歌姫
水円 岳
第一話 メンテナンス
「はい、マスダ楽器です。あ、フルート科の三井さんですね。どうしました? 来週のレッスンは用事があって欠席されるということですね? はい、分かりました。阿部先生に伝えておきますね」
ちん。受話器を置いて、レッスン予定表に斜線を引く。すごく残念そうな声だった。きっと仕事が押してるんだろなあ。個人レッスンの人も、そろそろクリスマスコンサート用の合同練習に本腰が入る時期なんだけど、年末近くなると仕事と風邪がネックになる。どっちも自分の意思とは関係なく勝手に落っこちてくるから、なかなかねえ。
腕組みして音楽教室の進行予定表を睨みつけていたら、通りかかった店長からぽんと声を掛けられた。
「あ、佐竹さん」
相変わらずのぼさぼさ髪、無精ひげだらけの顔。店長なのにそんなむっさい顔でいいのかいなと思うけど。それが店長だからなあ。呆れながら、とりあえず返事をする。
「なんですか? 店長」
「太田さんのチューバはメンテから戻ってる?」
「ついさっき戻ってきましたー」
「じゃあ、彼女にすぐ連絡してくれる? メンテ上がってますよって」
「分かりました!」
そっか、問い合わせがあったんだな。吹部のクリスマス発表会が近いから、さっちゃんも焦れてたんだろう。
「頼むね」
店長はそれだけそっけなく言い残して、慌ただしくばたばた駆け出して行った。
ふうん……。店長はどっか突き抜けてるっていうか、ちょっとやすっとのことじゃ動じない人。ああいうあたふたした姿を見せるのは珍しい。難しいお客さんに、何かいちゃもんでも付けられたんだろうか?
店長の後ろ姿が視界から消えると同時に、跳ね返って来た違和感が今度は自分を直撃する。
「それにしても。佐竹さん、かあ」
一年近く経ってもまあだ慣れないよなあ。制服の胸ポケットに付けた店員用のネームプレートをひょいと持ち上げ、自分の名前を確認する。
『マスダ楽器
いや、仕事にはすぐ慣れたんだ。音大の学生だった時にもバイトで楽器店の手伝いしてたし、それが正規に仕事になっただけで、することの中身がその時と大きく違うわけじゃないから。慣れないのは呼ばれ方だ。どうも『佐竹さん』てのがね。
わたしはこれまでほとんど苗字の方で呼ばれたことがない。学生の時も喫茶店リドルで働いてた時も、ほとんどみこちゃんとか、美琴さん、だ。馬鹿丁寧に苗字の方で呼ばれると、どうにもむずむずして気持ちが悪い。リドルのマスターや悪友どもが言うみたいに、みこちんと呼ばれるのはもっと論外だけどさ。ニコチンやぽこちんじゃないんだからさー。ぶつぶつ。
おっと。そんなことより、すぐさっちゃんに連絡入れなきゃ。仕事、仕事!
「もしもし、太田さんのお宅でしょうか? マスダ楽器の佐竹と申します。いつもお世話になっております」
「あ、はい。今、娘に代わりますね」
電話に出たのは、お母さんのようだ。娘さんを大声で呼び寄せて、子機を渡した気配がする。
「さちですー」
少しくぐもった声。さては。
「あはは。おやつ食べてた?」
「ううー。ばれたかー」
「チューバ、メンテ上がりました。やっぱりピストンのバネが一つへたってて、交換になっちゃった」
「えーん」
「その分料金が高くなったけど、しょうがないよね?」
「はい。いくらくらい増えたんですかー?」
ごそごそ。手元の修理伝票を見る。
「千五百円。こんなバネ一個で踏んだくるよねー」
「でも、それがないとまともに音が出ないから。しょうがないですー」
さっちゃんは逆に、予想してたより安く済んでほっとしたんだろう。古い楽器だったからなあ。
「それ以外は深刻なヘタリや故障はないって。分解掃除と調整だけね。受け取りの時に試奏室で吹いて、仕上がり確認してね」
「はい! ありがとうございますー」
「じゃあ、その時に支払いお願いします」
「分かりましたー」
よし、と。
「どう?」
いつの間にか戻ってきていた店長が、わたしの手にしていた修理伝票を覗き込む。
「古い楽器の割には傷みが少なくて、思ったより安くあがりましたね」
「大型の管楽器だと、強くぶつけたりしない限りはあまり問題ないでしょ。ピストンとジョイント周りだけだろ」
「はい。それにさっちゃん、すごく大切に扱ってるから」
「楽器がちゃんと応えてくれるよな。みんな、さっちゃんくらい丁寧に楽器を使ってくれると嬉しいんだけどね」
店長が、店内にいる若いお客さんたちを見回しながらじわっと苦笑いした。わたしもその気持ちはわかる。
学バン、学オケのレベルが上がると共に、子供たちが初心者用の安い楽器を粗末に扱い、使い捨てる傾向が増えてきてる。楽器のお金を払ってるのは演奏している子じゃなくて親たちなのに、まるで自分のカネのように考えて安い楽器をバカにする子がいるんだ。嫌な世の中だね。
でも、わたしも人のことは言えない。音大を目指してた時、そして音大にいた時は、わたしにもわたしの周辺の先生や学生にもそういう傾向があった。クズな楽器からはクズな音しか出ない。楽器に投資するのは自分の音を磨くための第一歩だ、と。もしわたしが音大をやめずにそのまま卒業していたら、つらっとさっちゃんに言ったかもしれない。そんなおんぼろ、さっさと買い換えなよって。
でも手持ちの楽器が切っても切れない相棒になれば、外野がそれにとやかく言う筋合いはない。新しいか古いか、高いか安物か、そんなの全然関係ないこと。楽器が自分の一部になるのだから。
高校生のさっちゃんが、進学、就職してからも音楽を続けるかどうかは分からないけど。自分の相棒として大切に扱っている今の楽器は、きっと彼女の生涯の友になるんだろうなと思う。さっちゃんは、そういう子なんだよね。
じゃあ、わたしは? あの頃じゃなく、『今』のわたしは?
「佐竹さん?」
店長の声で、はっと我に返った。おっと、いけない。思わず自分ワールドにはまり込んじゃったわ。
「すいません、ぼけっとして」
「なんか考え事?」
「ってほど、大げさじゃないんですけど」
「?」
「いや、楽器はこうやってメンテ出来るけど、メンテ出来ないものはどうしたらいいのかなーと」
「ははは」
そらあ、答えようがないよね。笑ごました店長は、ひょいと伝票の束を掴んで試奏室に向かって歩いて行った。
「ああ、ちょっと話があるんだ。閉店後、残って」
そう言い残して。なんだろ?
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