落日

 山並みに落ちかかって学園の校舎を赤々と照らした夕陽が、屋上に立つエナと理事長の体を血の色に染めあげていた。


 ピタリ。エナは黙って、父親の額を指差した。途端、


「ぐぅおおあああおおおおおおおお!」

 理事長が頭を抱えてもんどりうった。

 『思念伝達テレパシー』だった。

 この六日間で彼女の味わった恐怖と苦悶が、そのまま、理事長の頭に流れ込んできたのだ。

 リュウジとコータも、エナの苦悶の思念の、その余波に巻き込まれた。


「ぎ……ぐ……ぐ!」

 リュウジは堪らずに床に膝をついた。


「うわー!」

 コータは、痛みに耐え切れず、屋上を転げ回った。


「父さん! 母さんが助けを求めていた時に、一体何処で何をしていたの?」

 エナの声は、苦痛に歪んで崩れ落ちつつも、なおも回転を止めない歯車の軋みだった。


「私が新宿で苦しんでいる時に、こんな所で、お友達と遊んでいたのね!」

 彼女は、ゆっくり理事長に詰め寄った。


「やめろ、エナ…………来るな! ……くまがや!……深谷ふかや!……東松山ひがしまつやま!」

 理事長は自分の娘から後ずさりながら、思いつく限りの煉獄の名を唱えていった。

 だが、理事長の能力がエナを『飛ばす』ことはかなわなかった。

 彼の心が、それを拒否していたのだ。


「雲よぉ!」

 エナが叫んだ。みるみるうちに、暗雲が空を覆った。


 ドオン! ドオン! ドオン!

 理事長とリュウジとコータの周りを、何度も何度も雷撃が見舞った。

 屋上は焦げ付いて、穴だらけになった。


「来い! 風に乗って歩む者! 奴らをさらって地獄をその目にあらしめろ!」

 エナが破滅のうたを詠った。

 風が吹き、雨が落ちて来た。

 エナの瞳は、いかなる光も届かない虚ろで真っ暗な洞穴ほらあなだった。

 校庭を暴風が襲い、地上の生徒と家族は成す術なく、恐怖に身をすくめていた。


 その時だった。


「やめてくれー! エナ! 私の学園を! 私の生徒を、ご家族を傷つけるのは!」

 理事長が、泣きながら膝を着いて、娘に懇願した。


「………………!」


 エナはうたを止め、校庭に目をやった。

 眼下には、行くあても無く学園に身を寄せた、嵐の恐怖にうずくまる子供達と、その家族がいた。

 嵐が止んだ。


「……わかった。でも……! あなたは許せない」

 エナが、再び理事長に貌を向けた。


「父さん! 母さんと私の味わった痛みの、苦しみの、ほんの少しでも……せめて!」

 エナは理事長を睨んだ。

 そしてゆっくりと、指パッチンフィンガースナップのフォームを理事長に向けた。


 そして……


 パチンッ


 エナの手から放たれた、あらゆる生物を両断する、必殺の真空刃カマイタチが、空を裂いて理事長を襲った。

 理事長は、覚悟を決めて目を瞑った。

 彼に迫る、かまいたちの一閃。


 バシュ!


 血しぶきが、屋上に舞った。

 だが見ろ。これは一体いかなることか。

 恐る恐る目を開いた理事長の体は、全くの無傷だったのだ。


「……時城ときしろ! おまえ!」

 理事長は目を瞠った。

 彼の前に立って、その体を庇っていたのは、おお、コータだった。

 両腕に、かろうじてくっついていた『メタルマンスーツ』の手甲で、烈風の刃を弾いたのだ。

 だが、コータの方は無傷では済まなかった。

 避けきれなかった風の刃が、上腕や胸を切り裂き、彼の身体を血まみれにしていた。


「なぜ! どうしてあなたが!」

 エナが、驚愕に目を見開いた。


「エナ……だっけ? 俺、アホだからさ……」

 コータが両腕を下ろした。


「みんなに迷惑かけたし、周りの事とか、よく見えないって言われるしさ……」

 コータがエナを向いた。


「でも、さっきの『あれ』で、君の事はわかったよ……」

 コータは悲しい顔で、エナを見た。


「苦しかったんだな……」

 コータは、再び泣いていた。


「でも、今お前がやってる事は、間違ってるよ!」

 コータの語気が強くなった。


「どんな事情があったって、お父さんや、関係ない人を傷つけるなんて、やっぱりおかしい!」

 そしてコータは、空を仰いで言った。


「……願い事を言うよ。この子を開放してくれ! もうこんなに苦しまなくて済むように!」

 コータがそう願うや否や、エナの体が、暖かな金色の光に包まれていった。


「『コータ』……さん? こんな……ああ、これでようやく……」

 驚愕と、そして安堵の表情でコータを見つめるエナ。

 光に包まれたエナは、そう言い残して、消滅した。

 光は赤黒い空にたち昇って、散乱して、やがて消えていった。


「エナ……」

 コータが悲痛な呻きを上げた。


 そして……


 コータが空から視線を下ろすと


「ひぐう!」

 彼は恐怖に息を飲んだ。

 コータの前に、エナが立っていたのだ。


 コータの願いで、さっきのエナは救われ、昇天した。

 だがエナの母の願いは、新しいエナを、この世界に再生したのだ。


「……そんな! そんな事って……」

 継ぐ言葉も無いコータ。

 エナは、ただやるせない貌で、彼を見つめた。

 その瞳には初めて、人間らしい悲痛が宿っていた。


「うぉおお! 済まなかった那美! エナ! 私が怯懦で下らないことを願ったばかりに! お前たちに! 辛い思いを!」

 理事長が屋上に両手をついて慟哭した。

 エナは再び父を向き、父の胸元を見遣った。

 そこには、母のペンダントがあった。


「………………!」

 エナはただ黙って翻ると、崩れかけた校舎の屋上から、その身を投げて、


 シュン。


 そして光に包まれて拡散し、三人の前から姿を消した。

 どこか、離れた場所で実在化したのだろう。


 呆然として声も無いリュウジとコータ。

 校庭には、雨を失った茉莉歌の嗚咽が、止むことなく響いていた。


 理事長は黙って、昏さを深めた空を仰いだ。

 そして、日の名残りも消えた崩れかけた屋上に、ただいつまでも立ちつくしていた。


「リュウジ、ごめん。結局、約束破っちゃったな……。俺、絶交かな……?」

 コータが顔を伏せてリュウジにそう言った。


「…………!」

 リュウジは、返事に詰まった。

 たしかにコータは、やること成すこと全部間違いだらけだった。

 それでも、あの時の彼の『願い』を責められる奴が、どこにいるだろう。


「……何言ってんだコータ、謝るのは後だ」

 しばしの沈黙の後、リュウジはコータにそう言った。


「それより、早く傷の手当てをしろよ。服が血まみれだぞ」

 コータの姿を見かねて彼に声をかけるリュウジに、


「え……ほんとだ血……うぎゃ痛ってーー!」

 コータの自分のナリに今はじめて気づいて、そしてその場で卒倒した。


  #


 日が沈んだ。


 校舎から逃れた人々が、暗い顔でタニタさん達の準備した炊き出しに並んでいる。

 生協の黒石さんや薔薇十字さん達は、怪我をした人達の手当てに忙殺されている。

 幸いにも、校舎の崩壊と火災による死者はいなかった。『隊員』達の迅速な避難誘導が功を奏したのだ。

 だが、学園を襲ったトライポッドとの戦いで、多摩市猟友会の凄腕、物部剛毅老人は凄惨な死を遂げた。


 そして雨は……


「茉莉歌ちゃん……」

 事の顛末を鳳乱流おおとりらんるから聞かされたリュウジは、いたたまれない顔で、塞ぎこむ茉莉歌の背中をただ見守るしかなかった。

 あれ以来、茉莉歌は一言も話せず、食事も口につけていないのだ。


 リュウジには、彼女にかける言葉が見つからなかった。


「やはり、狂っている……」

 リュウジは、暗澹とした気持で夜の空を仰いだ。

 この混乱と狂騒は、いつまで続くのだろう。

 『対症療法』を以って世界を正常に戻さんとする理事長の『願い』は、学園に舞い戻った彼の家族の『願い』により、絶望的な形で幕を閉じたのだ。


 リュウジは、哀れなエナの運命や、雨の行方、そして失意の茉莉歌の事を思った。

 一体、今のエナや茉莉歌に手をさしのべる、どんな『願い』があるというのだろう。


 そうだ。

 いっそ、この事件を『無かったこと』にしてほしい、そう願うのはどうだろう?


「あ……」

 気の滅入っているリュウジに、それは意外な名案に思われた。

 あの『声』が聞こえず、怪奇現象や災害の起きていない状態に、世界を『戻す』のだ。

 リュウジと茉莉歌は、こんな目に遭うことなく、再び安穏とした日常に帰れるかもしれない……。


 だが……


 いや、待て。

 リュウジの中の何かが、それを制した。

 彼は消えた雨の事を思い返した。

 たしかに、リュウジがそれを願えば、『正常』な世界がリュウジの目の前に現れるかもしれない。

 だが、それはリュウジにとっての話だ。

 『ここ』に居る茉莉歌やコータ、理事長、エナにとって、今の苦境は変わらないだろう。

 ただリュウジが『ここ』から消え去ったという事実が残るだけだ。


 では、こういうのはどうだろう?

 『自分』と『茉莉歌』を平和な世界に帰してほしい、雨のいる世界に。

 そう願うのだ。茉莉歌は雨に会える。

 リュウジも、このプレッシャーから開放されるだろう。


 いや、待て。

 リュウジは混乱した。

 仮に、リュウジと茉莉歌が雨の居る世界に移動できたとして、その雨は、昼間の戦いで茉莉歌が守ろうとした雨と同じ雨・・・なのだろうか?


 いや、待て。

 そもそも、リュウジと一緒に別世界に移動した茉莉歌が『ここ』に居る茉莉歌と同じ茉莉歌・・・・・であると、どうしてリュウジが知り得るだろう。

 『ここ』にいる茉莉歌は、ただ取り残されたまま、さらなる苦境に立たされる可能性が無いと、誰に分かる?


「うう…………!」

 これまで考えたこともないような思考の迷路に迷い込み、リュウジは吐気を覚えた。


「いかんいかん! しっかりしろ、俺!」

 リュウジは頭を振った。

 ある日突然、家族や、親しい人間と永遠に別れなければならない。

 つらい事だ。耐えがたい事だ。

 だが、それは世界がこんな風になる前から、ずっと変わらない事じゃないか。


 茉莉歌にとって、不幸にも今日がその日だったのだ。

 これは、茉莉歌が乗り越えるべき悲しみなのだ。


 それを俺は願い事でどうにかしようなんて……!

 茉莉歌と俺だけ別の世界に行く?

 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!

 リュウジは、自分のアブノーマルな嗜好が願望に反映されていたことに気付き、ポカポカ自分を殴りたくなった。


 よし。

 リュウジは意を決した。


「茉莉歌ちゃん!」

 昼間の戦いの後から、リュウジは初めて茉莉歌に声をかけた。


「わかったよ、おじさん……!」

 茉莉歌がリュウジを振り向いた。

 彼女のその目には涙があった。

 だが、その声には気魄があった。


「ある日突然、親しい人と離れ離れにならなきゃいけない、でもこれは今までも同じことだったし、願い事で、どうにかすることじゃないんだね……」

 彼女はリュウジをまっすぐに見た。


「やっと気付いたの。私、本当に馬鹿……」

 茉莉歌の顔には、何かに思い至った哀しみと、諦念と、そして強さがあった。


「願い事で雨くんを取り返そうなんて、ずっと、そんな事を考えていたの。馬鹿だった……自分が恥ずかしい。しっかりしなくちゃ!」

 茉莉歌はリュウジの顔を見て、静かに彼にそう言ったのだ。


「え……そうなの……? いや、うん、それならいいんだけど、うん……」

 茉莉歌を叱咤しようとしていたリュウジは、彼女に自分が言おうと思っていたことを全部先に言われてしまって、ちょっとガッカリした。

 だが、彼の心は軽くなった。


「それにしても……」

 リュウジは呻く。

 茉莉歌の事で一杯で、これまで後回しにしていた問題が、葛藤が、ムクムクと彼の胸の中で頭をもたげてきたのだ。


「これを、茉莉歌に知らせるべきだろうか……」

 そう呟いたリュウジが手にしているのは、6日間鳴ることのなかった彼の携帯電話だった。

 携帯の液晶には、ついさっき受信したメールが表示されていた。


「新宿、十文字大学で待っています」

 メールには、ただこう記されていた。


 発信者は、リュウジの姉で茉莉歌の母。

 水無月結衣みなづきゆいだった。

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