聖眼のフィリス
@ukyo_asakura
プロローグ 新月の夜
薄らと霞む夜空に、星々がぼうっと光を放っていた。
遠くに見える高い市壁も、おぼろに見える。
夜の空気はどことなく生暖かく、気分を浮つかせてきた。
昨夜は、夜空も冴え渡り星々も煌々と輝いていたのだが、とベルトナンは思った。
春先の気候は移ろいやすかった。
同じ場所だというのに、雰囲気やらがどことなく違って見えた。
酔いの回った頭と身体を冷ましたいと思っていたベルトナンにとって、これはありがたくなかった。よけいに酔いが回りそうだった。
ベルトナンは、部下の騎士たちと一緒に宵の口から酒を飲んだ。ここのところ、連日そうだった。めっきり酒量が増えた。決してやけ酒などではなく、楽しい酒であるので思わず気を緩めてしまうのだ。そろそろ浮ついた気分を引き締めねばと思いはするものの、祝ってくれる部下を無下にはできなかった。
七二年間攻略不可能だった市門を突破したのだ。
それを成し遂げた英雄が、ベルトナンだった。
市壁から視線を戻した。
碧い瞳に、都市が映し出される。
「こうして見ると、美しい都だ」
ベルトナンは、独りごちた。
それは余裕に満ちた心が言わせた言葉だ。驕りともとれる。ここのところ少々浮ついていながら己は冷静だと思っているベルトナンの中にある、気の緩みだ。
靄でぼんやりとした街並みは、どことなく幻想的だった。ここが魔の都と呼ばれていることを、一瞬忘れさせるほどに。見ていると、吸い込まれそうになる。
人が住むことのない都市は、廃退的で蠱惑的だ。この世から隔絶していると錯覚させてくるような。この都以外で、静寂が支配する都市はあるまいと思う。
「魔都の街並みが美しいとは、お兄様は剛胆ですのね」
背後からベルトナンに声がかかった。絹のように滑らかな声だった。
「アーダ」
聞き慣れた声に、ベルトナンは振り返った。そこには、銀色に輝く精妙な作りをした鎧を着た年若い少女が立っていた。
新月に照らされた顔立ちは精緻に整い美しく、背中にさらりと金色の髪が腰の辺りまで流れている。何より印象的なのは、
「お兄様、このような時間にどうされたのです?」
「アーダこそ、どうしたのだ?」
ベルトナンは、我が妹ながら美しいと思いながら尋ねた。
華奢で精妙な鎧は、アーダに映えた。美しい乙女でありながら、勇壮さも兼ね備えて。
「幕舎から、お兄様のお姿が見えましたので」
アーダは、ベルトナンの傍らで立ち止まり、悪戯っぽく笑った。
精緻な美貌が笑むと、爽やかさと艶やかさが同居した何とも言えない表情にアーダはなる。兄でありながら、一瞬アーダに心奪われる。
「酔いを覚まそうと思ってな」
「ほどほどになさいませ、お兄様」
咎めるような口調だったが、本音では大目に見ていると分かる。
「少し歩いてくる」
ベルトナンは、手を振りアーダから離れていった。
街は異様と思えるほど、静けさが支配していた。
それを打ち破るように、ときおり奇怪な咆哮が聞こえてきた。
「ここは、本当に人界から隔絶された場所なのだな。魔の都。それがこのフェリオス……」
気持ちを、ベルトナンは入れ替えた。
そろそろ、市門を攻略した余韻を消さねばと思う。
魔都フェリオスは、人の代わりに魔物が我が物顔で徘徊する危険な場所なのだ。
街並みから視線を切り、背後を振り返る。そこには、それまで遠くに見えていたものと同様な市壁があった。
数日前、ここで魔物との激戦があった。
崩れそうになった大陸中から集まった遠征軍を、ベルトナンは配下の
ベルトナン・デューク・ロクサーヌは、この魔の都があるロクサーヌ王国の第一王子だ。次期国王――王太子である彼は、国民に対してまたはエヌキア大陸の諸国に対して、義務を果たし十分に存在を誇示することができた。
これで、我が国の発言力が増せばと思う。
今、ベルトナンが見上げている市壁は分厚く高々としていた。よく見れば薄らと魔力を帯びている。市壁自体の破壊は困難だ。市門は大城塞のように大きく頑丈だった。今思えば、よくもまあ突破できたものだと思う。
今は大事をとって市門の内と外に、軍勢を配置している。再び奪い返されることがないように。ここから、フェリオスの一一層の層域に入ることができる。
他国の騎士団やギルド所属の闘魔種たちが、一一層内の魔物を狩っている。掃討しているのではなく、自分たちのランクをこの層域に相応しいものとするためだ。
これまで一〇層の魔物を相手にしてきた者にとって、一一層の魔物の強さは不慣れだ。早く慣れねばならない。そうすれば、一一層の市門を突破しようとする魔物が減り、仮に突破されても倒すことは容易になる。
新たな層域に挑んでいる者たちのため、市門を閉ざすことはできない。一一層の東西南北にある市門の周囲は、ロクサーヌ王国や大陸会議と各国が派遣した騎士団が見張っている。市門に対し一つずつある塔内の魔界と繋がった大鏡は破壊してある。そこから魔物の軍勢がやって来ることはない。あとは、ランダムに出現する小ゲートから出てくる魔物だけだ。
それにしても、とベルトナンは思う。
今思い返しても、巨大な大鏡が湛えた闇の禍々しさにベルトナンの全身の総毛がよだつ。まるで、見た者を深淵へと誘うようだった。
ロクサーヌの騎士たちは、お祭りムードだ。それは致し方のないことだと、ベルトナンは思う。念願の一一層攻略がなったのだ。魔都フェリオスを領土内に有するロクサーヌ王国民にとって、喜ばしいことだ。少々、羽目を外すのは仕方がないと、許容している。
だが、そろそろ騎士たちにも気を引き締めてもらわなければならない。ここが、魔都フェリオスだということを思い出してもらわなくては。
気の早い妹のアーダなどは、ベルトナンの勲功を大変喜び自分が一二層の市門を突破するのだと意気込んでいる。今は、率いるアザレア騎士団とここ一一層南門の守備についていた。
苦笑が、ベルトナンから漏れる。我が妹ながら勇ましい、と。
大分離れてしまった野営地へと、ベルトナンは一一層の市壁に沿って歩いて行く。市壁の外周部には、深い堀というか谷が下に広がっている。人間が計測した結果、そこがどれほど深いのか判明しなかった。
谷の底には終わりがなく魔界と繋がっていると言う者もあるが、あながちそれは間違いではあるまいとベルトナンは思う。
覗き込めば、遙か下の方が赤紫色に染まっている。落ちれば戻ってこられないだろう。谷底を屈んで見ていたベルトナンは、視線と姿勢を戻した。
明日からは、配下の騎士たちに少し厳しく接しようと思う。戦勝気分も今夜までだ。魔物の脅威は、全く去っていないのだ。
暫く、円周になっている市壁の周囲をベルトナンは歩いた。
一人思案をしているとき、横の方で足音が聞こえた。
アーダか幕舎に見当たらぬ自分を探しに来た部下だろうかと、ベルトナンはそちらを見る。
瞬間的に、はっとなった。
そこには暗黒色の鎧で身を固めた、長身の男が立っていた。背に大剣を背負っている。
禍々しさを感じさせる鎧から、どことなく不吉なものをベルトナンは感じ取った。
気持ちがざわつくとでも言えばいいのか、落ち着かなくさせられる。
ヘルムを被らぬ顔は、端正と言ってよかった。灰色の髪が顔に落ちかかっていた。
「おまえは、ランヘルト・クラッセン?」
驚きの声を、ベルトナンは上げた。
が、相手は答えなかった。
新月の蒼光を映し出した
返答の代わりに、背のラックから大剣を外す。
その大剣は、闇夜を固めたような漆黒だった。
「闇墜ちしたと聞いていたが……」
ベルトナンも、腰に佩いた長剣を引き抜く。
その長剣は、薄らと青白い聖なる光を纏っていた。
ドワーフが精製した
黒い影が動いた。
鋭く大剣を叩き込む。
ベルトナンは、聖剣を打ち合わせる。精霊の力に反応するように、血のように赤い光が漆黒の大剣から発せられる。
ずずっと、ベルトナンの足が地面を滑る。
「何て力だ!」
驚きの目で、ベルトナンは暗黒色の鎧を纏ったランヘルトを見た。
ベルトナンは、一一層どころか一二層の魔物を倒せるだけのランクを得ている。ときおり、深層からやって来る魔物を倒し続けて得た
その自分を、力で圧倒してきたのだ。
後ろに飛びすさり離れる。
漆黒の大剣が赤い光の筋を引きながら閃き、聖剣と激突する。
激しい金属音と、魔力と精霊の力がぶつかり合う眩い光を撒き散らした。
数合打ち合っただけで、ベルトナンはランヘルトの並々ならぬ技量が分かった。
「凍てつく乙女よ」
聖剣を握る手に、ベルトナンは力を込める。
すると剣身から、凍気が荒れ狂うように発せられた。
それを、聖剣で打ち付けるように暗黒色の鎧を纏った相手に放出した。
途端、暗黒色の戦士が凍り付く。大剣から発せられていた赤い光が消えた。
ランヘルトは、動きをぴたりと止める。
「やったか?」
相手の戦士を凍てつかせることができたかと、ベルトナンは安堵の声を上げる。
これで終わりだと思ったとき、暗黒色の鎧の継ぎ目から青黒い光が発せられ、ピキリピキリと音を立てながら、覆った氷を吹き飛ばす。
ベルトナンの目は、驚きに見開かれた。
漆黒の大剣は、血のような赤い輝きを再び宿した。
それを一閃。
ベルトナンが着用しているダマスカス鋼製の鎧を、粉々に粉砕した。
血が吹き出る。
致命傷を、ベルトナンは負った。
ドサリと、地面に倒れ込む。
暗黒色の鎧を纏った戦士――ランヘルトは、背を向けて去って行く。
意識が薄れつつある中、それをベルトナンは見送る。
ややすると、足早に地面を蹴りつける音が聞こえた。
「お兄様!」
剣戟の響きを聞きつけたのか、アーダが走り寄ってきた。そして、ベルトナンを膝の上に抱きかかえた。
「……何と言うことだ……あの鎧……を忘れていたとは」
途切れ途切れの言葉が、ベルトナンから漏れる。
「お兄様、話さないで」
切迫した表情で、アーダはベルトナンに呼びかける。
「ダーク……ダークメイル……奴は……
碧い瞳からは急速に光が失われていき、ベルトナンに闇が訪れた。
「お兄様、お兄様」
アーダは、ベルトナンをありったけの力で抱きしめた。
「うぅわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
絶叫が、新月の夜にアーダから迸った。
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