第5章 狂戦士 3
二層目の南門近くに着く頃には、既に暮れようとしていた。
太陽は、高い市壁の下にあり見ることはできないが、赤々とした西の空から沈む前だと分かる。鱗雲が、落日を映し出し茜色に染まる。魔都フェリオスの古代の街並みも、赤く染まっていた。
無人の寂とした黄昏の街と赤く照り返す空が迫るような鱗雲で、一瞬ときの流れか異界との境界にでも自分は紛れ込んでしまったのだろうかと、フィリスは思った。そう思わせるほど、現実味がどこか欠けた光景だった。
双眸が赤を反射し、フィリスの瞳が金色をしていることを、分からなくさせる。それと同様に、このいっときは自分自身の正体さえも定かではなくなる。隣をずっと歩いてきたリオンにしても、本当に彼なのだろうかと不安が掻き立てられる。
全ての存在と境界があやふやになる危惧。
それが、魔都フェリオスの黄昏時だった。
「フィリス、疲れていない?」
リオンから、声をかけられる。
こちらを気遣ってくれていることが分かる、労る声だ。
「平気です」
フィリスはリオンの優しさを感じそれに身を委ねたくなるが、強がるようにそう答えた。
自分にはやるべきことがあると、フィリスは強く心に刻んでいる。
闇墜ちした元契約闘魔種であるランヘルト・クラッセンを救わなければならない。それがたとえ、彼に死をもたらすことだとしたも。
自分がいけなかったのだろうかと、フィリスは切なく辛い気持ちになった。
だから、ランヘルトは自分から離れていった。
責め苛む思いが、次から次へとフィリスに湧き上がってくる。常に、ランヘルトはフィリスに優しかった。自分はそれに甘えていたのだろうかと、フィリスは思う。何から何まで全てランヘルトに寄りかかって。
ランヘルトの隣は、フィリスにとってとても心地よかった。
だから、フィリスはよからぬ者たちの金蔓にされたくないという理由で、ギルドを作らなかった。二人でずっといたかった。よけいな者に介入されたくなかった。二人の時間を邪魔されたくなかった。我が儘だと、フィリスも心の奥底で思っていた。
金色の瞳――聖眼を持って生まれてきたフィリスは、物心つく頃には神ブリュンヒルデと契約していた。グランターであることが、当たり前だったのだ。
周囲というよりロクサーヌ王国は、フィリスの意思を尊重してくれた。宮仕えを強要することもなく、自由な行動を許した。三年前、フィリスはランヘルトと出会った。今より幼かったフィリスのグランターとしての活動が始まった。
ランヘルトは、優秀な闘魔種だった。あっという間にランクを上げていき、
闘魔種がランヘルト一人だけでも、フィリスは不自由しなかった。特定の拠点を持たず、抗魔四都市の宿屋を転々としていた。フィリスは、毎日旅をしているみたいで楽しかった。全てをランヘルトにフィリスは委ねていた。
契約闘魔種を増やすこともなくギルドも作らず、二人だけの気ままな暮らし。フィリスは、それがとても楽しかった。冬場の寒い時期、抗魔四都市の都市から都市へ移動し、冷え切った身体を屋台の料理で温める。その温もりは、とても貴重に思えたものだ。
ギルドを作れば、グランターは大切に扱われ何一つ不自由することはない。だが、確実にフィリスの自由は奪われる。周囲の者たちから崇められる代わりに、街を好きに歩き回ることも許されない。一種の牢獄のように、フィリスはそれを感じる。
ランヘルトはフィリスの思いを察してか、仲間を増やしたいと態度に出すこともなかった。基本的に、ランヘルトはソロで魔物を討伐していた。しかも、当時人類が到達し得た一〇層の強力な魔物を一人で相手して。
多くの闘魔種を見てきたわけではないフィリスだったが、ランヘルトは闘魔種として別格の才能を持っていたと分かる。それでも、パーティーも組まず一人寡黙に魔物を屠り続けていくことは、辛かったのかも知れない。
フィリスは、ランヘルト一人がいればよかった。それが、彼には重荷だったのだろうかと、フィリスは今となっては思う。
ランヘルトは、強い闘魔種だった。そして、強い意志も持っていた。
どうして? とフィリスに疑問が湧く。
どうして、自分から離れてしまったのだろうか、と。
フィリスには、ランヘルトが闇墜ちした理由が分からないのだ。知りたいと切実に願う。
ちらりと、フィリスは隣を歩くリオンを見た。
リオンは、自分のために
ランヘルトの行方を追おうと一人フェリオスに入った。一層から魔物と出くわし躓いてしまった。魔物――ゴブリンはとても恐ろしかった。ランヘルトは、一人でこのような化け物の相手をしていたのかと、信じられない思いだった。死を覚悟したとき、リオンがゴブリンに立ち向かった。
闘魔種でなく武術の心得などないフィリスだったが、リオンは普通の人間だと分かった。どうして闘魔種でもない彼がフェリオスにいるのか分からなかったが、このままでは自分も彼も死ぬだろうと分かった。
生きたいと、フィリスは思った。
まだ、ランヘルトに自分から離れた理由を聞いていない。
だから、咄嗟にフィリスはリオンに
あとになって、後悔したものだ。聖眼の巫女などと呼ばれ持て囃されてきた自分は、今や災厄の巫女と呼ばれ軽蔑の対象になっている。その闘魔種としてやっていくことは、様々な面で困難だった。
一度、フィリスは、リオンをランヘルト捜索に利用しようかと考えた。だが、純粋に闘魔種となれたことを喜び、自分が置かれた状況を知ったあとでも変わることなく接してくれて、一緒にやっていきたいと言ってくれるリオンを、使い捨てにする気にはなれなかった。
リオンをそのまま自分の闘魔種にしておくことに、フィリスは耐えられなかった。だから、
自分の闘魔種であることに何一つ躊躇うことのないリオンを、自分は裏切ることになるかも知れないと思うと、フィリスは胸がずきりと痛んだ。出会ってまだ間もないが、リオンは確実にフィリスの中で存在を大きくしていた。
僅かな期間で
幻想的な金色の双眸に、固い決意の色をフィリスは浮かべた。
二層目の南門には、男女の闘魔種が大勢集まっていた。
アザレア騎士団の野営地に一旦戻らず、ここまで来るのに馬は使わなかった。だから到着が夕暮れどきとなった。向かった先で、
再びめぼしい情報を得られる可能性もあり、出くわす闘魔種に話を聞きながらここまでやって来た。特に新しい情報はなく、
この層域では、主にランクの低い闘魔種が魔物を討伐している。
綺麗に整った面に、フィリスは微かな疲労の色を浮かべていた。
闘魔種ではないフィリスは、リオンたちと一緒にここまで歩いてきて大分疲れていた。
他のグランターのように屋敷の奥で大切に扱われてきたわけでなく、リオンと出会うまでは拠点もなく抗魔四都市を転々としてきた。それなりに体力には自信があったのだが、やはりグランターは神の巫女であり身体能力は常人と同じだ。
フィリスは一一歳の女の子だ。
そんな子が、この魔界の都を闘魔種のペースで一日中歩き回れば、相当体力を削られる。
だが、これからのことを考えれば、フィリスは疲労に身を委ねるわけにはいかないのだ。
「どうしたのだ?」
闘魔種の一団に、アーダが声をかける。
さらりと背中に流れた金髪が、風に揺れる。頭の周囲をサークレット状に覆うヘルムや鎧の作りは巧緻で、アーダの美貌が凜々しく引き立っている。
「あんたは……」
近づくフィリスたちに気付いた闘魔種の一人が、アーダを見て口をあんぐりと開けた。
それは、そうだろうとフィリスは思う。
戦女神と錯覚させる希有な容姿を有したアーダと、このような魔都で出会えば皆驚くことだろう。
「弓姫……アーダ王女」
「アザレア騎士団団長」
「団員もいるぜ」
闘魔種たちは、ざわついた。
アーダを先頭に、フィリスたちは歩みよる。
「おい、後ろにいるちっこいの、災厄の巫女じゃねぇか?」
「そうか? 夕日で目の色が分からねーが」
「俺は、一度見たことがあるんだ。あの綺麗な顔と銀髪。間違いねー」
何人かが、フィリスに訝しげな視線を向ける。
フィリスは、その声を聞きビクリとした。災厄の巫女の悪名は、どこまでもついて回る。
「
「奴が、この層域に現れたのは、疫病神が彷徨いているせいか」
「ええ、
口々に、闘魔種たちはフィリスを非難した。
ギュッと、フィリスの身体が強ばる。正直、内心では狼狽えている。表面にそれを出すまいと、必死に平静を装う。
「いい加減にしてください。そんなの言いがかりです」
フィリスを庇うように、リオンが前へと出た。
自分を守ってくれるリオンに、フィリスは感謝の念が湧く。リオンは、出会って間もなくまだ互いを信頼するには日が浅いというのに、懸命にフィリスの味方をしてくれる。
「まるで迷信だな。フィリスがいるから
厳格な口調で、アーダがフィリスの立場を明らかにした。
フィリスを憎んでいるであろうアーダだったが、公正な気性と本来の優しい性格から、むやみな悪意に晒されることは許容できないのだろう。
「アーダ王女は、
女性の闘魔種が、顔に喜色を浮かべた。
「そりゃ、兄上を殺されたら、討伐するよな」
別の男性の闘魔種も、期待の色を顔に浮かべている。
「そうだ。わたしたちは、
兄のことを言われ、一瞬精緻な美貌に鋭さを宿したアーダだったが、落ち着き尋ねた。
「ああ。奴が出くわす闘魔種を手当たり次第狩っている」
その言葉に、他の闘魔種たちも頷く。
いよいよかと、フィリスは思った。ランヘルトは、一、二層にいる。
「分かった。おまえたちは、都市に帰るがいい。あとは、わたしたちで
アーダの宣言に、フィリスは内心穏やかではない。
かつての契約闘魔種を、フィリスはアーダに協力し殺そうとしているのだ。
「
闘魔種たちから離れると、アーダは口調を柔らかくし自分の考えを口にした。
なるほどと、フィリスも思う。
「そう考えると、奴の行動も分かります」
「〝魔神〟は、まだ一一層に対応できる闘魔種が少ない内に、奪われた層域を取り戻そうとしているのでしょう」
アーダの推測に、ルナとジゼルも同意した。
魔都に夜の帳が降りた。
フィリスたちは、一層で野営の準備に取りかかる。数日分の食料は、ジゼルとルナがそれぞれ分担して持ってきている。燐火竈で、二人は食材を煮込んでいた。
リオンは、アーダの命令で歩哨に立っていた。
一層の魔物は、リオンの闘魔種としてのランクにぴったりだからだ。
燐火ランプに照らされて、フィリスの綺麗に整った顔が闇に浮かび上がっていた。フィリスは、リオンから休んでいるように言われた。少し離れた場所に、アーダが座っている。
一一層から一層への移動は、確実にフィリスの体力を奪っていた。魔都フェリオスは、半径が一五ルーニア以上ある。かなりの距離を歩いた。襲ってくる疲労と、フィリスは戦った。
フィリスは、休んでいる振りをしながら、ある気配を感知しようとしていた。自分が与えた
近くに一つある。
リオンの中にある
できるだけ広範囲に、フィリスは意識を広げる。微弱な気配を感じ取ろうと。果たして、それは見つかった。方角的には、一層南門辺りに。
そっと、フィリスは立ち上がった。
ちらりとアーダはフィリスを見たが、特に何も言ってこなかった。
不自然にならぬよう、フィリスは歩き出した。ちょっと、そこら辺へ行くように。
上弦を通り越した満月に近づく月明かりで、歩くには不都合がなかった。フィリスは、気配を感じた一層南門へと歩いて行く。ここから、それほど離れていない。
その気配は、きっとランヘルトのものに違いなかった。完全にダークメイルによって意識を乗っ取られていなければ、話はできるはずだ。どうして、自分の元を離れたのか、フィリスは理由を知りたかった。そして、自らの手で決着を付けたかった。
誰かに、ランヘルトを殺されるのを、フィリスは耐えられないのだ。兄を殺されたアーダには、ランヘルトを殺す理由がある。そして、今の彼は、無差別に闘魔種を殺している。大勢に討伐されても仕方がなかった。
それでも自分の手で解決したかった。
ランヘルトと話し合い、今一度正気に戻って欲しかった。
懐に忍ばせた短剣の柄を、フィリスは握りしめた。
リオンが今使っているダマスカス鋼製の
どちらにせよ武芸に疎いフィリスが使ったとしても、意味はない。
あくまで、フィリスはランヘルトの同意の下でなければ殺せない。
一層南門に近づくにつれ、フィリスが与えた
聖気は、南門の隣に建った市壁に繋がった塔からだった。
歓迎の塔と呼ばれるそこに、ランヘルトはいるに違いなかった。フィリスは、塔へと入っていった。螺旋になった階段を上っていく。上へ行けば行くほど、穢れを帯びた聖気は強まる。
最上階に、暗黒色の鎧を着けた者がいた。
約二週間ぶりに再会する、変わり果てたランヘルトがそこにいた。ダークメイルを纏った彼は、禍々しさを発していた。
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