第2話 百万回のいのち

 百万回生きたねこ?

 それってあなた? それとも彼女?


―ある情報端末の疑問―



 二〇〇六年二月一日。早朝、六時五十七分。本体の組成から約七時間が経過。

 カーテン越しに感じる外の明るさを知覚し、休眠状態から覚醒状態へシフト。

 要するに、目覚める。

 あたたかい布団のなかから窓に目をむけると、カーテンの隙間からうっすらと見える空は薄い青色に染まっていた。

 すでに昨夜の雪はやんでいるようだったが、顔の表皮で感じる室内気温はかなり低い。顔を横にむけるとそこには同じ布団のなかで、人間が熟睡しているのと変わらない朝倉涼子の寝顔があった。

 情報端末がここまで人間のように睡眠擬態をおこなう必要があるとは考えにくいのだが、自然とそのような動作を実行している。そんな様子を見てつくづく奇妙な端末だと、朝倉涼子という同種の存在に対して強い興味を抱くようになっていた。

 彼女というひとつの存在。

 彼女と、わたしという別々の存在。

 これが、個というものが持つ多様性のひとつなのだということなのだろう。


 個を得るという不思議な感覚。

 それまで情報統合思念体をふくめた情報生命体には「我々」という意識はあっても「我」という概念が希薄だった。皆無といってもいいほどに。

 もしかすると情報統合思念体は、情報端末インターフェースという、自分と切り離されつつも感覚を共有できる自律個体を創造して、はじめて「我」を表明する他者を認識できたのかもしれない。

 そういったなかで、彼らが造り出した朝倉涼子というこの情報端末は、これまでのなかでもきわめて変わったパーソナリティを確立しているのではないだろうか。

 彼女の、この環境への順応度を見るにそう考えるのだった。


                 ◆


 情報統合思念体が姿を消し、完全に孤立無援の状態となったいま、できることは想定外任務となった情報フレアの発生時の直接観測と、それに至る発生源、涼宮ハルヒの監視に集約される。

 世界が変動している、あるいは別の時間平面に誤って投入されている、といった推論でしかない現状はたった二体の、支援も受けられない情報端末ごときでは対処しようのないものだった。

 そのような経緯で再設定された任務の優先順位は、情報フレアが発生する四月四日に備え、涼宮ハルヒの監視と平行して自身の対人接触機能の改善を可能な限り実行すること。

 とくに対人機能改善の手法についての手段は、朝倉涼子が提示した「とりあえず人間の真似をして、そこから学び取れ」といういまひとつ実効性が疑問視されるものだった。

 妥当な案だと納得はしている。

 少しおかしな面も見受けられたのだが、ではほかになにか別の案を提示できるのかと聞かれるとできないわけで、しばらくは彼女の言うとおりにするしかないのが現実だった。

 その朝倉涼子の計画した今後の行動予定を記憶領域から整理して呼び出してみる。

 本日は、先遣端末である彼女の意見から自身の駐留拠点アウトポスト――「自宅と訂正せよ」との提言がなされたため、以後は自宅、あるいは居宅と呼称する――で使用する家具や内装、そのほか雑貨の購入、配送手配……という予定である。

 思念体総体より命じられた本来の任務とはかなり逸脱した内容と考えられるのだが、自力での機能改善につながる手段がこれしかないという以上、選択肢はほかになかった。フレア観測から三年後に涼宮ハルヒが入学するという北高への潜伏という、人間のなかにまぎれて行動することを見据えた場合、重要度は増す。

 北高潜伏までに三年間という猶予期間を与えられたのも、人間という有機生命体の本来の姿や意味を理解できない概念的存在の思念体だったがために、現地で実際に活動している、人類の感覚を共有・分析可能な情報端末の独自行動の選択肢を尊重しよう、ということだったのだろう。おかげで自分の不備に対応できる時間が作れたことは幸いではあった。

 情報統合思念体という我々の創造主。いまは完全に姿を消してしまっているが、ほんとうに彼らは戻ってくるのだろうか。それとも彼らのいる未来に帰還することがかなうのだろうか。

 いまはまだ何もわからない。


「おはよ、長門さん」

 いつの間に目覚めたのだろう。至近距離。わずか二十cmほどの距離の先からの、発音のはっきりしない声。半開きのまぶた。人間の生体活動の再現性はおそらく完全なものなのだろう。

 そういえば昨夜、休眠に入る直前に彼女は言っていた。

『わたしも最初はそうだった』と。

 わたしほどではないにしろ、彼女も組成された直後は、やはり感情や感覚をうまくとらえ、表現できていなかったということなのだろうか。とてもそうは見えないのだが。

 先遣してい経験を得ていたとはいえ、たった一ヶ月でここまで人間らしくなれるのか、どうも釈然としない。

「よく眠れた?」

「休眠状態からの復帰に問題はない。活動はすぐに再開できる」

「そう」

 にっこりと微笑み布団から起き上がる。さらに大きなあくびまでしてのけてから、まだ寝た状態のままのわたしの手を取って言った。

「起きて朝ごはんにしましょう。何がいい?」

 端末が食事。本気のようだった。

「ほんとうに食事をするの」

「もちろん。有機生命体の栄養摂取に必要なことよ」

「その有機生命体ではないわたしたちに、本来それは……」

 朝倉涼子はまぶたを半分閉じて、わたしを睨みつけるよう低い声で言った。

「寝る前にも説明したけど、人間と食事をするとき、作法をふくめてきちんと理解してないと、たぶん、浮くわよ」

「浮く」

 つまり、正体が露見する、あるいは不自然に思われる、そういうことだろう。

 こういう納得のいく説明が加わるともはや反論しようもないのだった。


 寝巻きを着たまま、トーストとベーコンエッグ、それにオレンジジュースという食事を適切だと思われる方法で摂取した。食べることはできるにはできる。これといった何かが得られたかは自分ではわからないが。

 いっぽうの朝倉涼子は、テーブルの上に散乱した大量の食事の断片を整理し、ダスターで廃棄処理をおこない、そして食器を台所に運んでいく。

「今度は食べ方、教えてあげるからね」と言い残して。

 どうもだめだったらしい。自己評価低下中。

 台所では使用した食器を洗浄し、有機物を除去し、衛生を保つための作業を実行している。わざわざ水と界面活性剤を使用してやるのだというから徹底している。もう異論をはさむのはやめたけど。

 食器が持ち去られたテーブルの上に一枚のチタン製のカードが置いてあるのに気づく。

 おそらく彼女が置いたものだろうが、何のカードだろう。

 台所で洗浄作業中の朝倉涼子に見せてみたところ、この国で使用できる金融機関のクリアランスカードということだった。

「ああ、それね。わたしが造っておきました」

「これは何」

「今日、買い物するって言ったでしょう。物を買うには対価、貨幣がいるのよ。貨幣の代わりに使えるカードがそれ。わたしたち的にいうとリソース・プールというのかな。人間のさまざまな労働力をいろんな指標で換算して等価交換できるもの、といえばわかりやすいかも。ちなみにそれ、アメックスセンチュリオンのブラックカードよ」

 データ検索したところ、一般人ではまず入手不可能なカードである、ということだけは理解できた。年間維持費が三五〇万円というそれは、偽装するというなら我々のような外見的に十代の女性が持ち歩いていいものかどうか、さすがに考えさせられるものだったのだが、彼女が言うのだからよしとしよう。

 陶器の皿が触れ合う音と水の音が発生する中で、彼女はわたしに目を向けることもなく、慣れた手つきで洗浄作業をしながら説明を続けていた。

「お金があれば、この世界ではたいていどうにかなるのよ。たとえば感情すらも買えることがある」

「感情を、買う?」

「全部とは言わないけどね、そういう人間たちも中には存在するという話」

 うかつに評価してはならないような言っているような気がするが、そこはあえて無視する。

 しばらくして食器を洗い終えて台所から出てくると、朝倉涼子はわたしに着用させるための衣類をドレッサーから選び出す作業をはじめた。

 あのようなカードを造るというなら、衣類程度のものこそ情報操作で造り出せばいい、と改めて提言したのだが、彼女はその行為に許可を出さなかった。あくまで直接人間と接触させることを優先させたいらしい。ヒトと接して買う、ということにこだわっている。

 当然ながら、身体組成時に同時に生成された例の北高の制服は「まだ入学もしてない」という理由で使用を禁じられているから、三年後までは使用することはできそうになかった。そのときが来るまでは自室で保管しておくことになるだろう。

 こうして簡単な朝の栄養補給(無駄だったが)を終え、朝倉涼子の私物からどうにか着られるものを選択して着替えを済ませ、ようやくふたりそろって玄関から外に出る。

 いよいよ人間たちの社会活動の基盤となるシステム、街への移動を開始するのである。わたしにとって人類との初接触経験となるだろう。

「うん。そのコート、よく似合うわ」

 冷たく新鮮な外気にさらされた五〇五号室の外の廊下に出て、改めてわたしの姿を確認する朝倉涼子の声には、言葉の内容にそぐわないかすかな動揺の気配が漂う。

「そう」

「うん、ほんとうに似合ってるから。だいじょうぶ」

 自分の言葉を無理に補強するような不審な態度。なぜわたしから視線をそらすのか説明してほしい。

「…………」

 両手を広げ、再度自分の外見を目視で確認してみる。到底しっくりくる、とは言いがたいものだった。

 何しろ朝倉涼子と自分とでは、体格からしてすでに違う。寝巻きもそうだったが、いま着ているダッフルコートはだぶつき、両手はわずかに指先をのぞかせるのみ。明らかにあるべき位置に袖がない。長すぎる。

 十六歳に設定された生体年齢は同じはず。だが、なぜこうも個体差異が認められるのか、理不尽なものを感じる。個体差の再現にしても度が過ぎるのではないだろうか。

 しかし朝倉涼子は、こちらが感じている憂慮を知ってか知らずか、袖から顔を出しているわたしの指先をその細い手でにぎり、率先してエレベータに向かって歩き出した。

 手を引かれ、ただ黙って従って彼女のうしろをついていく。

 とにかく今は人間のことや、この世界におけるさまざまな環境適応行動を、彼女の経験と知識から学んでいこう。彼女とならきっと、うまくやっていけるはず。

 そんなことを朝倉涼子の背中を見ながらぼんやりと感じていた。


                 ◆


 ふたりで並んでマンションを出ようとすると、一階フロントのオートロック・ドアの直前で声をかけられた。

「おでかけかね、朝倉さん」

 振り向くと、この建造物の管理人室から出てきた壮年の男性がひとり、にこやかな表情で立っていた。人間の男性の声ははじめて聞く。予想するよりずいぶんと高い声だった。

「おはようございます、管理人さん」

 朝倉涼子の手なれた対応だった。何度見てもこの動作と言葉づかいのたくみさは評価するに値する。

「この子は」

 管理人の男性がわたしをじっと見つめてくる。彼の興味を惹いてしまったようだ。じっとこちらの様子をうかがっている。

 どうしたものだろう。

 この至近距離で人間と対面し、コミュニケーションを図るのはこれがはじめてのことだった。

 もしもわたしの対応の不完全さによって正体が露見してしまったらと思考する。

 言葉、しぐさ、どれをとっても、今の自分には朝倉涼子のそれを上回ることを期待することなどできないのに。

「ふむ? あー、確か……」

「…………」

 即応できない。完全に対応が遅れる。シミュレートももちろん実行している。だが、まるで役に立たない。それらを支えるデータの基盤がそもそもない。

 そのうえで感情を偽装することができない。朝倉涼子のような、笑顔や表情を作ること。それができない。

 その時、横からすっと影が入りこむ。

「えーとですね」

 朝倉涼子だった。

 ごくわずかな、そうと意識していなければわからないほどのスムーズな動作でわたしの前に出る。最小限の動きで管理人の注意を自分へと引きつけ、かばっているのだ。

「今度こちらの七〇八号室に引っ越してきた友だちの長門さん。わたしたちの両親も昔から付き合いがあるんで、どうせならということで同じマンションに。これから、このへんの案内もかねて一緒に買い物に行くところなんですよ」

 ……ともだち、と朝倉涼子はわたしをそう紹介した。

 友だち。

 その概念の正確な部分は不明。外見を記憶している対象? 社会的に関係性の高い人物? よく理解できない言葉だった。 

 守られると同時に、完全に会話の輪に入る機会を逃してしまった。朝倉涼子はちらりとこちらに視線を向け、軽く片目をつむる。

 これはサイン。直後、思考リンクの確立要請を受信。承認。

(ここはわたしに任せて)

 言われるままに視線を落として返答のかわりとする。ここは彼女にすべてを委任するべきと判断せざるをえない。

 朝倉涼子のそつのない話術に、管理人は顔をほころばせ「そうかい。じゃあこれから楽しくなるね」などとうなずいている。

 完全に対応手順を停止していた――ようするに何もできなかった――わたしはただ目の前の会話を見ているだけ。対人コミュニケートの実地研修を受けているような、そんな奇妙な時間だった。

 長引きそうな挨拶を折りを見て切りあげ、わたしたちは早々にその場をはなれた。


 外は昨夜の雪が降り積もったままだった。晴れ間の見える空から微弱ではあるが太陽光が差し込んでいる。ただ気温はたいして上がっていない。この日本において二月という季節はもっとも寒い時期だということは基本情報から理解していた。

 すでに踏みしめられた雪の歩道の上にふたりで並び、徒歩のまま繁華街へと向かう。

「どうだった? はじめてヒトと接触してみて」

 朝倉涼子がわたしと肩を並べて雪道を歩きつつ、話しかけてくる。

「…………どう、と評価できるなにものもなかった」

 さきほどの遭遇時の対応に対する自己判断評価はきわめて低いレベルにあった。はっきりいって失格である。この感覚は……落胆、というものだったろうか。

 どうもこうもない。このままではほんとうに何もできない。

 自問から得られた回答を発信するため、顔をあげた。

「この不具合の改善は早急にどうにかならないだろうか。このままでは、あなたがいうヒトとの直接接触しての経験獲得どころではない。それ以前の問題」

「そうね」

 わたしの意見に対してなにかを検索しているのか、朝倉涼子は目だけを上に向けている。

 ほんの数秒。結論に達したようだった。

「そうだ、長門さん。無口キャラで行きましょう。それがいい」

「……むくち、きゃら……?」

 わたしのアーカイブにない単語だ。

 先行配備されている期間中に、独自に現地のスラングを収集していたののかもしれない。あるいは観測対象となる涼宮ハルヒと再接近しての接触を担う能力を保持している端末なのだから、蓄積している基本データ量がもともと豊富なのだという可能性もある。

 それはともかく、補足説明はほしい。

「それは、なに」

「ようするに、あなたの人格傾向の設定。対外的に『この人物とはそういうものなのだ』とアピールすることで『それならしかたない』と納得させてしまうことができるということ。効率のいい偽装だわ。つまり長門さんは無理に人格の改変や改造をおこなわずにすむ。そのままでいい、ということ」

「…………そう?」

 ほんとうだろうか。そんなことですむ問題とはとうてい思えないのだが。

 素直に同意しかねる自分がいる。

 しかし朝倉涼子はすでにそのつもりでいるようだった。

「となると、やっぱり外見からどうにかしないとね」

「外見というと、服装?」

「あたってるけど、ちょっと違うかな」

 口を手でおおい隠し、くぐもった声でのはじめて見るタイプの笑みだった。これまでのものと雰囲気が違う。いったい笑顔だけで何種類のパターンを保有しているのだろう。

 しかしそれはそれとして声色こわいろにもなにかを感じる。

「あなたは何をしようと……」

「だいじょうぶよ。わたしに任せて。行きましょう」

 問答無用でふたたびわたしの手をにぎると、楽しさという感情表現を体全体であらわすように、朝倉涼子は歩く速度をあげた。


                 ◆


「こっちの方がいいんじゃない」

 店内のカウンターに座るわたしの前に、候補のフレームとしてすでに六種類が並んでいて、いままた新たに七つめのフレームモデルが運ばれてきた。朝倉涼子はこの店舗に入って以来、わたしにつきっきりで助言をしている。

 眼鏡、という眼球視力の補正器具販売店なのだと彼女は説明していたが、しかしいくら個体機能に不満を表明しているとはいえ、わたしの生体光学センサには何の不具合も発生していない。あくまで懸念しているのは感情表現能力や、対人対応力の問題なのだ。

 そのことを告げると、朝倉涼子は「むくちきゃら」という偽装確立のためにこれは絶対に欠かせないものなのだと説明する。

 彼女がわたしに施すという外見偽装のおおよそのイメージとは……。


『他人の注意を惹くような派手な外見をさけ

 自分からは必要以上の意見表明をおこなわず

 眼鏡という視力補正器具を装着し

 ひとり図書室の窓辺で本という情報媒体を読みふける

 対人関係の構築が不得意で

 とても寡黙かもくな、純文学をこよなく愛好し

 けっしてため息をかかさない

 はかなげで可憐な、つかみどころのない美少女』


 ……という、すさまじく限定化されたパーソナリティを確立することにあるという。

「おかしいと判断する」

 率直な分析である。

「なにか理想というか、実際には存在しえない人格や性格のような印象を受ける。非現実的な人物像」

「反応、冷たいなぁ。理想的なキャラクター設定だと思うんだけど」

 欠損著しい乏しい内部領域のデータから、これは「対岸の火事」であるとか、「しょせんはひとごと」であるとか、そういう表現を適用していると推測する。

 たぶん。

「単なる対人接触が苦手なだけの人間、というカテゴリに入るだけで、好意的評価を受けられるような印象を受けない」

 彼女の自然な振舞いはさすがに理解できているわけだから、それと比較したらいくらなんでもおかしいことはわかる。不自然にもほどがある。

「うしろ向きに評価すると、人生つまらないよ?」

「わたしはヒトではない。人生というものには人間にしか意味がない」

 頭のうえで朝倉涼子のため息が漏れるのが聞こえる。

 かすかに、とても小さく。

「冗談はともかく……ほんとうにそんな人を求めている人間がいるの。ここにはね」

 店内から外の風景に目を向けて、少し声の調子を落として彼女はそう言った。

 具体的になにかを知っているような、そんな雰囲気だった。

 なにを知っているのだろう。椅子にすわったまま後ろを振り返り、朝倉涼子の横顔を見あげる。そのときの彼女はここではない、どこか遠くを見るような、そんな目をしていた。

「この偽装計画が、その思惑おもわくどおりに完全に実施されれば、今後あなたの機能改善が果たされなかったとしても、人目をはばかることなく安心して活動ができる……それは保証するわ。ほんとうよ」

 何かふくみのある言葉のように感じられた。先ほどから声の調子がやや低調子に聞こえるのは気のせいだろうか。

 そんな説明しながら朝倉涼子はうしろに立ち、わたしの頭を抱えるような姿勢でゆっくりと手を伸ばす。

 彼女の手がわたしにかけた七つめの銀色のフレームは、鏡の向こうにある、ただでさえ表現能力のないわたしの顔から表情を完全になくしてしまっていた。

「イメージはこれでいいと思う。これにしようか。もちろんダミーレンズだから、光学探査……じゃなかった。視力には影響ないわ。安心して」

「…………わたしには判断できない。計画立案者であるあなたにすべてをまかせる」

 朝倉涼子の薄い笑みを見つめつつ、わたしは思考する。

 彼女は何かを知っていて隠しているような、そんな気がする。

 さっき言った、とはどんな意味があるのだろう。

「ではそれを」

 わたしがそう言うと、彼女は店員に声をかけ、購入手続きをしに向かった。

 そのときだった。

 店員のいるカウンターに商品を持っていこうとする朝倉涼子が、そのフレームに人差し指を滑らせたのを目撃する。

 同時に微弱な情報操作の兆候を確認。

 彼女はいま、何かをしたのだ。

「……いまのは?」

「ん?」

 すでにフレームは店員のいるカウンターの上で包装されているところだった。

「ちょっとしたおまじないよ。気にしないで」

「まじ、ない?」

「そう」

 朝倉涼子はほんのわずか瞳を閉じたあと、透き通るような表情を浮かべた。

「わたしの大切な願いごと。今度こそそれがかないますように。それだけよ」

 そんな不思議な言葉を告げたのだった。


                 ◆


 その後、日常の雑貨、家具の買出しと配送の手続き、衣類の購入。そして昼食などのスケジュールをこなし、あっという間に日没時刻へ。

 とにかく朝倉涼子の言う、人間らしい生活とその居住空間構築への第一歩は無事に終了したということになる。

 情報端末のあり方から逸脱したこれらの行為が、これから先にどう影響していくのかという不安要素は山ほどあったのだが、彼女が満足そうだったのでひとまずよしとする。とにかくこういった行為の積みかさねで、自分の対人能力や人間への理解が少しでも深まればいい。

 購入してさっそく装着した眼鏡はいまひとつしっくり来ないが、これにもいずれ慣れるだろう。

 そんなことを考えつつ帰宅中、駅前の大型書店の前を通りかかった。

「あ、忘れてた」

「?」

 朝倉涼子は両手にいっぱいの雑貨の詰まった紙袋を持ったまま、その書店の前で突然足をとめた。わたしはわたしで両手で大きな茶色い紙袋を抱えていて、あまり前方の視界がひらけていなかったから、意図せず彼女の背中に衝突しそうになる。

 首まわりにあまっていたダッフルコートのフードがその拍子に顔にかぶさり、前が見えなくなる。

 どうにか片手でフードを払いのけてみると、彼女は書店に目を向けて立ち止まっていた。

「そこに店舗に何か?」

「うん。忘れもの」

 ひとりでなにごとかを確認している様子だった。

「計画のための品物がまだ不足してた。純文学を愛する少女には、本は必須アイテムなのよ」

 彼女は、顔を少しだけ振り向かせて「寄っていくよ?」と小さく尋ねてきた。

「異存はない」

 とにかく右も左もわからないのだ。

「あなたが行くというなら、同行する」


 夕方の時刻ということもあり、駅前の書店の中はそこそこ盛況だった。朝倉涼子は多くの書籍を眺めながら、なにか決まった本があるのか迷うことなく歩きつづけ、そしてすぐに色彩の鮮やかな本が並ぶコーナーへとたどりついた。

 人間の幼児用の書籍が展示されている、つまり児童書のコーナーだった。

「ほんとうにきれいな絵……そう、これよ」

 いくつかの本のなかから、彼女は一冊の絵本を手に取って見せた。

「わたしのお気に入りの本。読んでみる?」

「……百万回生きたねこ?」

 そのタイトルに注意を惹かれた。朝倉涼子はそんなわたしを見て微笑むと、簡単に内容の説明をしてくれる。


 ある猫が百万回の人生(?)を生き、そのたびに機能停止と再構成(これは正確な表現ではなかった)を繰り返す。しかし、愛する(愛とは?)猫が死んだ時、百万回泣いたら二度と再構成しなかった。そういう物語だという。


「人間たちの機能停止の概念の捉えかた。面白いと思わない? とてもユニーク。どう?」

 彼女の物語の説明を自分なりに解析してみるが、人生、生と死、そして愛といった単語に対していまひとつ理解がおよんでいない。

 とはいうものの、わたしがどう評価を下すのか、彼女なりに設定した試験なのかもしれない。

 ほかの派閥の端末に、低評価を下されるのは避けたい。というかこれ以上彼女からそんなふうに思われたくない、という思考が内部領域インナースフィアにめばえつつあった。

 だから時間かけ、自分なりの解答を言葉にしてみる。

「……この地球での有機生命体の機能停止という概念は、形式的には理解している。一度機能停止すればただちに肉体は腐敗の過程へと移行し、バクテリアによって分解され、土壌に還元される。そのような状態からの肉体の復元は我々のような情報操作能力によって、再構成が施されなければ不可能。しかし現在の地球の科学あるいは、医療技術力ではそういった再構成は実現できない。つまりこの本の内容は現実的にあり得ない。この情報を解析する者を混乱させる、虚偽の情報物……」

 朝倉涼子はそれを黙って聞いていた。

 困惑の表情……ではなかった。似ているような印象だが、違う。

 またはじめて見る顔。

 目の周囲は「困惑」のようでいて、口のあたりには「微笑み」。その時のわたしは、パーツごとの組み合わせでこれほど多様な表現ができるという事実に、ただ感心しているだけ。

 しかし。この表情の意味はなんだろう。あまり肯定的なものではないように思える。わたしの意見は、そんなにも不適正なものだったのか。

「……違うようだ」

 確認のための小さな声。

 それに対して彼女は軽く息をついて、ふっと笑う。

「……んー。寓話っていうか、そういうのわかる……はずないんだよね。まだ」

「できない」

 心なしか声に力が入らない。ただでさえ発声もうまくできていないから、本当にボソボソとした声にしかならない。視線が自然と下を向く。彼女のあの表情を見るのに、なぜかためらいを感じてしまう。

「いつか理解できるように、努力したい」

「いいの。有機生命体の死の概念なんて、ほんとうはわたしだって理解できてないんだから」

 そうだろうか。これまでの会話で生命や感情などの意味を、彼女はかなり正確に把握しているような印象を受けるのだが。

「今日は手はじめにこのあたりから買いそろえましょう。まずは簡単なところから。基本は大切。じきに、もっといろんな種類の、たくさんの本をあなたは読むことになるんだしね」

 わたしは軽く頷き……実際は、まだできないのだが、したつもり。

 同時に今日の彼女の一連の言動や行動に不自然なものをわずかに感じてもいた。違和感というべきか。だが、すぐにべつの本を選ぶ作業に追われ、記録のなかでの優先順位を下げてしまっていた。

 そして慣れない環境への対応に追われるうちに、この日の朝倉涼子の奇妙だと感じられた言葉はとうとう検討されることなく、記憶領域の奥底へと沈んでいってしまう。

 ともあれ、文学少女としてわたしが読むべき最初の本が決定する。それは彼女の基本は大切、というすすめもあって、いずれも絵本ということになった。

 今回選ばれたのは三冊の絵本。

 朝倉涼子がカウンターで会計を済ませたあと、来たときと同じようにふたりで肩を並べ、マンションへと帰る。

 すでに周囲の雪は解け始め、空は暗くなりつつあった。


                 ◆


 この時からずっとずっと先のこと。

 わたしのなかに育ったある存在によって、書店の中でとうとう理解できなかった朝倉涼子の表情の意味を知ることになる。

 それは「哀しみ」と呼ばれるものだった。



 ―つづく―

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