第3話 蟲男
高校生の僕には二個上の女の先輩がいる。
ひょんなことで知り合うことになり、以来ことある毎に連れ回されている怪談好きの少し変わった先輩だ。名前を
その日も、休日のため部屋で優雅に惰眠を貪る僕に唐突に連絡を寄越してきたかと思うと、有無を言わさずに駅前に呼び出してきた。
「
待ち合わせの喫茶店。
開口一番、黄昏先輩が放った言葉は例に漏れずどこかで聞いたらしい怪談話だった。
先輩と二人きりで会えると少しばかり緊張していた心が一気に冷める。
彼女は、動きやすいジーンズとTシャツに日除けの帽子と動きやすさのみを追求した色気の一切無い格好でしごく嬉しそうに頷くと、聞いてもいないのに立て板に水のごとく語りだす。
「ああ、最近この辺りのサーファーの間で噂になっているんだ。三項ヶ浜の海岸で夜になると
ずずいと顔を近づけて同意を求めてくる先輩。
その真っ直ぐな瞳に思わずどきりとしてしまい、そのことを悟らせまいと顔を逸らして適当に相槌を打つ。
蟲男とやらが何かは分からないが、どうせろくなものでないことは確実だろう。
彼女の持ってくる話は大抵ろくでもない。今までの経験でそれは嫌という程理解させられていた。
「夜の海で見ただなんて、その人たちは何してたんでしょうかね?」
「何ってキミ。そんなのナニに決まってるじゃないか」
「黄昏先輩、なんだかそれっておっさん臭……痛い痛い!」
「失礼な奴にはお仕置きだよ。まったくキミは年頃の女性に対する扱いがなってない」
先輩に頬をつねられながら「年頃の女性はそんなおっさん臭いことは言わない」なんて感想を抱く。
もっとも、それを口に出すことはないし、このようなお茶目な所も先輩の魅力だ。
……認めよう。
僕は先輩に惚れている。惚れて、惚れて、惚れまくっているのだ。
だからこそ、超絶怖がりにもかかわらずこの一風変わった我が儘なお姫様に付き合っている。
そう……。
「とにかく、君は今暇だろう? なら今から行こうじゃないか。見てみたいんだ、蟲男をさ」
そう、明らかにこれから良くないことが起こるであろうことが、今までの経験からわかっていても、僕は彼女の提案を断ることができないのだ。
ため息を吐きつつ小さく頷く。
その態度に黄昏先輩は満足そうな表情で大きく頷いた。
………
……
…
「結局勢いで来ちゃいましたけど、よく考えたら夜しか出ないんでしょ? どうするんです?」
「さて、どうしたらいいと思う?
「いえ、黄昏先輩と同じくらい何も考えていないと思いますよ」
「なら全然考えなしじゃないか。駄目な奴だなぁ……」
黄昏先輩に言われたくないですよ……。
大きくうねる海原を視界におさめながら、僕は決して彼女に聞かせられない感想を抱く。
休日にもかかわらず、人気は一切ない。
辺りを見渡しても、遊泳禁止の看板が見えるだけで普通なら見かけてもおかしくないはずの無謀なサーファーすら、本日に限ってはいなかった。
波は高く、荒れている。
いつも見る海水浴場とは大違いで、自然の猛威をこれでもかと見せつけており、もしこのまま飛び込んだら永遠に戻ってこられないような恐ろしさを感じさせた。
「何もないねぇ……」
「昼間ですからね。あるわけないですよ」
「なんで昼間に来ようなんて思ったんだろう? どうせなら止めてくれよ」
「止めても黄昏先輩強引に来てたでしょ?」
「来てたねぇ……」
ぼんやりと二人で荒れ狂う波を眺める。
やがて先輩はつまらなそうに近くの枝を拾うと、砂浜にお世辞にも上手とは言えない絵を描き始めた。
彼女の不満と退屈がありありと伝わってくるが、反面僕はそこそこに上機嫌だ。
こういう、何気ない空間を二人で過ごすことがとても楽しく感じる。
まさしく青春っておもむきがあって非常によろしい。
もっとも、先輩はこんなつまらない時間はごめんだろうけど……。
「やぁ、君達。デートかな? ここら辺は波も激しいから泳ぎに来たのならやめておきたまえよ」
幸せな時間は唐突に奪われる。
声がかかった方を見ると、恰幅の良い地元の男性らしきおじさんが笑顔で手を振りながら歩いてくる。
軽く会釈をしながら、どこからともなく現れたおじさんに愛想よく返事する。
こういう地域のおじさんというのは得てしてお節介焼きだ。
恐らく、高校生の男女が何をするでもなく浜辺で佇んでいるのを見て気にかけてくれたのだろう。
先輩もお絵かきに飽きたらしく、僕とおじさんを興味深そうに眺めている。
「いえ、泳ぎに来たんじゃないんです。その、なんていうか、ちょっとサーファーの人が見たって物に興味があって……」
もしかしたらおじさんから何かを聞けるかもしれない。
そうすれば先輩からの評価もアップするだろう。
そんな邪なことを考えた僕は、面倒くさがりで人見知りする性格にしては積極的におじさんに質問をぶつける。
だが僕の質問に思うところがあったのか、おじさんは途端に顔を顰めて困った表情で言葉を濁し始める。
「サーファー……。ああ、蟲男ね。何? そんなの探してるの? 変な子達だね」
「この辺りで間違いないんですか? やっぱり最近そういう話がありましたでしょうか? ニュースとかでは流れていなかったのですが……。地元の方ならご存知でしょう?」
「う、うーん。どうだったかなぁ?」
思うところがあったのか、僕を押しのけてグイグイとおじさんに詰め寄る先輩。
対するおじさんはしどろもどろだ。明らかに先輩の勢いに押されている。
その様子から、おじさんは確かに何かを知っているであろうことが分かる。
ふと、そう言えば肝心の蟲男について何も知らなかったことを思い出すと、思い切って二人に聞いてみる。
「あの、蟲男ってなんなんですか?」
「ああ、蟲男ね。ここら辺では良く言うんだけど、ほら、なんていうか、仏さんなんだよ」
「仏さん……死体ですか?」
先輩にしつこく質問を受けていたおじさんは、僕の言葉に活路を見出したのか嬉々としてこちらに話を合わせてきてくれる。
反面、先輩からは鋭い視線が投げかけられる。
……しまった、選択を誤った。1分前に戻りたい。
もっとも、その願いは叶うことはなく、おじさんによるウンチクが始まってしまう。
「ここら辺は自殺の名所でさぁ、そう言うのもあるんだけど、さっきも言った通り潮流が激しくてね。良く沖に流されたサーファーや、誤って海に落ちた釣り人が上がってくるんだよ」
「うへぇ……」
突然の話に思わず変な声が出てしまう。
本当に、こういう話が苦手なのだ。できれば聞きたくなかったが、質問をした手前断るわけにもいかない。
「……君は水死体って見た事あるかい?」
「いや、普通は無いと思いますけど」
「私はあるぞ竜胆くん。あれは去年の話だがな……」
「黄昏先輩は話の腰を折らないでくださいよ」
「むっ! むー……」
「ははは、すまないねお嬢さん」
途中で話をかき回そうとする先輩を軽くあしらいながら、おじさんから話を聞き出す。
先輩が尋ねていたような具体的な話でなければ、彼も説明することに問題は内容だ。
もちろん、先輩の話に合わせても良かった。
だがどうせ僕を怖がらせるだけ怖がらせて満足そうな表情をするに決まっているだろうからここは黙ってもらうことにした。
もっとも、あとで地味な嫌がらせを受けることは確定したが……。
「水死体ってのはね、真っ白になってぶくぶくに腫れ上がるんだ。その位は聞いた事あるだろう?」
「竜胆くんは見たことあるか? 目も当てられない状況だぞ。一度見てみるといい、人間どんなに美しくても水で死ねばああなるんだ」
「…………」
嬉々として水死体の気持ち悪さを語る先輩に、おじさんと二人で引き気味になりながら、だがおじさんの説明は止まる様子はない。
「まぁ、お嬢さんの言うとおりだ。しかもそれだけじゃないんだ。水死体ってのはね、海に住む全ての生命にとって貴重な栄養になるんだよ。そりゃそうだね。彼らにとっては魚の死体も人の死体も、そう対して変わらないんだから……」
静かに語るその言葉に、何故か背筋が冷えはじめる。
波の音が耳障りな程に頭のなかで反響し、ガサガサと不気味な音がどこからともなく流れてきた。
「だからね、陸に上がった水死体ってのは酷いものさ。砂浜ならまだしも、小さな生き物が住みやすい岩場なんかに打ち上げられたら……」
岩場にあがった死体が自ずと頭のなかで想起される。
砂浜と違って、小さな生き物、小さな蟲が沢山いる岩場に死体があがったら……。
「フナムシって知ってるかい?」
「もしかして、それって……」
ガサガサと、幻聴が耳元で煩く鳴り続けている。
波の音さえかき消されてしまうほどけたたましく鳴りつづけるそれは、まるで目の前に蟲の塊が蠢いているようでもあった。
「ああ。蟲男ってのはね、岩場に上がった死体が誰にも気づかれずに大量の虫にたかられた様を言うのさ……」
ゴクリと息を飲む。
おじさんは、僕が恐怖でひきつっている様子を見ると、呆れを含んだ表情で笑い、ここから少し離れた場所を指さす。
「ほら、この先。岩場になっているだろう? ちょうどあんな所さ。人があんまり来なくて、それでいて生き物が豊富な……」
ぼんやりと視線をおじさんの指の先へと向ける。
……岩場だ。
丁度崖の様な形になっており、荒々しく波が打ち付けられたのか、複雑に岩が入り組んだ形状をしている。
「ちょうどあの辺り、ほら、影になっている辺り、覗いてご覧。もしかしたら居るかもよ? 蟲男がさ……」
「い、嫌ですよ! 怖い! もしいたらどうするんですか!」
その岩場は幾つか巨大な岩が立っており、影になる部分が複数ある。
それは人がすっぽりとゆうに隠れることが出来るほどの場所だ。
刹那、ドンッとガサついた何かで押される感触を覚え、ひっと情けなく悲鳴を上げる。
振り返ると、いたずらっぽい笑みを浮かべたおじさんと目があう。
どうやらからかわれているらしい。
「ははは、君は男なのに怖がりだなぁ。仏さんは早く見つけて欲しがっているというのにさ」
「う、うう……」
「ではヘタレで役に立たない竜胆くんの代わりに私が見てこよう」
先ほどまで不気味なほど静かだった黄昏先輩が唐突に声を上げる。
何もないと分かっているにもかかわらず、おじさんのオドロオドロしい語り口調で極限までビビっている僕にはそれが天啓にも思えた。
「黄昏先輩! それでこそです! やっぱり頼りになるなぁ!」
「君は頼りにならないねぇ……」
呆れたおじさんの声を無視しながら、先輩にエールを送る。
彼女はなんでもないというふうに岩場に向かうと、影になっている部分をヒョイ、ヒョイと覗きこむ。
躊躇のないその行動にどんどん自分が情けなくなってくる。
よくよく考えたらそう簡単に水死体があるはずない。
僕は何を怯えていたのだろうか、どんどん自分が恥ずかしなってくる。
向こうに見える先輩は変わらず岩場を散策していた。
まるで散歩でもするかのようにヒョイ、ヒョイと岩場を攻略して――。
ある場所で彫像のよう動きを止めた。
「……竜胆くん、スマホで警察を呼んでくれ」
戻ってきた先輩は、どこか青ざめた表情を見せると、それだけを伝え黙ってしまう。
視線も虚ろで、僕の方を見ながら、僕とは別のところを見ている様だ。
異様な様子に慌ててスマートフォンを取り出す。
急いで通話機能を選択して先輩に説明を求めるのも忘れて110に通話しようとするが、あっと思わず声を上げる。
運が悪いことに、電波強度を示すマークにはバツ印がついていた。
「黄昏先輩。ここ、僕のキャリアだと携帯圏外です……」
「そうか、うーむ。どうしたものか」
どうにもならないと分かりつつも、スマートフォンごと手を振り電波の状況を確認してみる。だが残念ながら電波強度は改善しない。
ちなみに、先輩が持っているスマートフォンに頼ることも不可能だ。
なぜなら、僕のスマートフォンは先輩とおそろいにする為にわざわざ乗り換えしたものだから……つまり、僕が駄目なら先輩も駄目なのだ。
「あっ、そうだ、おじさん携帯持ってます? そっちで繋がりませんか?」
ふと、僕ら二人以外の三番目の人物を思い出す。
そうだ、おじさんがいたじゃないか、見た目からしてあまりスマートフォンとかを持ち歩いているような雰囲気ではないが、それでも携帯電話は現代の必需品だ。
ガラケー辺りなら持っているだろう。
そう思い、スマホの画面から顔を上げておじさんを見ようとした瞬間。
先輩にガシっと両頬を掴まれた。
「キミは存外に鈍感なんだなぁ……」
「ど、どういう意味ですか?」
視線が交わる。
先輩は両手で僕の頭が動かないように固定すると、じぃっと覗きこむように僕の瞳を見つめる。
ドキドキと心臓が高鳴るが、その音よりも、ガサガサと不気味な音が聞こえ始めたのが僕の心を凍りつかせる。
「竜胆くん、怖がりだったよね?」
「え、ま、まぁそうですけど……」
ガサガサ、ガサガサと、不気味な音がすぐそばで鳴り続ける。
さっきまで饒舌に説明をしてくれていたはずのおじさんは、声をあげることもなく押し黙っている。
だが、彼が変わらずそこにいることは、表現しがたいほどに主張してくる寒気と、圧倒的な気配で否応なしに理解してしまう。
「じゃあ今は振り向かないほうがいいよ」
ガサガサと蟲が身体を這いずり、肉を食む音が聞こえてくる。
背後の気配は動かない。何を主張し、何を望んでいるかも分からない。
ただ、そこに佇んでいることだけは分かる。
「
――だから、振り向いちゃ駄目だよ?
静かに、とても静かに、先輩はそれだけを僕に告げ、それっきり押し黙ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます