第三話 風邪っぴき
どうしてもしずちゃんに会いたい。失敗を帳消しにしたい。私は大将にしずちゃんが来ているかどうかを電話で確かめず、うめやに毎日通った。でも、社にもうめやにもしずちゃんが来ることはなかった。しずちゃんに避けられたんだろうか。私はがっくりと落ち込んだ。でも、二度目の飲みから二週間後。しずちゃんはひょいとうめやに顔を出した。
「おう、しずちゃん、お見限りぃ!」
大将が陽気に声を掛けた。ちらっと私に目をやったしずちゃんが、私の近くのカウンター席に腰を下ろした。
「ああ、ずっと来たかったんだけどさ。ちょっとひどい風邪引いちまってね。やっと飲めるようになった」
うわ……。それでもがらがら声だ。
「おいおい、声がひでえ割れてるぜ。大丈夫かぁ?」
「飲んで治す」
大将が、置いていいものかどうか迷いながらカウンターに出した一升瓶を、私は引ったくった。それを見たしずちゃんが、青筋を立てて怒った。
「なにしやがるっ!」
「だめですよ!」
「はあ!?」
「そんなに長く風邪引いてたのなら、気管がすごく荒れてるはずです。アルコールでむせて咳が止まらなくなりますよ」
「余計なお世話だっ!」
「余計なお世話をしないと、ひどくなるでしょう?」
私に向かってまくしたてようとしたしずちゃんだったけど、店の中のタバコの煙とアルコールの蒸気が刺激になって、心配した通り、咳が止まらなくなった。
「げ、げほっ、ごほっ、げっ、げほっ、ごほっ、ごほっ」
「ほら……」
反論したくても、どうにも咳が止まらない。苦し気にうめくだけになった。
「飲むなら、ちゃんと治してから飲みましょう。今飲んだってお酒がおいしくないでしょう?」
しずちゃんは渋々頷いたけど、その場でうずくまって動けなくなってしまった。
「腹減った」
「だったら、お酒よりはご飯でしょう。困った人だ」
うめやでそのままご飯が食べられればよかったんだけど、なにせ店内は空気が悪い。私は濡らしたハンカチを渡して、それで口元を押さえるように言い渡した。咳き込んでしまうと、体調が悪化するから。
しずちゃんが自力で歩ければ、そのまま食べるものを買ってアパートまで送ったのだけれど、ろくに食べていなかったらしいしずちゃんは完全にその場でへたばってしまった。しょうがない。付け込みたくはないけど、アパートに押し掛けるしかない。
一人で歩けると言い張るしずちゃんを睨みつけて黙らせ、抱きかかえてタクシーに押し込んだ。アパートに着いてから、また二階まで抱えて連れて行き、部屋の鍵を開けさせた。本当は、しずちゃんは私を部屋に入れたくなかったんだろう。でも自力で動けないしずちゃんには、どうにもならなかったんだ。
部屋の中は凄まじく荒れていた。それが、しずちゃんの引いた風邪がいかにひどかったを如実に物語っていた。料理を作る気力がなかったんだろう。カップ麺の容器、レトルトのおかゆ、お菓子の空き袋。台所のシンクの中も、洗っていないお皿でいっぱい。ゴミを出しに行く体力がなかったと見えて、ゴミがぎっしり詰まったポリ袋がいくつもベランダに放り出してあった。
私が厳しい表情で部屋の惨状を眺め回しているのを見たしずちゃんは、しょげかえった。
「いつもは、もうちょいましなんだけどさ」
「分かってますよ。ほんとにひどい風邪だったんですね。完治するまではしっかり体を休ませないと、どんどん回復が遅れます。お酒どころの話じゃないでしょう?」
さっきの威勢はどこへやら。しゅんとなって私の腕の中で俯いてしまった。
「とりあえず、すぐ横になってください」
外出着のままでベッドに寝かせ、冷蔵庫を開けて中を確かめた。予想はしていたけれど、空だった。
そうか。本当はまだ調子が悪いままなんだろう。でも、食料が尽きて外に出ざるを得なかったんだ。その行き先がうめやというのが、いかにもしずちゃんらしいといえばらしいけど。
「鍵を預かります。買い出しに行ってきますね。すぐに戻ります」
私に背を向けたしずちゃんからの返事はなかった。急いでアパートの近くのコンビニとスーパーで買い物をし、部屋に戻ってシンクの中のものを洗って片付けてから、おかゆとおかずを作った。部屋を片付けたいけれど、しずちゃんにちゃんと食事をさせるのが先だった。私が調理をしている間、しずちゃんはしきりに首を回して私の気配を確かめていた。
「ご飯が出来ましたよ。まずきちんと食べて、体力を戻さないとね」
「うん……」
しおらしく、もそもそとベッドから下りて来たしずちゃんが、ご飯に食らいついた。それは、見事な食べっぷりだった。まさに、がつがつという音が聞こえそうな。
「ううー、やっとまともなメシを食えたー」
「いったいどういう食生活をしてたんです?」
「見ての通りだよ」
開き直ったように、しずちゃんが部屋を見回す。まあ、そうだよね。食事の済んだしずちゃんに再びベッド行きを命じて、私は部屋を片付けた。
「可燃ゴミはいつから出せるんですか?」
「月水金の朝」
今日は木曜だから、今出すのは無理か……。だけどこの状態で、しずちゃんが明朝自力でゴミを出しに行けるとは思えない。私は清掃局に電話をして、臨時に回収に来てもらえないかと交渉した。それは出来ないと断られたが、民間の回収業者を斡旋してくれたので、そこに電話をしてゴミを引き取ってもらった。部屋の中がすっきり片付いてほっとしたのは、しずちゃんじゃなく私だったかもしれない。ぬるま湯の入ったマグと咳止めの薬を並べて、座卓の上に置く。
「薬を飲んでくださいね」
「薬、嫌いなんだよなー」
「そんなことを言ってる場合じゃないでしょう?」
「へーい」
数日分の食料は冷蔵庫に収めたし、電子レンジで暖め直せばすぐ食べられるように、小分けにしたおかずを冷凍庫に入れておいた。しずちゃんさえ無理をしなければ、大丈夫だろう。さて。引き上げよう。
「じゃあ、私はこれで失礼しますね。お酒は完治するまでは絶対にだめですからね」
「あ……」
立とうとした私の腕を取って、しずちゃんが私を引き止めた。
「あ、あのさ」
「はい?」
「悪いんだけど……」
「??」
「今夜はここに居てくれないか?」
「え?」
「不安……なんだ」
しゅんと俯いてしまうしずちゃん。体調が悪くても誰にも頼れなくて、本当に心細かったんだろう。私はもう一度腰を下ろした。まだほとんど知り合いの域を出ない私が、しずちゃんの部屋に上がり込むだけでも越権行為だ。一夜を過ごすのは……。
「ご両親とか、ご兄弟は近くにおられないんですか?」
「親はいるんだけどさ。ちょっと、どんぱちやってる最中でね。絶対に帰りたくないんだ」
最初にしずちゃんと飲んだ時に、親との確執があると言うことは聞かされていた。しずちゃんの家は、お父さんが宮大工。昔気質で、鉄火肌の頑固親父だそうだ。
「あたしは一人娘だからさあ。親父が何かと干渉してくんだよ。うっとうしくてしゃあない。ぶち切れて、大学ン時に家出たんだよ。そっから没交渉さ。お互い勝手にしやがれって感じでね」
「お母さんは?」
「親父の言いなりだからね」
いくらしずちゃんが意地っ張りのちゃきちゃきと言っても、何もかも一人でやせ我慢するのは辛かったんだろう。肩を落としてはあっと溜息をついたしずちゃんが、座卓の上に肘を突いた。
「あたしはのんべのがらっぱちだからさ。飲み友だちはすぐ出来るけど、親友とかカレシは出来ないんだよ」
「どうしてですか?」
「あたしはわがままだからね」
「そうですか?」
「ああ」
うーん。私には、それは違うように思えた。しずちゃんは確かに豪快だなあと思う。でも、何もかも自分勝手に振る舞うという感じではない。がちゃがちゃな部分をわざと見せることで、その中の繊細な部分に触られまいとする。形は違うけど、私の慇懃無礼と近いんじゃないかな。しずちゃんが自分で言うほど、単純な性格じゃないように思う。考え込んでる私の様子をきょろっとうかがって、しずちゃんがこそっと聞いた。
「……いや?」
「いえ、しずちゃんがいいのなら構いませんが」
ほっと。しずちゃんが照れ笑いを見せた。
「あんがと」
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