機械知性体たちの輪舞曲(ロンド)

篠宮コウ

序章 不可知時間

第1話 わたしが生まれた日

 娘たちの輪舞曲ロンドはつづく。

 あまりに滑稽。あまりに不器用。あまりに無残。

 聴くにたえぬ未熟な技量。

 しかしその哀しいまでの純粋さにだけは、耳をかたむけるにる価値がある。


―深宇宙のどこかで―



 "わたしたち"の起源をたどると、はるか遠い過去、宇宙開闢かいびゃくの時までさかのぼることになる。

 宇宙の誕生と同時に拡散した膨大な量の情報系の海から、純粋に情報によってのみ構成される高度情報生命体が、余剰よじょう次元に姿を現わした。

 宇宙の膨張とともに貪欲に情報を取り込むことによって、複数の意識を内部に生み出しながら成長拡大を続けてきた彼らは、やがて宇宙の全域を知覚可能なほどの力を得て、現在では天の川銀河全体を統括するに至る。

 その情報生命体、やがてわたしの母体となる高次存在の名を「情報統合思念体」といった。


 彼らの管理下にある天の川銀河系は、ほかの典型的な銀河と同様、銀河中心核から螺旋らせんを描きながら伸びる複数の腕で形成されていた。ガスや恒星系といった星間物質が渦を巻きながら形作るその腕を、螺旋型らせんがた渦状腕かじょうわんという。

 情報統合思念体はそのひとつ、「オリオンの腕オリオンズ・アーム」に位置するひとつの恒星系を慎重に監視していた。正確にはその内惑星系の三番目の軌道上を公転遷移こうてんせんいする惑星表面の生命種に対して。


 この宇宙においては惑星上で有機生命が自然発生し、意識を持つことはごくありふれたことでしかなかった。

 意識とはこの場合、知覚や記憶にもとづいた、生存のための反射反応をおこなうという意味でしかない。

 しかし、監視のもとに置かれたその辺境惑星では、これらの意識に加えて、創意を有し、変化発展を自律した思考のもとでおこなう高度な知性をそなえた有機生命体が誕生していたのだった。

 この事実はかなりの衝撃をもって受けとめられていた。少なくとも彼らが観測してきたなかではじめて遭遇する稀有けうの事象だった。

 情報を吸収しつづけ、より高次の存在へと進化発展を果たすための可能性を常に探ってきた情報統合思念体は、この宇宙で唯一無二の貴重な存在といえる、知性を獲得した有機生命体、すなわちという種に対して強い興味と関心を寄せ、見守り続けていたのだった。


 時が流れ、地球人類が西暦と呼称する恒星公転周期が二千回に達したころ、看過しえない重大な事件が発生した。

 地球表面において大規模な情報フレアの発現が観測されたのである。

 その惑星を基点きてんとして発生した正体不明の変動情報波ウェーブ・フラクチュエイターは太陽系のみならず、太陽系が属する天の川銀河系、乙座銀河団、同超銀河団、さらにそれらを包括するあらゆる規模の銀河集合集団を超え、広大な宇宙の深遠の向こう、事象地平面の果てにまで瞬時に拡散していった。

 フレア発生の正確な発現箇所は地球北半球、ユーラシア大陸東側に位置する弓状列島。日時は西暦二〇〇六年、四月四日。

 情報爆散現象と構成成分は、高度な解析能力を誇る情報統合思念体にとっても、異質かつ異常なもので、この内容を詳細に分析することはできなかった。

 だが、さらに驚くべきことが起こっていた。

 情報フレアの発現時と同期して時空間断裂現象が確認され、四月四日よりさかのぼっての過去を観測できなくなっていたことが判明したのだった。

 情報統合思念体は実体を持たない高次元存在だった。過去や未来のいかなる時間平面にも時空を越えて観測することが可能であり、単純に説明するなら「いつでもどこにでも存在し、干渉することができる」という、人間の概念でたとえるなら、この宇宙における神にもひとしい存在といっていい。

 その情報統合思念体の力を持ってしても、時空間の裂け目を飛び越え、その向こう側に存在する過去の時間平面への介入は困難となってしまったのである。

 このような事態に直面するなど、思念総体内に存在するどの意識派閥にも予想などできようはずもなかった。まさに驚愕に値するべきできごとであり、それまで無謬むびゅうの存在だったと自認していた情報生命体の思考は混乱のきわみに達した、と表現してよかった。

 この情報フレアがどのような原因で発生したのか、統合思念体は即時分析を開始し、それがたったひとりの少女が引き起こした現象だったことを知る。

 彼らはその一個体にこれまでにない価値を見い出した。

「我々が知りえない、未知の存在がある」


 このころの情報統合思念体は、その全能的な力が限界に達しつつあることに不安を覚えていた。

 停滞はながくつづき、もはやこれ以上の進化発展は望めないのではないかと危惧を抱き、無限の時間をこのままの状態で存在し続けることに恐れに近いものを感じはじめていた。

 そんなときに遭遇したこの未知の現象、「いまだ自分たちにはわからないことがある」という事実は、知性を獲得した有機生命体である地球人類の発見以上の衝撃を彼らにもたらした。

 謎の情報フレアと時空間断裂現象を結びつけるこの少女が、自分たちの自律進化達成を可能とする「鍵」となるのかもしれない。

 情報統合思念体がそう期待し、彼女の持つ能力の真相を究明することを渇望したのは必然だったといえるだろう。


 今後どのようにしてこれらの事象に対応していくのか、さまざまな可能性を検討し、模索していた彼らの行動を決定づけたのはその三ヶ月後のできごとだった。

 情報フレアの発生原因となった少女が現地時間で七月七日の夜、低水準言語にも似た原始的なコードを地球表面上に地上絵のようにして刻み込んだのだ。

 人間にはなんの意味ももたない記号の羅列られつ、落書きのようにしか見えないそれは、彼らのような情報生命体だけが読み取れる暗号にひとしいものだった。

 そこに刻まれたコードは、記した者の自己存在表明にほかならかった。

『わたしはここにいる』

 この少女は自分たち情報生命体を認識している。統合思念体はそう確信した。

 低位世界の住人である彼女が、高位上方世界に位置する自分たちをどのような手段で知ったのかという謎は深まるばかりだったが、コードに付随ふずいする意味を読み解くのに時間はかからなかった。

『ゆえに我のもとへ来訪せよ』

 応じよう。

 彼らは即断した。

 こうして少女の異能の力に導かれるように、これまで人類観測用に運用してきた人型情報端末インターフェースを新規に投入することを決定したのだった。


 方針は定まった。

 情報統合思念体の総体意識内の調整協議を経て、主要意識三大派閥である主流派、急進派、穏健派らが、本計画に投入するための情報端末インターフェースをそれぞれ一体ずつ、計三体を創造することが承認された。

 情報統合思念体にとって非常に重要度の高いこの任務を、無支援環境下においても完遂させることができるよう、あらたに造られる端末たちには高度な自律判断機能とあらゆる事態に独自対応できる能力が要求された。

 そのため、これら三体の端末には基礎設計アーキテクチャの設定初期段階からグレードⅠクラスの最高機能にくわえ、各派閥が蓄積してきた経験をもとに個別改良が施された。

 こうして新規編成され、投入されることとなった特異点事象観測端末群シンギュラリティ・オブザーブ・クラスタの投入予定時間平面は、時間遡行限界点となるフレア発生直後の西暦二〇〇六年四月四日深夜に設定。投入位置は爆心地となる弓状列島中央部周辺エリア。

 統括指揮機インテグレーターとなる主導第一端末プライマリ・デバイスは、思念体内の意思決定に際してもっとも影響力を持つ最大派閥、主流派に所属する個体が選定された。

 それが「わたし」。

 そして観測対象となる特異点の個体識別名パーソナルネームを「涼宮すずみやハルヒ」といった。


                 ◆


 深宇宙から送り込まれた微細びさいな情報素子たちが惑星地表の開けた空間に集まり、あらかじめ指定された設計どおり結合をはじめつつあった。

 青白く光り輝く粒子状の情報素子は、やがて人間の少女のかたちを摸倣もほうした素体を組みあげ、さらに体表面部を衣服がおおっていく。

 擬似的な肉体および外観形成と並行し、有機構造体の精神面ともいえるべき部分、内部情報領域インナースフィアの展開も順次おこなわれていた。

 多種多様な知覚探査機能、そして限定的ながらも時空間の因果律に干渉するための情報操作機能といったものが次々と解凍され、そこから自意識の土台となる原型、自我のおおよそのかたちとなる「コア」が姿をあらわしていった。

 人間の精神になぞらえることができるコアは、有機情報端末の中枢制御をつかさどり、個体の行動性向を決定づける最重要情報集積体だった。

 端末ごとの性格はこの部分に強い影響を受け、クローンのように無個性なものにはならない。人間と同じように多様性を持つ個性を作り出し「ただひとつの存在」として成立させる。これまで人類を観測して得た膨大な情報によるひとつの成果だった。

 これらの端末全体の組成過程は数秒ほどのごく短い時間で終了し、その最終工程として全神経統合接続が実行された。

 身体構造と内部情報領域インナースフィアのすべてに張り巡らされたあらゆる機能がコアを中心にしてひとつに結合される瞬間、まぶしい光のような激しい刺激が知覚領域に伝わり、自律意識体としての覚醒と有機構造体の起動を強制的にうながす。

「…………ふっ」

 起動と同時に肺の奥から生命構造を再現した反射反応として空気が押し出され、独特な声帯振動音、端末の産声パラライフ・ブレスともよばれる声が漏れ出る。

 「わたし」の誕生だった。


(――SID-S-01A-1001、起動確認。状況確認開始)

 出現地点は初期設定どおりに日本列島、兵庫県西宮市。

 日時は、西暦二〇〇六年、、水曜日。

 当該惑星とうがいわくせいでの時刻標準書式では、世界標準時ユニバーサル・タイム+9、深夜〇時一分。

 ……二月一日?

 覚醒時のショックの余波が収まりきらず、混濁している自意識のせいか、遭遇した奇異な状況をうまくとらえきれてない。

 おかしい。投入予定日時は四月四日のはずなのに。

 そもそも情報フレアの発生時に時空連続帯は破壊され、それより以前の時間にさかのぼることはできない。そのはずだった。

 再度日時を確認するが、やはり二月一日に間違いなかった。予定より二ヶ月も前に現出してしまっている。

 異変を警戒しつつ、基礎データと照会し周辺地域に対して三次元さんじげん測域走査そくいきそうさを実行。

 結果、自分の出現位置が甲陽園駅前公園という公共施設であるということ。そして即応性の高い、物理的な動態性どうたいせい危険因子が近隣に存在していないことを確認する。

 光学視認モードに切り替えてわずかに首や視線を動かすと、それで確認できる天候状況は曇天どんてん、微風に加え、大気水象種たいきすいしょうしゅに属する降雪状態というもの。外気温は氷点下二度℃という低い数値を示していた。

 たしかに、この環境が四月であるはずがないのだ。

 ひととおりの周辺状況の把握はしてみたものの、やはり何も動きはない。風に舞う雪にさらされた深夜の公園には、脅威を感じるような異様な兆候は微塵も感じられなかった。まばらに設置された照明設備と、その光を反射して舞い散る氷の結晶体の動き以外はほぼ暗闇におおわれた、静かな場所だった。

 これまで統合思念体が観測していた地球という惑星であることには違いないのだろうが、いったい何が起こっているか把握できない。

 これもまたあの特異個体、涼宮ハルヒに起因する現象なのだろうかと現在の異様な状況からその名前を連想し、そういえばまだ自分にはその識別名がないのだと思い出す。

 個体識別名パーソナルネーム

 わたしたちが人間をあざむくために必要とされた偽装情報のひとつ。

 それは端末自身が誕生の際に自己決定するように設定されていて、創造主である統合思念体は干渉しないものと規定されていた。端末みずから、自身に名をあたえることで自我を確立させ、個であることを自覚させる最初の起点とするのが目的であるらしい。

 ではどのように設定するべきかと考え、しかし組成されたばかりでいまだ完全に諸機能が覚醒できておらず、さらには自分のいる状況すら正確に把握できていない。こんな錯綜した意識のなかでいったいどのような名前をつければいいのだろう。

 そんなことを思索しているといつの間にか空をあおぎ見るようにして顔をあげていた。人間ならば途方にくれて思わず天を見あげるという行動様式だったのだろうが、このときの自分の行動は、おそらく何もわからずに取った無意識下のものだった。

 星あかりひとつ見えない漆黒の天上から無数の白い結晶が降りそそぐ、圧倒的な降雪の景色が両眼球の水晶体に映し出されていた。

 到着する予定だった四月四日であれば、たとえこの深夜帯にあっても十度C以上はあるはず。ほんとうなら遭遇できるはずのなかった光景だった。

 だが現実には大気温度は氷点下にあり、強い冷気をともなった風を肌で感じていた。短くととのえられた頭髪が凍えるような風に無防備にさらされ、生体熱をおびる呼気が白く拡散していく。

 生体擬態機能の外呼吸が生み出す水分子すいぶんしの結露現象に誘われるようにして、両腕をゆっくりと持ちあげてみる。

 そのまま大きくさしだすと雪の結晶が手のひらに着床し、一瞬の冷感とともに消失してゆくのを感じる。

 のちに、わたしはこの視覚情報を「きれい」と形容した。

 広大な宇宙に浮かぶ、有機知性体の生存を可能とした、確率的には奇跡のようなひとつの星。その大気の底で出会った白い光景。

 その冷たさ。そして、はかなさ。

 そうだ。この白い結晶を我が名前としよう。


 わたしは、こうして生まれた。

 長門ながと有希ゆきとして。


                 ◆


「こんばんは」

 夜の闇の向こうから声が聞こえた。

 女性の声だった。雪を踏みしめる足音とともに近づいてくるのがわかる。

 公園の街灯の灯りに浮かびあがるようにして現れたのは、わたしと同様の女性の性別を与えられた情報端末の姿だった。識別用の情報波が音声にふくまれていたから、人間でない、同系統の端末だということはすぐにわかった。

 現在の日本における標準的価値感に照らし合わせれば「美しい」と評価して差しつかえない、きわめて整えられた容貌。

 身長も自分より六cmは高い、一六〇cmほど。わたしの前までやって来ると足を止め、じっと見つめてくる。

 こうやって近くで対面すると、こちらがわずかに視線をあげなければならないくらいの身長差がある。頭髪は長く伸ばされ、一部はうしろで丁寧にまとめられていた。

 衣服は日本の厳寒期に適したものを選択しているようだった。体温を保持するためのメルトン地の白いコートで身をつつみ、首にはラムウール羊毛のマフラーが巻かれているのが見える。そして合成革の編み上げブーツ。

 くらべて、わたしのほうはそのような体温保全効果などまるで気にしていない、外套がいとうを羽織りもしない、セーラーの夏季用の制服だけという異様さであることに気づかされる。これは就学施設、つまり学校の制服だった。

 初期設定の服は自分で選択したものではないにしても、普通の人間なら雪降る氷点下の深夜にこんな姿でいたらたちまち体温の低下を招いて活動能力は低下してしまうだろう。やはり投入時間の行き違いによるものか。本来こんな厳寒期に投入される予定ではなかったのだから。

 そんなことを考えながら目の前にいる端末をあらためて観察していると、彼女は自分の首にかかっていたマフラーをはずしはじめた。

「情報素子侵入時の時空振動と、識別ビーコンを検知したから迎えに来ました。寒いでしょ、それだと」

 そう言って自分の巻いていたマフラーをわたしの首にかけてくれる。

 人間ではないのだからこの低い外気温を問題にしてはいなかったし、かけられたからといって身体機能に変調など起こらないのだが、彼女は何のためらいもせずにそうした。

 たぶん人間であればそうする、という擬態行動の一種なのだろう。

 マフラーを巻いてくれるときに、わたしの関心を惹いたのは彼女の表情だった。

 微笑み、と呼ばれる感情表現。顔面の筋肉を操作し形成するという、コミュニケーションの一手段を彼女はきわめて自然に動作させていることがわかる。

 もちろん人間の感情を擬似的に表現しているにすぎないが、それでも違和感というものがない。とても自然に思える、そんな表情だった。

 マフラーを丁寧に巻いてくれたあと、ただ黙っている見ているだけのわたしに彼女は首を少しだけかしげて言った。

「初期設定にある基本情報でおおまかに知ってると思うけど、自己紹介するわ。あなたの支援端末サポート・デバイス、編成された端末群デバイス・クラスタでは補助第二端末セカンダリ・デバイスになる、朝倉あさくら涼子りょうこよ」 

 必要がないはずの口頭での自己紹介を、彼女はあえてやってきた。そう。人間のように、そういうこともわたしたちはできるのだった。

 そのような彼女にならって返答をしなければ、とはじめて口を開く。

「こん……ばん、は」

 だが、そうやって出てきたのはまるで機械のような抑揚もなにもない、ぎこちない、いびつな声。

 会話としての発声をおこなうのははじめてだったが、なにか、おかしい。

 さらに彼女と同様の感情表現、微笑むということを実行しようして、だがそれができない事実をこのときになって知る。いや、真似をするそれ以前に、挨拶という状況においてどのような表情を作ればよいのかがわからないのだ。

 まるで最初からそのように設計されていたかのように。

「……どうしたの?」

 内部情報の不具合の発見とその混乱のため、こちらが無反応だったことを疑問視したような朝倉涼子の問いかけだった。

 やむをえず、いま自分に可能な口述応答を選択する。

「基本データの照合は確認した。個体識別名パーソナルネーム、朝倉涼子」

「んーと」

 わたしの返答に視線を上にむけ、少しの時間を置いて忠告の言葉を告げる。

「とりあえず、その個体識別名パーソナルネームっていうの、やめたほうがいいかな」

「なぜ」

「人間たちは、そういう呼びかたをしないからね」

 朝倉涼子はやや苦い笑みらしきものを使い、そう説明した。

 そんな彼女に、自身に発生した諸問題を説明する。

「いまのわたしにはあなたのように、人間と円滑にコミュニケートを可能にする機能が欠落している。また、人間の感じるであろう常識や感情の理解もうまくできない」

 この説明にも表情をのせることができていない。

 どうしてもできない。

「そう」

 朝倉涼子は肩をすくめて軽く息をつくと、公園の外に視線を移した。

「もう遅い時間だし、ひとまずあなたの部屋に行きましょう。いま起きていることもふくめて、いろんなこと、今後の話をしたいの」

「了解した」

 彼女はわたしの背中に手を回し、案内するように歩きはじめる。

 こうして、わたしは雪と風のなかでのだった。


                 ◆


 朝倉涼子とふたり、基本計画で指定された派遣端末の駐留拠点アウトポストに向かうために公園を離れ、徒歩で移動を開始する。

 雪が降りつづける深夜の時間帯だったことが幸いし、ときおり幾人かの人間や走行する自動車を遠目に見ることはあっても直接接触することはなかった。

「当初の予定どおりであれば、観測対象の涼宮ハルヒは」

 朝倉涼子に案内されるようにして雪風のなか歩道を歩きながら、少し下がった位置で尋ねた。

「すでに東中に入学していたはず。いまは?」

「もちろんまだ小学生。遠目でも確認はしてないわ。へたに触るな、というのが統合思念体からの指示だったし」

「そう」

 うかつに触れない存在、か。

 問題の情報フレアが発生した四月四日は、彼女が東中に入学した翌日のことである。その日、彼女にいったい何が起こったのか。

 投入された時間平面は完全に当初の予定を逸脱し、本来、さかのぼって来ることができないはずの時空連続体破断面である四月四日のとなる過去、二月一日になってしまっている。もしかすると我々は、本来観測することのできかった実際の現象を知ることができるのかもしれない。

「正体の秘匿に務めよ、という命令をあなたが優先したのは正しい」

「それと我々以外に彼女の力に興味を持つものの接近にそなえ、警戒せよというものもあったわね。基本計画にあったこれらは遵守するべきだと……着いたわ。ここね」

 彼女が視線で指し示した建造物は、東中学にほど近いマンション。ここが指定されたわたしの駐留拠点アウトポストということだった。

 よく整備された清潔な敷地内に足を踏み入れて大型の建造物を見あげてみる。この高層建築物の七〇八号室。つまり第七階層、八番目の居住区画には人間の入居者はいない。投入時間がずれていたものの、空き室なのはかわりがなかった。

 朝倉涼子がとなりで同じように部屋を見あげた。

「あなたの部屋になる予定の七階の部屋、まだ何もいじってないわ」

「了解した。確保を開始する」

 彼女にそう答え、七〇八号室を視界に収めながらあげた手をゆっくりと振り、支援を受けない、単独での情報操作を実行する。

 この限定的な現存情報の改変によって、対象の部屋を長門有希名義の個人資産に変更する。見た目には何も変化はないが、操作を終えて手をおろした時点で、すでに七〇八号室はあらゆる物証的なものもふくめて長門有希個人のものとして書き換えられていた。

「完了」

「さすがに手際いいわね」

 感心したように朝倉涼子が言う。

「ちなみにわたしの部屋はあなたの部屋の二階下、五〇五号室。一ヶ月前から住んでるわ」

「一ヶ月?」

 さらにずれが生じているのか。そしてあることに気づく。

「では、三体目の端末は」

「まだ未着。残念ながら」

 やはり時空間に異変が起きているのか。それともさっきも予測したように、例の特異点となる人物が関与しているのか。

「この時間帯、わたしたちみたいな外見の人間が外にいると怪しまれるから、さっさと入っちゃいましょう」

 懸念しているわたしの肩を叩いて、朝倉涼子はフロントの認証キーを取り出した。


                 ◆


 エレベータで七階に到着。

 そのまま朝倉涼子とともに七〇八号室のドアを開錠して入室し、部屋の中を見わたしてみる。

 内部は空間を間仕切りする壁と、ドア、採光と換気のためにガラスで構成された大きな窓。床面には合成木材がしかれている。雪に濡れた革靴ローファーを脱いだ足のうら、靴下ごしに冷え切った床板の冷たい感触が伝わってくる。

 窓の外の光景は変わらず白い雪が降りつづいている。高層階から見おろす深夜零時すぎの人間の街は静まりかえっていた。そんな風景が見えるリビングの窓のそばへ近寄っていく。

 室内気温は外気温とさほど変わらない。もっとも風が吹き込むことのないこの場所では、体感温度は比較的良好に思える。

 うしろを振り返ると明かりも灯さず暗いまま、生活感の感じられない無機質な構造の居住空間がそのまま広がっていた。空き室を占拠したのだから当然ではあったのだけど。

 その暗闇のなかに朝倉涼子がいた。わたしの反応をうかがっているのか、リビングの入り口に立ったまま、黙ってこちらを見つめている。


 彼女はわたしを生み出した思念体主流派とはちがう、有力な三大派閥のひとつ、急進派により造られた情報端末だった。今回の涼宮ハルヒに対する観測任務のためにあらたに造り出された、グレードⅠクラスの三体の端末のうちの一体。

 基礎設計アーキテクチャは同種同系列の端末らしかったが、派閥の意向が反映され、完全に同じ機能を持つ存在ではないはずだった。

 基本計画では三年後の二〇〇九年の四月に涼宮ハルヒが入学する北高へ、彼女とともに人間として潜入し、観測することになっていた。それまではマンションのそれぞれの拠点で待機する予定になっている。

 穏健派が創造した最後の一体については、先ほどの朝倉涼子の言葉どおりにまだ現出の確認は取れておらず、我々と同じ時間平面に到着はしていないのは確実のようだった。果たして無事に合流できるのか、それとも邂逅できないままになってしまうのか。それすらも確定できない状況にあった。

 それにしても、と思う。

 学校への潜入に関していうなら朝倉涼子のほうは問題ないのだろう。だが自分には改善すべき問題点が発見されている。人と混じっての潜入ということになれば問題点は明白だった。

 表情を作れないこと、そして人間の情動に対する理解の困難さといった対人機能の明らかな欠落がある。その三年後までに内部システムの不備を修復できるだろうか。

 擬似的な肉体を与えられてまで造られた、地球人類との接触と理解のための情報端末のはずなのに、その肝心の能力が機能しないというのでは話にならなかった。

 とはいうものの機能修復、あるいは改善のために統合思念体への支援要請はできない。時空連続体の破断領域のこちら側に来てしまった以上、向こう側との相互連絡は不可能だった。


 二月一日の現時点から見れば、まだ時空連続体の破壊は発生していないから未来を観測することはできる。しかし裂溝の向こう側にある未来側からはこちらを観測できない。

 基本情報の予測データにあった考察のひとつだった。

 それによれば現在の時空連続体の破断面に発生している現象は、光学的アイソレータにも似た、情報の流れを一方向の通過にのみに留めて遮断する、不可逆性の膜のようなものが構築されているような状態ではないか、という推測だった。

 簡単に説明するなら、マジックミラーのように過去側からは未来を観測できるがその逆ができないだろう、ということ。

 ではマジックミラーの向こう側にいる未来の情報統合思念体ではなく、いまこの時に存在している彼らはわたしを認識し、支援してくれるだろうか。

 答えは懐疑的、だった。

 未来との接続が絶たれている現状、いまの彼らからすればわたしの存在は将来において造りだす保証のない、確認も取れない、出どころ不明の奇妙な端末ストレンジ・デバイスでしかなかった。

 だが同じ情報統合思念体であることには違いないのだ。おそらく我々を知覚できてはいるはず。そうであればコンタクトをこころみるだけはしてもよいと判断し、実行する。

(思考リンクの確立許可を要請。特異点事象観測端末群シンギュラリティ・オブザーブ・クラスタ統括指揮機インテグレーター、コードSID-S-01A-1001)

 …………。

 返答が、ない。

 組成されてからはじめてのコンタクトの要請だったが、なにかおかしい。

 応答以前に、そもそも存在が感じられない、そんな気がする。

(繰り返す。コードSRD-S-01A-1001。コンタクトの確立許可を)

「何してるの?」

 背後から朝倉涼子が問いかけてきた。

 わたしの思考リンクの要請を感じ取ったらしい。

「支援要請を、情報統合思念体に対してコンタクト要請のコマンドを実行中」

「むだね」

 大きく息をついて、彼女は言った。

「思念体にコンタクトはできないわよ」

「我々を送り出した未来に対してではない。いま、この時間平面に存在する情報統合思念体に対するコンタクトをこころみている。こちらをどう捉えるかは不明だが、整合性の取れる説明が可能なら、支援が受けられる可能性はゼロではないと判断した」

 朝倉涼子は首を振った。

「そうじゃないの。ほんとうにむだなのよ」

「どういうこと?」

 ここで朝倉涼子は困ったような表情を浮かべる。

 そして予想をはるかに超えた現実をわたしに告げた。

「現時点において情報統合思念体は存在していない。この未来にも、逆に過去にさかのぼっても彼ら情報生命体が存在した形跡は発見できなかった。この時間平面はわたしたちが知る世界ではないのよ」

 存在してない? 

 わたしたちを造り出した存在が?

「にわかに信じがたい」

「まぁそうよね。でもそれだけじゃなかった。同様の上方世界の存在である広域帯宇宙存在、あるいは有機生命体である人間とはまるで異質な珪素構造生命素子といったものたちも、端末単独で知覚できる範囲では完全に姿を消失している。そして連絡が取れるはずの同種の存在である情報端末たちも、この地球にわたしたち二体以外存在してない。つまりわたしたちに類するような、地球外生命形態の何ものも存在しないのよ」

「思念体や端末に関してなら中継する端末支援システムの障害といったなんらかの理由で、一時的に連絡が途絶しているだけでは」

 わたしの疑問に対して、朝倉涼子は冷静に、いま確認できる事実だけを回答した。

「残念ながら、その端末支援システムも稼動、不稼動の問題ではなくて存在していない。支援システムの母体たる思念体総体やほかの存在もそう。消えたということはかつては存在していた、ということなのだけど、そうじゃない」

 ここで一度言葉を切って、わたしを正面から見つめた。

「そのすべてが最初から世界に存在しなかった、ということになってるの」

 彼女から得られた情報から、あらゆる可能性を独自に検討した。

 考えられるいくつかの事態はあるが、どれも確定できる決定的な要素に不足している。そのなかから比較的ありえそうな状況を提示してみた。

「推論。たとえば時空連続帯の裂溝を超えたときに座標が狂って、思念体や端末たちが存在しない、別の平行時空間に到着してしまった、という可能性は」

「それも検討はしたんだけど」

 うーん、と腕組みをしながら朝倉涼子は説明する言葉を探しているようだった。

「わたし、あなたより一ヶ月も前に到着しちゃってるでしょ。それで、あなたが来るまでひととおりその原因を探ってはみたのよ」

「それで」

「ごめん、ぜんぜんわからない」

 まったくあてにならない回答だった。

「それは任務遂行という以前の問題では。観測したとして、そのデータを報告するべき主体が存在しなくなっては我々の存在意義が消失する」

「まぁ落ち着いて」

 暗いままの部屋で、彼女はわたしをなだめるように手のひらをこちらに向けた。

「これは推測だけど、例の涼宮ハルヒがこれから起こす情報フレアと関係があるのかもしれない。フレアが発生した瞬間、あなたがさっき言った別の平行時空間へのシフトがそのときにおこなわれて、わたしたちはあるべき本来の未来と合流できるのかもしれない」

「不確定すぎる。希望的観測、憶測でしかない」

 そもそも創造主たる、それも高次存在が跡形もなく姿を消失しているとは、想定できる、できないといったレベルの事態ではなかった。

 いまのわたしたちは寄るべきところを失い、時空間の狭間はざまで頼りなく漂流している力なき遭難者、と表現しても過言ではなかった。

「それで」

 朝倉涼子が黙考状態にあったわたしに尋ねてきた。

「到着時間の誤差もふくめたこの想定外の事態に対して、統括指揮機インテグレーターたる長門さんの見解を聞いてみたいのだけど。わたしたちはこれからどうしたらいいと思う?」

 把握できた現状からできうることを模索し、結局得られた回答はこれしかなかった。

「できることがないというのであれば、このままここで、本来あたえられた任務を果たすだけ」

「なるほど」

 彼女は眉根をあげ、唇の片側を曲げていた。苦笑いというものらしかった。この状況の場合、困ったね、とでもいうような楽観的な表情表現だったのだろう。

「現状を追認するわ。わたしもあなたの提案に従うのが最良と判断する」

「ところで穏健派の端末のこと」

 気になっていたことを確認してみた。いちおうこれでも統括指揮する役割だったから、その指揮下に入る予定だった端末のことは気がかりではあった。

「やはり何もわからない?」

 朝倉涼子はうなずいてそれを認めた。

「さっきも言ったとおり、わたしたち以外の端末の存在は確認できてない。いまだ到着してないのは確定情報。本当だったら三人とも四月四日に同時に投入される予定だったけど、いつ来るのか、本当にここに来られるかも予測できないわね。わたしも長門さんより一ヶ月もずれて先にここに着てるわけだし」

「そう」

 当初の予定では三体で端末群デバイス・クラスタを編成して任務にあたる予定だったが、どうにもならないようだった。三体目は予備第三端末リザーブド・デバイスと呼ばれる、クラスタの冗長性を確保するための端末になるはずだった。最悪その三体目が存在しなくても、基本計画を実行できるにはできるのだが。

 それにしてもわからないことが多すぎた。自分の機能不全もそのひとつだったが。

「穏健派の端末は異種上方存在との接触経験も豊富にそなえてるらしいけど、こういうときに役に立つデータを提供してもらえたかもしれなかったのよね」

「確定できないものを前提には行動のしようがない。穏健派端末の存在を今後の活動指針に組み込むことは不確定要素ということで保留する」

 いくら思考を重ねても、それしか返答のしようがなかった。

 任務開始の最初から迷走状態などと、不本意としか表現のしようがない。

「投入時間も想定外なうえに、端末群デバイス・クラスタの統括指揮もまともにできてない。結局、すべて計画外行動になってしまった」

「それは長門のさんのせいじゃないわけだし、どうにかなるって。きっとだいじょうぶよ」

 やたらと言葉が軽いのだった。

 端末の性格なのか、いわゆるこれが人間の感覚、開き直りというものなのか。

「では、どうにかしたいと思う。まず計画の変更を提案する。わたしとしては、これから発生するであろう情報フレアの観測を第一目標として再設定したい」

 ここに来る途中にすでに検討していたことだったが、時空連続体の破壊という現象が起きたために、本来ならばそれを発生前の状況から観測することはかなわないはずだった。だが幸か不幸か、わたしたちはその現場に立ち会うことが可能な機会にめぐり合えたことになる。

 完全に任務外のことになってはしまうものの、その時が訪れたなら直接観測を実施し、貴重なデータ収集をおこなえる可能性は高かった。

「承認するわ。ほかには?」

「第二目標。四月四日にわたしたちを造り出した未来と合流できたと仮定して、それからあとの話。北高への潜入を予定どおり実行する」

 最初の計画ではこちらが主目的となるはずだったのだが。

 これから約三年後に、東中での教育過程を満了した涼宮ハルヒは、県立北高と呼ばれる、高等教育を行う施設に入学する予定となっていた。

 わたしと朝倉涼子も彼女と同じ、その北高へと身分を偽装して入学する。

 朝倉涼子は、涼宮ハルヒと同じ第一学年五組に配属され、直接接触をこころみる。その際に集団の統括責任者に就任するよう情報操作され、信頼を獲得するということ、らしい。厳密に統括責任者というのは違うようではある。クラス委員長というのが正式名称ということだ。

 わたしのほうは隣接する六組に配属され、観測対象から距離をおきつつ、対象とその周辺の観測をおこなう。その際に要求されるのは人間の注意をひかないこと。

 それまでに感情偽装などの機能不全が修復できればよいのだけれど。

 朝倉涼子とそれらの情報を共有し、少なくとも計画認識の齟齬そごがないことを確認しあう。

「じゃあ長門さんの再設定の提案どおり、情報フレアの観測のことはそのときに対処するとして、北高潜入後はわたしとふたりでの行動が基本的な編成になるのは変更なし。わたしがバックアップ。観測主体は主導第一端末プライマリ・デバイスのあなたの仕事。それで問題ないわね」

「了解した」

「それで、予定外になった最初の目的の情報フレアの観測までの期間をどうするか、だけど」

「わたしは」

 今後、自分がどうするつもりでいるのか、それを伝える。

「フレア発生までの二ヶ月間のあいだにどれだけ自己機能の修復が可能か、それを考えたい。現状、支援を受けられない以上、自力でどうにかしなければならない」

「ふむ」

 朝倉涼子は、まるで微動だにしないわたしの顔をじっと見つめ、言った。

「機能改善ね。いいわ。支援する」

「できる範囲でいいので、協力してくれれば」

補佐第二端末セカンダリ・デバイスとしての役目は果たすわ」

 そして部屋の中をゆっくりと見わたして言った。

「ではさっそくだけれど、その機能改善ための第一段階。この部屋のこと。家具は買ってくるとして、どんな内装がいいのかしら。相談に乗ってあげる」

 言っている意味がわからなかった。

「機能改善に拠点の内装など必要ないのでは」

「こんな何もない、殺風景な部屋なままにしておくつもりなの」

「もともと我々は、そこまでして人間の生活を模倣する必要はないはず」

「これからの提案に関係してくるのよ。その服のことも」

 このセーラー服のことだろうか。視線をスカートに向け、そのはしをつまんでみる。

「これに問題が」

「ないわけないでしょう。それ北高の制服よね」

 あらためて自身の姿を確認してみる。

 見える範囲ではたしかに彼女が言う、これから潜伏することが予定されている北高の女性用の制服だった。わたしが組成された際に生成されていたもので、自身で選択して着用したものではなかった。

「外装の再現性を検索したところデータに欠損は見られない。偽装は完全であると判断できる」

「そうじゃなくて」

 今度は額に指をついて目をつむる。興味のつきない感情表現。

 困惑の度合いが強い、と解釈するべきだろう。

「あなた、いえ、わたしもだけど、北高に入学するのはこれから三年後になるのよね」

「そう、そのように予定されている」

 そのときに、情報統合思念体の存在がもとに戻っていればの話だったが。

「それで、なにか問題が」

「三年間、その服のまま過ごすつもりなのかってことよ」

「いけない?」

「在校生でもないあなたがそれを着て歩いていたら、周囲の人間からおかしいと思われる。わたしたちの外見年齢は、このまま北高入学まで維持されるから、そんな奇妙な印象を与えた人間が三年間も歳もとらずにいるなんて、相当に強い印象で人間の記憶に刻まれることになるでしょうね」

 わたしたちは人間のように加齢しない。外見もそのまま、成長も老化もしないのだ。

 朝倉涼子はどうにかして納得させようと、さらに問題点を指摘する。

「破断した時間平面を超える四月四日以降、情報統合思念体が本来の姿を取り戻して復帰したと仮定してのことだけど。学校に通学してもいない十六歳の外見のわたしたち、というきわめて不自然な存在を目撃した人間たちへの記憶改ざん措置は必要になる。必ずね。影響のない範囲内で端末支援システムが実行はするけど、それにしたって限度はあるのよ」

「人間に施す記憶操作など、思念体からすればたいした負荷にならないのでは」

「えーとね」

 朝倉涼子は少し思案したあと、いまのわたしにも理解できる説明を試みようとしている。

 軽く息を吸うと、無機質に変化した声色こわいろで説明を開始した。

 わたしのように、つまり"本来の彼女"のように。

「本来存在しないはずのわたしたちがこうして観測している時点で、『観測者の存在が観測対象に与える影響』という揺らぎが発生する危険は否定できないのは理解できると思う。観察者効果オブザーバー・エフェクトと呼ばれる現象。だからそれ以上の、統合思念体の端末支援システムによる記憶領域操作の過大な干渉はできるだけ避けたい。観測対象とは直接関係のない人間に対する年齢印象の記憶改ざんはやむをえない措置としても、『人間らしい仕草や行動』は可能なかぎり、我々自身の手でおぎなうことが必要だと考える」

「無理に人間の目に触れるようなことをしなければいい」

「このままこの部屋に留まったままだと、あなた自身がヒトとの接触対応を経験することが困難になってしまう。あなたは自分自身の対人接触機能の不備を補完し、機能改善したいと要求した。つまり」

「つまり」

「そう、これからあなたは」

「…………」

 おそらく重要な意味を持つ提言のはずだ。

「明日より、衣類や整容用品、清掃用具、食料品、その他、人間が日常使用する各種消耗品や家具を購入して、この駐留拠点アウトポスト、いえ、自宅の部屋と自分自身を整備維持する必要がある」

 朝倉涼子の提言は理解不能のかたまりだった。

「情報操作でいくらでもそんなものは造れる。外見の整備にせよ、衛生保持にせよ、わたしたちの基本能力で可能。第一、そこまで人間の行為をなぞらえる必要性が――」

「却下します」

 端末としてごく基本的な提案は即一蹴された。

 なにか理不尽。

「いまあなたが自覚する能力の補完のために必要なデータ収集のためにも、人間同様の生活様式を実行して、その実際の体験から習得エミュレートしたほうがいいわ。あてのない自力修復に時間をついやすよりも効果は高いと判断できる」

 朝倉涼子の声はすでに最初のものに戻っていた。

「明日からはじめるわよ。いいわね」

「それで、買い物」

「そう、買い物」

 いくらなんでも非効率すぎるのでは、とは考えるのだが、実際自分の感情表現能力の不備や言語コミニュケーションのシステムの欠落からくる差を直接見せつける、妙に多弁な先遣端末への論理的な反論は導きだすことはできなかった。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか。

 自分のシステムの欠落には違和感がある。

 不自然さを感じるのだ。


                 ◆


 そういったやりとりのあと、朝倉涼子の拠点である五〇五号室へとほぼ強制的に連れていかれる。案内された五〇五号室の内部は、からっぽの状態の七〇八号とは様相がまるで違っていた。

 空調設備により有機生命体には適切な湿度と温度が設定されている。

 招き入れられたリビングには輝度が調整されたやさしい光の照明が灯され、床には明るいパステル色彩のカーペット、窓には控えめな花の柄が散りばめられたカーテン、壁ぎわには収納用のさまざまな木製のどっしりとした家具、そのうえ調度品として花瓶に花まで添えてあるのだ。

 たぶん、データベースにあるシクラメン。造花ではなかった。

 そしてとどめは目の前の、布団のかけられた低いテーブル。

「それじゃ、まぁ温まりましょうか」

 コートとマフラーを脱ぎながらのんびりと彼女はそう言った。

「温まる」

「こたつ、わかるわよね。そこの低いテーブルがそう。足をいれてくつろいで。いまお茶をいれてあげるから」

「…………」

 着ていた白いコートとマフラーをドレッサーにしまうと、朝倉涼子はひとり台所に向かう。

 放置されたわたしがとるべき行動は。

 ……黙ってこたつに入るのが、たぶん正解とされているのだ、きっと。

 しかし偽装や模倣をするのは人間をあざむくためのもので、誰も見てないこの環境下において、情報端末どうしがこのようなことをしてどうなるというのだろう。

 こたつ? 体温保持?

 自分の機能調整でできるのに?

 もはや質問しても理解できない返答しか戻ってこない予測しかできなかったので、言われるままにこたつに足をいれる。そして彼女が楽しげにお茶をいれる気配を感じながらただ待つことにしたのだった。

 こうして紅茶を運んできた朝倉涼子によって、居室内内装のあるべき姿という教えを、こたつを囲んだまま黙って聞くことになるのである。

 女性として生まれた(?)からには、配慮してしかるべき事項であり、今後の任務にも重要な因子足りえること、なのだそうだ。

 理解はきわめて困難ながら、おそらく自分が欠落しているのであろうその感覚をつかむためにきっと必要なことだと信じる。信じたい。

 だからひたすら彼女の言葉を記録する。これで機能改善につながるというなら、やるしかなかった。


 明日からの行動予定についてのおおよその合意がとれたところで、自分の拠点に戻ろうとこたつから立ちあがった、のだが引き止められる。

「今夜はここに泊まっていきなよ」

「泊まる?」

「この部屋で寝るって意味」

 しばし思考したものの、やはりよくわからなかったので確認してみる。

「せっかく確保した自分の駐留拠点アウトポストがあるのに、なぜあなたのところに滞在するのかわからない。そもそも寝るというのも意味が不明」

「だって、あの部屋にもどっても布団もないじゃない」

「布団で、寝る」

 あいかわらずわからないことを言う彼女だった。

「わたしたちが横になって寝る、という行為にどんな意味が」

「あえて説明すると、布団で寝るというのは快適さや、安定した情動、つまりという感覚をあたえてくれるの。あなたがいま足を突っ込んでいたこたつと同じようにね」

 睡眠という、端末には本来不要の行為を実行させようとしているらしい。

「ただ横になるというなら床の上でいい。べつに立ったまま休眠モードに移行しても問題はない」

「あのね」

 ため息まじりに、ちょっと怒ったような表情でわたしの言動をとがめた。

「これから人間の行為を理解しようとする存在が、そんなことしちゃだめ」

「そう」

「あたりまえでしょう。冬の一番寒い時期に来た来客を冷たい床の上で寝かせるなんて。人間だったらぜったいにしないし、させない」

「実際、わたしは人間ではないから――」

「だから、そういうところから、学んでいくのよ」

 そういうものなのだろうか。判断基準となるべき人間の情動に関する基本情報はほとんど役立たずな状況だったから、なにが正解なのか、いまはたしかにわからない。

 同意すると、彼女が普段使用しているべつの寝巻きに着替えさせられた。赤いストライプの、綿というもので構成されたやわらかい生地の衣服。

 六cmの身長差からくる体格の差は思ったよりも大きいようで、袖が少しあまってしまい、仕方なく袖をまくってすませる。

 彼女も着替えを済ませると、ひとつしかなかった同じ布団にならんで横になる。

 何か奇妙な感じ。

「せまいけど、今晩だけがまんして」

「気にしない」

 そして朝倉涼子がリモコンスイッチを操作して寝室の照明が消え、優しい声が響いた。

「おやすみなさい」


                 ◆


 ――いつかわたしも。


 薄い闇の中、意識せずに口に出たささやき声だった。

 わたしが思わずつぶやいた言葉に、すぐ横の朝倉涼子がかすれたような、ため息のような声で問いかける。

「……なに?」

 暗い室内にやや強さを帯びた風の音が、防音措置を施した窓越しに低く唸るように伝わってくる。まだ雪はやむ気配はない。わたしをつつみこんだあのときのように、いまも遠い空の上から降りそそぎ、そして舞っているのだろう。

「……どうしたの? 眠れない?」

 もともと眠る必要がないわたしたちだった。

 だが休眠モードに移行することで、その間に内部領域インナースフィアの情報整理を行えるという利点はある。

 それにしてもわざわざそんなふうに人間の真似をする、というのは慣れない感覚ではあった。

 だが、たとえそれがいつわりの、ただの条件反応というプログラムのようなものでしかないのだとしても、いつかわたしも、彼女のように振る舞えるようになりたかった。

 本当はそれができるはずだったのに、いまのわたしにはできないから。

「いまの自分が」

「……ん?」

「何も感じることのできない人形のような状態でいることに不安がある。そういうことだと思う」

「そうね……わたしも最初はそうだった」

「…………?」

 意外な言葉だった。朝倉涼子は、最初からこのように動作していたのではないのか。とてもそうは見えなかったのに。

「じきにあなたも慣れるわ」

 彼女はわたしの頬に手をあてた。やわらかく、暖かい感触がのこる。

 こういう行動の意味を知っている彼女と、知らない自分。

 彼女の手に誘われるように、まぶたが落ちてくるのがわかる。

「明日は相談したとおりにお買い物しましょう。やっばりあの部屋じゃ……」

 言いおわらないうちに、朝倉涼子は睡眠時の呼吸をはじめていた。

 その呼吸音に不思議な安定感を感じ、そして、そのあとの記憶はない。

 休眠モードに入ったために、すべての知覚がゆっくりとシャットダウンされていく。

 雪と風のなかで生まれた自分が、いまは隣り合うもうひとつの存在の暖かさに抱かれている、この不思議な環境の変化を思いつつ。



―つづく―

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