれるだろうという畏怖の念に襲われていた。
宇井神、とはその地で豊作や天候を司る神である。
天におはす宇井神は、村人の祈祷を聞いて、その村に雨を降らせようとする。その前に、生贄の少女の姿を見た。普通、生贄として捧げられた人間や動物は、天で魂となって神と共に居たり、神の一部となったりするのだが、宇井神はその少女のうつくしさに目を奪われ、少女を生かすことに決めた。宇井神は、少女の身体を奪い、魂だけとすることや自分の一部にしてしまうのは何だか勿体無いと思った。神が生贄を生かすとは、なんと稀なことである。
社のなかで目を覚ました少女は、自分がいまだ生存していることに驚いた。そして、背後に気配を感じ、振り返った。
「か、み……さま?」
「ああ。私は、豊作や天候を司る神だ」
「かみさま……、それでは祈祷は成功したのですか!」
「そうだ」
少女は一瞬表情を輝かせたが、すぐに疑問に思った。
「祈祷は成功したのに、何故わたしは生きているのでしょうか。それに、わたしは不思議と喉も渇かず、お腹も減っていないのです。長いあいだ眠っていた気がするのに」
宇井神は答えに詰まった。生贄を生かすとは、稀の稀である。ぐう、と唸ると苦し紛れに嘘を吐いた。
「私は神であるが、今は村の男に憑依しておまえと話している。だからこの姿は仮である。私が憑依したこの男は、幼いながら生贄とされたおまえを可哀想と思って、こっそりおまえに水や栄養を与えていたのだ。私はおまえを天にやろうと思っていたが、この男の強い意思により、おまえを連れ帰ることはやめた」
よくもまあスラスラとそれらしい嘘が出てきたものだ、と宇井神は自身に対し思った。一方で、少女は絶句した。神に対してなんと罰当たりだろうか! とでも言いたげな様子で、少女は宇井神に対して深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。その男の人が誰なのかわたしはわかりませんが、神様に失礼なことをして、その男の人の代わりに謝ります。だから、彼の魂は連れて行かないでください」
今度は宇井神が言葉を失う番であった。少女はうつくしいだけではなく、魂も清いのか。
「男の魂を取る気などない。しかし、これからおまえは隠れて暮らさねばならん。村の者はおまえが死んだと思っているのだ。だからこの男と共に隠れて暮らせ」
宇井神のホラは後戻りできないほどに成り上がっていた。元々少女を助けた男などいない。つまり、宇井神と共に少女は暮らしていかなければならないのだ。しばらく天に帰れないのは憂いだが、気に入りの少女と共に、彼女が死ぬまで暮らすのは悪くなかった。
そして、神と少女の奇妙な生活が始まったのである。
神の寿命は人間の寿命より非常に長い。だから、宇井神にとって少女が年老いた老婆になるまでの時間はまたたく間であった。年老いた老婆が宇井神の手を握り、宇井神もまた彼女の手をしかと握っていた。これから自分の気に入りの人間は死にゆく。人間の死は何度も見てきたが、ここまで感慨深いものは初めてであったので、宇井神は戸惑い、ただ少女の手を握るしかなかった。
「宇井様……今まで、ありがとうございました」
「もういい。無理をして喋るな」
「私は、貴方に伝えなければならないことがあります」
老婆は宇井神の姿を真っ直ぐに見つめた。
「貴方は、幼くして生贄に捧げられた私を救って下さったと言っておられますが、それは嘘ですね。貴方は、かつて私が姿を拝見した神様でしょう」
「……おまえ」
「神様、私を救ってくれて本当にありがとうございます。私は身寄りもなく、私を拾ってくれた信頼していた人もすぐに亡くなって、自分の人生がどうなってもよかったと思っておりました。しかし、貴方が姿を見せ、こうして人間の姿をしてまで私と共に居てくれたことで、孤独を感じることは御座いませんでした。貴方はご自分が神であることを私に知られまいと必死に隠しておられましたが、物心ついたときにはもうあなたが神であると推測していたのです」
宇井神は唖然とし、沈黙した。
「宇井神様……。今まで本当にありがとうございました。恐れ多くも、貴方と恋人になれたこと、本当に幸せでした」
こうして彼女は息を引き取った。宇井神は、彼女を失ったという大きな虚無を抱え、動かなくなったうつくしい身体をただ見つめるだけだった。
「りん……。お前のことを忘れない。そして、もう一度会おう、もう一度お前に会いたい」
◇
「おかえり」
りんは少し驚いた顔をしたが、すぐに記憶を思い出して宇井神に笑って返答した。
「……ただいま」
りんは生きすぎている。
彼女は何度も何度も生まれ変わる。前世の記憶を全てもしくは部分的に覚えていたり、または全く記憶がなかったりする。生まれてくる度に土地や環境、顔、姿など全てが違うが、その憂いた表情と目は何回死んでも何回生き返っても、変わらず彼女のものである。
死んでも死に切れない。
「これの前の人生は父親が最低でした」
「貴族の娘であったときと比べたらどうか?」
「ええと……、お嬢様のときは二つ前かしら。あのときは期待が大きすぎて嫌でした。フフ」
人間と神は、普段の日常から外れた話を続ける。
「また繰り返しているのですね、毎回毎回、貴方に会ってしまう。何度死んでも生き返っても、貴方は必ず私の側に居て下さる」
「ああ」
宇井神は疑問に思っていた。確かに自分はりんが好きで、彼女と再び出会うことを望んでいた。しかし、何故自分と何度も巡りあうのだろうかが不思議である。自分が意識的に邂逅を望み、彼女のもとまで歩んでいるわけではない。かといって彼女が原因でもないだろう。偶然が重なり合っているのだろうか。
りんは、どの人生においても必ず宇井神が恋人である、ということはなく、前世に全く関係のない男と結ばれたり、生涯独身であったり、様々な恋愛を謳歌している。宇井神は、りんの「初めての」恋人だった。宇井神はりんの恋愛を割り切っているつもりであったが、彼女の恋人たちに不快な気を覚え、神であるにも関わらず嫉妬心を露わにする自分を浅ましく思っていた。
「私、もうすぐ死ぬんです」
「……何故?」
「癌です。もう、余命僅かって」
「また逢いましょうね、宇井神様」と、笑いながら帰って行くりんの後ろ姿を見て、彼女の言った「また逢う」という言葉を繰り返した。
宇井神の余命もまた、僅かであった。
自分が神として生きている限り、りんに再び逢うことは難しくないだろう。しかし、神である自分が滅びてしまったら? 「いつも」のように、また逢えることはなくなるかもしれない。
「りん。お前は次、来てくれるのだろうか。私にはもう時間がないのだ。……お前が来ないなら、私が逢いに行く」
◇
急に意識が戻ってきた。癌で死んだのが「前世」。そして「今世」で今は、女子高生であることを思い出す。
「……宇井神さま」
「ああ、りん! ぼくをわかってくれたかい? 会いたかったよ」
「宇井神」は、神を全うし人間の少年として生まれ変わった。全ての人生の記憶と彼の変わらずにいた姿がりんの頭のなかに再び流れ込んでくる。
「宇井神様……! どうして私、気づかなかったのでしょう。まだ私が幼いとき、この場所で貴方が私を見つけてくれたのに」
「もうぼくを敬うのはやめてよ、りん。ぼくはもう神さまじゃなくて人間なんだよ」
「人間になっても、貴方は私に孤独を忘れさせてくれた恩人ですもの。それは変わりませんよ。それにしても、随分可愛らしいお姿になられましたね」
「うん。神の身体とくらべて、どうも人間は勝手がわからないなあ」
宇井神は、左の手の平を握っては放すのを繰り返した。右手はりんの手をしっかりと握って。
「りんにずっと言いたかったことがある」
「……私も宇井神様に言いたいことがあります」
「ぼく、君の事が忘れられない。最初の人生で君が死んだとき、とても悲しかった。その後の君の人生で君に恋人がいると知ったとき、ぼくは浅ましくも嫉妬さえしてた。りん、僕とけっこんして。神じゃなくとも、君を守ってみせるから」
少年は龍のような赤い目をキラキラと光らせ、強く言い放った。あれほど強い存在だった宇井神は、今はこうして上目遣いで私を見つめてくる。
「……はい」
少年の宇井神は「やったあ!」と子供っぽく手を上げてガッツポーズをした。女子高生のりんは恋人の少年らしい仕草に口を開けて笑った。
「で、君の言いたいことってなに?」
「……やっぱり言いません。内緒です」
「ええ!」
「なんだよ!」と悪態をつく宇井神をよそに、りんは一人思っていた。彼女の心の仄暗い場所から、もっとも、口には出さなかったが、彼に対して呟いた。
私、知っているのですよ。十数回目の人生で気づきました。
私が何度も「繰り返している」理由はあなたが原因だということを。
私の最初の恋人。私が死んで、貴方は酷く悲しんだ。貴方は私に再び逢いたかったのでしょう。神と人間の関係、神と人間の寿命を、ひどく憎んでいたのでしょう。
だから、私が生き返る度に自分の社に私を無意識に呼んでいた。
しかし貴方はもう、私を「繰り返させる」理由を忘れてしまっているのですね。私と貴方が何度も出逢うことを、貴方は偶然と考えていらっしゃる。貴方自身が私を「繰り返させている」ことを思い出さなければ、私は何度も生まれ変わるのです。
私の、可哀想な恋人。
私の、可哀想な神様。
だけど構いません。死の苦しみを何度味わっても、私は貴方のことが好き。だから、貴方と私は千年先でもずっと共に居るのでしょうね。
無意識 見栄 @greenning
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