至天門夢幻階梯の崩落

 次の瞬間、


  ぐ… ぐ ぐ ぐ ぐ ぐ ぐ ぐ ぐ……………


 リュウジの心の中に空が落ちて、月と星とが流れ込んできた。

 夜と昼、月と太陽とが何万回転もリュウジの内をめぐり、いつしか彼は時間の感覚を失った。

 やがてリュウジの眼は、自身の立っていた公園を俯瞰し、新宿を俯瞰し、日本全土を俯瞰し、ついに地球を俯瞰し、さらに視界は広がって


 ……気がつけば彼が、これまで想像した事もない、人間に視覚することのできない『何か』を俯瞰していた。


「これは……!」


 リュウジの眼前には、幾多の人間の願いから派生した、無数の地球が在った。

 既に、リュウジに時間の概念は無かった。

 過去、現在、未来の出来事の全てが、彼の前では同時に存在した。

 今やリュウジはこの世界そのものだった。

 そしてリュウジは、世界の中で起きた事、起きている事、起きる事の全てを認識することが出来た。


  #


 或る地球は核の炎に包まれて、荒廃した大地をならず者たちが走り回っていた。


  #


 或る地球は全知全能の神が降臨し、人々は永遠の安寧に身を浸しながら脳内に色々なものをダウンロードしていた。


  #


 或る地球は木星からやってきた珪素生命体に融合され、機界昇華を果たしていた。


  #


 或る地球は次元上昇を果たして、みんなの意識が高くなっていた。


  #


「ぐぬおおおお! 待っていろぉ! ちゅぅがくせぇ~~~! ιょぉがくせぇ~~~!」

 或る地球では封印された煉獄の獄門でのたうち足掻きながらもなお、いかがわしいはかりごとを企む大槻教授がいた。


  #


「エナ、本当に、済まなかった……」

 或る地球では崩れ落ちた学園の校舎の前で、赤い夕陽に照らされながら娘のエナとしみじみ語らう理事長がいた。


「エナ、また家に、学園に、私のところに戻って来てくれるのか……?」

 理事長は縋るような目でエナを見る。


「いいえ、父さん。私もう行くわ……」

 エナは父にそう応えた。


「もう此処は、私の居るべき場所じゃない。それに……」

 エナは静かに、しかしきっぱりと父にそう言って、


「探したい人がいるの」

 夕日を眺めて、ポツリと呟く。


「そうか……わかった」

 理事長が寂しげにエナを見る。


「エナ、最後に、一つだけ、教えてくれ」

 理事長がエナに尋ねた。


那美ナミは、母さんは……、その……楽に、逝ったのか?」

 悔恨と自責の念が、再び理事長の顔を曇らせて、理事長は、ずっと彼を苛んでいた最後の気懸りを口にする。


「…………」 

 エナは貌を伏せ、しばし沈黙してから、


「ええ、父さん」

 貌を上げ、まっすぐに父を見据えて、父にそう応えた。


「母さんは、最後まで私に、笑っていてくれた。私のことを気にかけていてくれた。父さんにも、よろしくねって……」

 日の名残りが消えて、廃墟が夕闇に覆われる。


 エナと理事長はまだ夜の中に立ち尽くしている。


  #


「コータさん……」「コータさん……」「コータさん……」「コータさん……」

「何処なの……」「何処なの……」「何処なの……」「何処なの……」

 或る地球では、地獄の荒野を毅然と歩む、何人ものエナがいた。


  #


「お母さん、お母さん! すごい『技』を教えてもらったんだ!」

「ええ、すごい技? いったいどんな技なのかな~~!」

「いいからいいから、早く『アレ』もってきてよ!」

 或る地球では、母親と再会を果たした雨が、楽しそうに母親に駆け寄って、彼女になにかを告げている。

 

  #


 彼の意識が、世界の内に遍く無限に拡散してから数秒経ったのか、それとも数千年だろうか?

 それすらも、リュウジには判らなくなった、その時だった。


 突然、


 かしゃん。


 何かが、砕ける音がした。


「なんだ?!」

 リュウジは、戦慄した。

 唐突に、何の前触れも無く、彼の世界の一角が、何万もの地球が、リュウジの視野からごっそりと消え失せたのだ。


 後にあるのは黒洞々の闇ばかり。


 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。


 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。


 かしゃん。 かしゃん。 かしゃん。


 崩壊は止まらなかった。

 さらに何万もの地球が、次々と闇に落ちていく。

 理事長が消えて、エナが消えた。

 煉獄から逃れようと必死で抗いながら、教授が消えた。


 リュウジは、今こそ大槻教授の言葉を認めざるをえなかった。


「これは『祭り』だ。世界を管理していた何者かが、『この世界』を終わらせる前に、なげやりに最後の『実験』をしているのだ……」


 ……うそだろ。


 じゃあ『おれたち』は、一体何だったんだ。


 よくわからない目的の、おかしな実験でいいように踊らされて、そして用が済んだら消されて、『なかったこと』にされる……


 ただ、それだけの存在だったのか…………!


  ヲ ヲ ヲ ヲ ヲ ヲ ヲ ヲ ! ! !


 怒りと絶望のあまり、リュウジは咆哮した。

 その声は三千世界に響き渡って、残された地球に在る全ての者たちを、畏怖させ震撼させた。


 だが、その時だった。

 リュウジは感じた。


 風だ。


 世界と一体となった己の内側を、軽やかに駆け抜けて行く、一陣の風があったのだ。


「茉莉歌……!」

 リュウジは息を飲む。


 茉莉歌だった。

 公園を吹き抜け、新宿を吹き抜け、日本を吹き抜け、地球を吹き抜け、いまの茉莉歌は世界を吹き抜く風だった。


「おじさん、私、行くよ!」

 風になった茉莉歌が、世界を駆け抜けていく。


「……これは!!!」


 突如、リュウジは気付いた。

 今やあらゆる事象を認識できるリュウジには、無限の視野を獲得したリュウジには、この世界の『間隙』、世界の『外側』に至る道筋が、はっきりと分かったのだ。


「茉莉歌! あそこだ! あの流れの果だーーー!」

 リュウジは茉莉歌にそう叫んで、



  ぽ。



     ぽ。



   ぽ。



      ぽ。



    ぽ。



       ぽ。



 懸命に、自身の内に明かりを灯す。


「おじさん! わかった!」

 茉莉歌はリュウジにそう応えて、



   た!



      た!



    た!



       た!



     た!



        た!



 リュウジが世界に示した、光の道標を辿って、いまや崩壊する寸前の、様々な地球を転々としながら、彼女は『世界』を駆けあがっていった。

 茉莉歌は原始の海原を駆け抜けた。

 あらゆる生命の原質をその内に孕んだ大いなる紺碧のうねりも、

 た。茉莉歌の跳んだその足元で消えた。


 茉莉歌は核の荒野を駆け抜けた。

 ならず者たちが略奪の限りをつくし、強者が弱者を踏みにじる。そんなふざけた世紀末も、

 た。茉莉歌の駆け抜けた傍から消えた。

  

 茉莉歌は宇宙戦争のさなかを駆け抜けた。

 火星から襲来した三本脚の宇宙戦車と、地球防衛軍の最新兵器の全世界規模で展開された苛烈な戦いも、

 た。もう勝敗は誰にもわからなくなった。


 茉莉歌は終わらない学園祭を駆け抜けた。

 はてしない喧騒。うきたつ気持ち。そしてなぜだか郷愁を感じた鮮烈な色彩の日々も、

 た。もう茉莉歌の思い出の中にしか残っていない。


 茉莉歌は深海の玉座を駆け抜けた。

 この世の条理の外、次元の狭間をたゆといながら、復活と浮上の刻を待っていた玉座の主も、

 た。海中の微睡みから覚めることはついに無かった。


 そして刹那、


 茉莉歌は雨の傍らを駆け抜けた。


「雨くん……」

 茉莉歌は、思わず雨を振り返った。


「ううーー! 何よこれ!(けぽっ)」

「へへー! 新奥義『ギャラクシー』!」

 其処では、雨と母親とが、あやとりで遊んでいた。

 雨は、幸せそうに笑っていた。


「さようなら……! 雨くん!!」

 ん。茉莉歌は寂しそうに笑って、上を向いた。


 茉莉歌が上昇してゆく。

 『外側』は目前だ。

 闇を駆け抜け、闇を切り裂き、金色の光の奔流となった茉莉歌は、今まさにこの『世界』の『外』へ向かい『間隙』を突破せんとしていた!



  いっけぇぇぇぇええええええーーーーーー!!!!



   茉莉歌ぁぁぁあああああああーーーーーー!!!!



 リュウジが叫んだ。



 ――ありがとう 


  ――リュウジおじさん!



 毀れ行く世界で、彼の内側に響いた茉莉歌の声。

 そしてそれが、リュウジの聞いた、最後の言葉になった。



  かしゃん。



 次の瞬間、リュウジの意識は、己と一体となった無数の地球と共に、粉々に砕けて散った。

 そして、虹色に輝いた幾千億もの微塵になって、チラチラとひとしきり虚空を舞い、やがて一片々々と闇に沈んで闇の底へと消えていった。










 世界が終ったのだ。


































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