バニラと一緒

旅のはじまり

1

 新しいスマホを買った。白にほんのり黄色が混ざった優しい色合い。大きさは片手でなんとか持てるくらいのもの。一目ぼれだった。


 さっそく古いスマホからデータを写す。SNSのアプリは知人との連絡に使用しているから、必ず引き継ぎをしないといけない。――あとは何をすればいいんだろう。前に機種変更をしたのは三年前。そのときに何をしたのか、ほとんど忘れてしまった。


 とりあえずwifi設定というのをしておいて、家にいる間はこれを使おう。新しいスマホは、三GBでいくら、という料金設定だ。今までみたいに使いたいだけ使っていたら、どうなるか分からない。




 小学校の時の友人から連絡が着たのは一昨日のことだった。


『今度の日曜日、市街のカフェで会おう』


 私がいないことを知った友人は、それだけ言って電話を切ったらしい。電話をとった母は「なんて失礼な子なの」と怒っていた。


「あんな子と付き合うのはやめなさい。日曜日にきちんと話をしてくるのよ」


 ふーんと聞き流していたら、母はあろうことかその友人に会えと言ってきた。母に怒られながら、私は心の中で、付き合ってなどいないのに、と呟いた。


 その友人は小学校卒業と同時に、親の都合で引っ越している。以来、付き合いが途絶えていたから、突然連絡が着ても困惑するしかない。彼女の名前はかろうじて覚えている程度。顔は思い出せない。会って、何の話をすると言うのか。まさか何かの勧誘とか?


 会いたくなかったが、母の怒り具合を見ると、会わないわけにはいかなかった。


 電車に揺られること一時間。まもなく、市街地に到着する予定だった。


 昨日は夜遅くまで、新しいスマホを弄っていた。もう少し寝ていたかったが、私は目を開けた。


「あれ?」


 不思議な光景が見えた。


 私はもう一度目をつむってから、ゆっくりと目を開けた。


 数秒前に見た光景が目の前に広がった。


 青い海と白い砂浜。


 いつのまにか電車は海岸沿いを走っていた。市街地は内陸部にある。市街地行きの電車に乗ったはずだから、電車が海岸沿いを走っているのはおかしい。私は首をかしげた。他にも、おかしいことがあった。いつのまにか私以外の乗客がいなくなっていたのだ。休日のお昼に一人も電車にいないということがあるのだろうか。


 電車が次の駅に停車すると、私は慌てて下車した。慣れない潮の臭いに顔をしかめる。


 そこは小さな無人駅だった。古ぼけたベンチが一つ、ホームに設置してある。壁に掲示してある時刻表は風化して、文字が読めなくなっていた。さらに上を見ると、ずっと昔から時を刻んでいる様子のない時計があった。


 前の利用者がここに来たのはいつだろう。数時間前? 数日前? それとももっと前?


 頭の中で路線図を思い浮かべるが、思い当たる駅が無い。


 慌てて電車から降りなければよかった。こんなところに一人でいたらおかしくなってしまいそうだ。


 誰かに連絡を取ろうとスマホを取り出すと、圏外を表示していた。GPSで現在地を調べようとしても、エラーが出るだけだった。


 私は誰もいない改札を素通りした。電子マネーをかざす端末が無かったからだ。決して無賃乗車をするつもりだったのではない。


 駅を出ると、すぐそこが海だった。柔らかな砂浜にスニーカーが沈む。誰の足跡もないきれいな砂浜だった。目の前には穏やかな海が広がっている。遠くには緑豊かな山がある。山のふもとに小さく灯台らしきものも見えた。


 ここはどこだろう。そして、その答えを教えてくれる人はどこにいるんだろう。


 確認できる人工物は駅と灯台らしいものだけ。舗装された道路はない。それどころか、道らしき跡もない。ここでじっとしていたら迎えは来るのだろうか。

 分からない。答えを教えてくれる人はここにはいない。


 しばらく砂浜に座って、波が押し寄せるのをじっと見ていた。太陽の熱が肌を刺激するのが分かる。波の音が聞こえるのに静かだと思った。海鳥が空を優雅に飛んでいるだけで、他に生き物の気配がしない。


 私は立ち上がった。このままじっとしていても、しょうがない。手掛かりを探して、もう一つの人工物――灯台を目指すことにした。


 足を踏み出すと、またスニーカーが沈む。


 足が痛い。砂浜という慣れない場所を歩いたせいだ。


 苦労しながら一時間以上歩くと、山のふもとにある灯台に辿り着いた。駅からは分からなかったが、灯台の近くにはプレハブ小屋があった。扉に触れると、鍵はかかっていなかった。


「誰かいませんか」


 私はプレハブの中を覗いた。


「おや、珍しいこと」


 反応はすぐにあった。


「疲れただろう。そこに突っ立てないで中に入りなさい。あんたのことは知らないけど、あんた達のことならよく知っている。話をしようじゃないか」


 老婆は書き物をしているようだったが、作業を中断して立ちあがった。


 私はおそるおそる中に入った。それから、老婆に促されて小さな椅子に腰をかけた。


 老婆は以外にも柔和な顔をしていた。


「私達のことをよく知っているって、どういうことですか?」

「私は長年、この灯台を守っていてね。あんたと同じ境遇の人間を迎えては見送ってきた。どうして同じ境遇だと分かるか、不思議そうな顔をしているね。あんたはあの駅で降りたんだろう。あの駅は入口だ。皆、あそこからやってきて、この灯台に導かれる。そして、私の話を聞き、旅立っていくのさ」

「帰るじゃなくて、旅立つですか?」

「旅立つ、だよ。あんた達は何かの拍子にここに迷い込んだ。気付いているか。ここはあんたの住んでいた世界とは違う」


 老婆が飲み物をテーブルの上に置いた。


「あの駅から電車に乗れば元の世界に帰れる。……が、それで終わりじゃない。何かきっかけがあったはずだ。あんた達がそのきっかけを見つけ解決しない限り、一度元の世界に戻っても、何度も異世界に迷い込んでしまう」

「ここに何度も来るようになるってことですか?」


 老婆は首を横に振った。


「そうだとも言えるし、そうじゃないとも言える。異世界と言うのはいくつもあってね。こことは違う世界がたくさんある。人によって、同じ世界に一度しか迷い込まない場合もあれば、何度も迷い込んでしまう場合もあるらしい。迷い込む世界も人によって違う。あんたはこうなったきっかけについて、思い当たることはあるかい? 最近、あんたの身近で変化があったはずだ」

「きっかけなんてそんなの……」


 言いかけて、最近の変化を思い出した。一つはスマホを変えたこと。バッテリーのもちが悪くなったから、新しい機種に変えた。もう一つは小学生時代の友人から、突然連絡があったことだ。その友人とは今日会うことになっていた。


 私は老婆に二つの変化について伝えた。


「スマホというのはその機械のことだね。そうすると、友人というのが怪しいね」


 スマホを取り出すと、老婆はしげしげと眺めた。


「解決って、本人に会うってことですか?」

「それは分からない。解決方法は、いくつもの世界を旅していくうちに自然と分かるものだと聞くからね」


 私は手元のスマホに視線を落とした。


 小学校のときは携帯電話なんて持っていなかったから、当時引っ越した人の連絡先なんて知らない。そんな相手がきっかけになるってなんだ。私は顔を知らない友人を恨んだ。


「せいぜい旅を楽しむことだ。大概の異世界には迷い人の話が浸透している。そう苦労はしないはずだ」

「でも……」

「もう旅は始まっている。前に進むしかないんだよ」


 老婆が私の言葉にかぶせるように言った。


「それしか方法が無いんですね。旅を一人でするなんて嫌だけど、やらなくちゃいけないんですよね」

「ああ、そうさ。最後に大事な話をしよう。迷い込んだ先では、帰る手段を見つける必要がある。何かヒントがあるはずだから、それをもとに探せばいい。例えばこの世界の帰る手段は、来た時と同じように電車に乗ることだ。もう少ししてからここを出ていけば、ちょうど電車が来るはずだよ」

「お婆さんは電車に乗ったことがあるんですか?」


 私が聞くと、老婆は笑った。


「さあ、どうだろうね。私はこの灯台を守るのが仕事だからね」


 それから私は老婆に食事を御馳走になって、駅に向かった。


 老婆は最後にこう言っていた。


「その機械を大切にするといい。このタイミングで身近に現れたということは、何かの縁があったということだ。それはきっと、あんたの旅の相棒になる」


 駅のベンチで電車を待ちながら、新しいスマホを見た。白にほんのり黄色が混ざった優しい色合い。機械だからか、手に持っているとひんやりと冷たい。なんとなく、いつも食べているアイスクリームを思い出した。


 老婆はこのスマホが私の相棒になると言っていた。


 だったら――。


 少し考えてから、スマホにバニラと名前をつけた。先のことがどうなるか分からないけど、私はこの相棒とうまく付き合っていくしかない。


「今日からよろしくね」


 私はスマホの丸みのあるボディを撫でた。

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