第八話 母の説教
うめやでお父さんと大激突したしずちゃん。
私が頭を下げたことであの場は収まったけれど、お父さんの説得はもう無理だと諦めたんだろう。最初の計画ではけじめをつけてからと結婚式の後にするつもりだった私との同居を、前倒しした。あたしゃ気が短いんだ、ぐずぐず待ってなんかいらんない、と。最後のドアを開け放ったしずちゃんは本当に肝が据わっていて、くよくよ考え込むことはまるっきりなかった。
私が住んでいたマンションは独身者用で手狭だったので、二人で一回り広い賃貸マンションを探した。ダブルインカムと言っても、私もしずちゃんも高給取りではない。今は背伸びをしないで我慢して、その分しっかり貯金して、将来はどこかに家を建てよう。そう話し合って、少し築年数の行った賃貸マンションを安く借りることにした。
新居への引っ越しが済んで、二人での生活が始まってすぐ。しずちゃんのお母さんがいきなり訪ねてきた。連絡なしの訪問だったので、私もしずちゃんも腰が抜けるくらいにびっくりした。
「ちょ、母さん、なんなの、いきなり!」
「あははっ! 親としては、娘がどんな風に暮らしてるのか見ておかないとさ」
「今まで、放ったらかしだったくせにぃ」
「そりゃそうだよ。あたしまで口を出したら、あんたの逃げ場がなくなるからね」
「えっ!?」
しずちゃんが、それを聞いて固まった。
「ああ、お母さん。どうぞ中にお入りください」
玄関口に立っていたお母さんにそう勧めると、お母さんは私を見回してうんうんと頷いた。
「言っちゃなんだけどさ。リックさんの方が、あたしらより日本人ぽい感じがするね」
へえー、そんなものなのかな。私は人数分のお茶をいれて、湯飲みをテーブルに並べた。
「しず。あんた、そんなとこでぼけっとしてないで。少しは手伝いなさい」
「へーい」
「ははは。気にしないでいいです」
「そうかい?」
お母さんが湯飲みを手に、私をじっと見る。
「しずに一人暮らしさせりゃ、少しは生活するってことをまじめに考えるかと思ったけど、相変わらずだね。あたしゃ心配だよ」
お母さんが、そう言ってしずちゃんをじろっと睨んだ。しずちゃんは、お父さんには全力で楯突いたけれど、お母さんの小言には頭が上がらないようだ。
「うう……」
「いいかい?」
お母さんは、ぐいっと体を乗り出す。
「リックさんは、まめで生活力もある。苦労がちゃんと生き方に活かされてる。見ていて安心なんだよ。あんたは、その正反対だ。リックさんがなんでもしてくれるってことに甘えんじゃないよっ!」
お母さんが、しずちゃんの頭をばしっと張った。
「リックさんが家事を負担してくれるってことは、とてもありがたいことさ。でも、それは当然じゃあないんだよ」
「なんでー?」
不服そうに、聞き返すしずちゃん。あたしは家事は苦手なんだよ、出来る方がやりゃあいいだろって感じで。
「あんた方の間には、いずれ子供が出来る。育児はね、女がやらないとならない仕事が山のようにあるんだよ。あんたはそれを甘く見てる。いくらリックさんが手伝ってくれるって言っても、リックさん一人じゃ全部は出来ないんだよ。分かってんのかい!?」
自分を育ててくれた母親のきつい説教。さすがのしずちゃんも、それには全く反論の余地がなかった。しおしおになる。
「うん……」
お母さんは、しょうがないねって感じで椅子にどすんと座り直した。
「あたしゃね。父さんとは違った意味で、結婚には反対だったんだよ」
「え?」
「自分の身の回りのことすらロクに出来ない穀潰しの娘を、立派な旦那さんに押しつけたくなかったんだ。もう少し、生きるってことに苦労してから結婚を考えなって。そう言いたかった」
「う……」
しずちゃんが、べそをかきだした。お母さんが呆れ顔でそれを見下ろした。
「しゃあない。あんた方は二人で生きることを選んだんだから、すぐに逃げたり放り出したりしないで踏んばるんだよ」
「あの」
私は不思議だった。これだけしっかりしずちゃんのことを見ているお母さんなのに、なぜ今の今までさっきのことをしずちゃんに言わなかったのか。
「なぜ今までそれを」
「言わなかったのかってかい?」
「ええ」
「しずが聞く耳持たないからだよ。まったく」
お母さんがしずちゃんを小突いた。
「親に反発するってのは、自立するってことだよ。真っ当なことさ。でも、反発するだけで自分を作んないなら、ガキの駄々こねと何も変わんないよ。あたしたちはちょっとしずの
きりきりと眉を吊り上げたお母さんが、寝耳に水の話をいきなり暴露した。
「あんたが家を出るって言った時、父さんは絶対反対だったんだよ。冗談じゃねえってね。説得したのはあたしだ」
「そ、そんな……」
うろたえたしずちゃんを見もせずに、お母さんが話を続けた。
「あんたは一人娘でかばわれ過ぎて、礼儀知らず、世間知らずの甘っちょろい娘になっちまった。口ではぎゃいのぎゃいの言うけど、中身ぃ空っぽだよ。ちったあ一人暮らしで苦労して、世間の荒波に揉まれた方がいいだろ。そう思って、あたしが父さんを説き伏せたんだよ」
完全に意気消沈するしずちゃん。
「だけど、変わらんかったね。自分勝手でだらしないままだ」
お母さんがしずちゃんを全力で睨み付ける。
「今回のことだってそうだよ。あんたは最初から最後まで、一回もあたしたちに頭を下げてない。あたしは何も悪いことをしてない、何で頭を下げないとならんのって、そう思ってたんだろさ」
「う……」
図星だったんだろう。しずちゃんが少しだけ頷いた。
「だから、父さんだって依怙地になるんだよ。あんたが認めて欲しいってのはお願いだろ? お願いする方が偉そうにしてどうすんのさっ!」
ぱしっ! テーブルを叩いて、お母さんが大きな声を出した。
「結局、頭を下げて父さんを黙らせたのはあんたじゃなかったでしょ? リックさんだよね? あたしは父さんにそう聞いた」
「……うん」
「覚悟してるのは、リックさんだけじゃないかっ!」
お母さんの剣幕は凄かった。しずちゃんが、肩をすぼめて小さくなる。お母さんは、今度は真っ直ぐ私の顔を見据えた。
「リックさん。娘は出来損ないだ。きっとあんたに迷惑を掛ける。堪忍しとくれ」
そう言って、深々と頭を下げた。親だからこそ、娘にはこうあって欲しいという理想があるんだろう。私には、それがとてもうらやましかった。
「いえ、それは私も同じですよ」
「ええっ?」
「私は早くから自立しました。でもそれは、私が心から望んだことじゃありません」
「ふうん」
「再婚した父に気を遣う母。私と実子との差別をするまいと、私に腫物に触るように接する父。私は、親からストレートな愛情をもらえなかったんです。もらえなかったものをあげられるわけがありません」
「なるほど」
「これからしずちゃんと暮らして行く中で、お互いに遠慮なく文句を言える、きついことを言える、そういう夫婦になるには、まだまだ努力しないと」
「ははは、そうかい。やっぱり話はしてみるもんだね」
「はい。そう思います」
「じゃあ、ついでだ。もう一つ聞いておきたい」
「なんでしょう?」
お母さんが、きっと表情を引き締めた。
「あんた方のところには、じきに子供が出来るだろう」
「はい」
「父さんは口が悪いから、リックさんにとんでもないことを言った」
「はい」
「だけどね、それはみんなが口にしないだけで、心の中では思ってるんだよ。この黒んぼめがって」
「か、母さん!」
「黙っててっ!」
お母さんが、しずちゃんを睨み付けた。
「あたしはね、肌の色で人を差別するなんざ最低だと思ってるよ。でも、日本て国にはほとんど外人さんがいないんだ。違うっていうことは、どこまでも目立っちゃうんだよ」
お母さんの指摘には、一切容赦がなかった。苦い現実が次々に並べられていく。
「日本人は、白人さんにはコンプレクスがある。あたしたちはかなわないってね。で、その逆で、それ以外の外人さんをバカにするんだよ。心の中でね」
そうか……。
「その感情が見えるものだったら対処しやすいさ。でも、みんなそれを表に出さない。むき出しにしない。だから、そういう偏見があるんだってことを、きちんと肝に据えとかないとなんないよ」
「でもぉ」
しずちゃんが首を傾げた。
「あたしの回りにも国際結婚してる子はいるけど、そんな話は聞かないけどなあ」
「本人同士はね」
あっ! 最初に子供の話をしたのは、そういうことか。
「子供ってのは残酷なんだ。同じ日本人同士でもいじめだなんだっていう時代なのに、ましてや肌の色の違う混血児がいりゃあ、必ずその子は目立つ。標的になる」
「う……」
「あんた方が親になりゃあ、その子に普通の子以上に生き方を厳しく教えなきゃなんない。かばうだけじゃなく、愛情を注ぐだけじゃなくね。その覚悟がちゃんとあるかい?」
お母さんが、じっとしずちゃんを見つめた。俯いていたしずちゃんは、ゆっくり顔を上げた。
「覚悟しないと始まらないよ。あたしは、リックにいっぱい覚悟させちゃった。あたしだけがのんべんだらりと過ごすわけにはいかない。がんばるよ」
「そうかい」
お母さんは、しずちゃんの決意を聞いて表情を緩めた。
「まあ、あんたの頑固は父さん譲りさ。苦労はするだろうけど、それで折れることはないでしょ」
「うん! あ、母さん……」
「なんだい?」
「親父は、やっぱ認めてくんないのかなあ」
「ありゃあスネてるだけだよ。お菓子買ってくれないって駄々こねる子供と同じさ。しょうもない」
ぽんと突き放すお母さん。
「母さんも、それ分かってるなら取りなしてくれてもいいのにぃ」
ぶつぶつ言うしずちゃん。お母さんは、それにからっと言い返した。
「あんたねえ。あんだけ頑固で難しい人なんだよ。あたしくらいは父さんの味方しないと、すぐにどこからも弾き出されちまうだろ?」
「あ……」
「それがね」
お母さんが胸を張って、にっと笑った。
「夫婦ってことなんだよ」
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