愛しの少女人形

乙姫式

人形の名前

 その人形は少女の姿をしていた。


 旅行用のスーツケースほどの大きさがあるドールケースの中に、足を折り、膝を抱えた姿勢で横たわっている。


 薄いネグリジェのような衣服を身に纏った人形は、どう見ても人間の少女にしか見えない。

 外見の年齢は、人間で言えば十才前後だろうか。瞼の閉じられた横顔は、あどけなさを残しつつも女性としての色香を獲得しつつあるように思われ、さながら綻び始めた花のつぼみを連想させる。


 私は、少し緊張しながら、人形の髪に触れた。

 絹糸のような銀髪、サラサラとした質感で、一房をすくい上げると、流水をすくったかのように流れ落ちる。そのとき、ふと樟脳のような香りがした。


 美しい銀糸を掴み損ねた手で、今度は人形の頬に触れる。

 柔らかい。そして、ほのかに暖かい。おそらく、人肌の温もり。

 僅かに力を込めると、頬肉の向こうにある小さな歯の硬さを感じ取れた。

 人工物とは思えないほどに、人間の質感、構造が再現されている。


 ――これは、本当に人形なのだろうか?


 私のうちに生じた微かな疑念は、しかし、すぐに晴れる。

 指先で頬をなぞり、まさに桜の花弁のようなピンク色の唇に触れたとき、それに気づいた。

 呼吸をしていない。体は生きているかのように温もりを保っているのに。


 眠る少女にしか見えないそれは、やはり人形なのだった。



     ◆ ◆ ◆



 自宅に人形が届けられたのは、ある日の昼下がりのことであった。


 届けられる日時は事前に通達されたとおりだったが、まさかごく普通の宅配便と変わらないような形で届けられるとは思ってもみなかった。

 巨大なドールケースを玄関まで運び入れてくれた宅配屋の男性は慣れた様子だったが、それを私一人でリビングまで運ぶのには相当難儀した。頼めば手伝ってくれたかもしれない。


 人形本体に先立って届けられていた鍵を使い、ドールケースを開けると、中に収められていたのは少女の姿をした人形と、一枚のプリント用紙。それには小さな文字で『取扱説明書』と書かれていた。たった一ページの取扱説明書だ。


 私は、しばらくの間、人形を眺めたり、人形の髪や肌に触れていた。

 軽く呆然としていたというか、夢見心地のような気分で、ようやく取扱説明書に目を通したときには、ドールケースを開けてから三十分ほどが経過していた。


 取扱説明書は、このような一文から書き出されている。



『このたびは、本製品をお買い上げいただき、まことにありがとうございます。

 本製品は家庭向け愛玩用人形(少女型)となっております』



 極めて簡単な挨拶文から始まり、初期起動の手順や、人形の特徴、使用上の注意などが、やはり極めて簡単に記されている。



『初期起動について。

 出荷時の本製品はスタンバイ状態となっております。本製品を箱からお出しいただいてから、本製品の耳元で「起きろ」などと覚醒を促す命令を発していただければ、それで初期起動は完了します。

 注意!

 ご購入時にご登録いただいた「ご主人様」の声でなければ起動いたしません』


『本製品の特徴について。

 出荷時の本製品は自律する上で最低限の知識と能力しか保持しておりません。感情表現なども乏しく、機械的に感じられる場合がございます。

 必要に応じて、ご購入者様(ご主人様)のほうから、教育的指導などを行っていただくようお願いいたします。また、そのほかに様々な経験を積むことによって、本製品の疑似人格が成長(変化)いたします』


『使用上の注意。

 本製品に強い衝撃を加えるなどすると、損傷し、その部分から疑似血液が流れ出る場合がございます。放置しておくと故障の原因となりますので、人間用の絆創膏などで流出を止めてください。時間をおくと、損傷部位は自然に回復いたします。

 本製品は人体の構造や機能を精密に再現しておりますが、病気に罹ることはございません。また、食事を摂ることは可能ですが、その後の排泄や、肉体構造の変化(成長や肥満など)は再現されておりません。ご了承ください。

 本製品は疑似体液の分泌などの機能によって性行為が可能となっておりますが、妊娠や出産、月経などの機能は再現されておりません。ご了承ください』



 ここまで読んだところで、最後の一文が気になった。


 性行為が可能とあるが、人形相手に劣情を抱く人間などいるのだろうか?


 今まさに私の前にある人形は、確かに人間の少女そのものだ。肌は柔らかく、温もりを持ち、旧時代の人形に見られるような、間接部などの非人間的構造部の露出も一切ない。


 だが、それでも人形は人形だ。人間とは違う。

 少なくとも私は、人形を性欲の対象として見ることはできない。


 例えるなら、それは動物の猫を性欲の対象にしないのと同じことだ。

 猫は可愛い。顔の造形に、丸みを帯びた体、小悪魔めいた気まぐれな仕草、どれをとっても猫は可愛い。だから、思わず撫でたくなる。構ってやりたくなる。そうやって、もっと可愛い姿を見たくなる。

 しかし、その果てに「猫と性交したい」と思う人間はいない。

 もしかしたら、広い世界のどこかには猫と性交したいと願ってやまぬ人間がいるかもしれないが、少なくとも私は違う。


 注意書きの下には、サービスセンターとメンテナンスセンターの電話番号と受付時間、それから人形を廃棄する際に連絡する機関の連絡先などが書かれていた。


 私はペラ紙一枚の取扱説明書をテーブルの上に置き、人形が横たわるドールケースの中に両腕を差し入れた。

 左腕を人形の膝の裏、右腕を人形の背中に添え、そのまま抱き上げる。


 ――意外と軽い。


 リビングまで運ぶ際に感じたかなりの重量は、ほとんどがドールケースの重さだったようだ。


 眠り姫のように瞼を閉じた人形を、ソファに座らせる。


 ふぅ、と息を吐き、人形を眺める。


 改めて、とても愛らしい人形だと感じた。ネットでの注文だったので多少の不安はあったが、画像で見た印象よりもずっと可愛らしく、魅力的だ。

 人形なのだから当然とも言えるが、これほどに愛らしい人間の少女を、私は見たことがない。このような人形とともに過ごす日常とは、どれほどに輝かしく充実した日々になるか、想像するだけで胸が躍る。

 もっとも、ネットで見た購入者のレビューによると、起動してからしばらくは人間のように自然な表情を浮かべてくれることはなく、人形というよりロボットのように感じられるらしい。

 まあ、それならそれで、人形の変化を楽しめると思えば悪くはない。


 私は、大きな期待と、僅かな緊張を抱きつつ、人形の耳元に口を寄せ、


「……起きて」


 と言った。

 説明書にあったように「起きろ」と命じるのは何故だかためらわれた。


「……………………」


 人形が、僅かに身動ぎした。

 それから、ゆっくりと瞼が開く。

 人形の円らな瞳は、赤に近い茶色をしていた。


「……あ…………」


 人形が目をパチパチさせながら、囁くような声を出した。


 自分の体が正常に動くことを確認するかのように、両腕を上げ、手の指を動かし、足を伸ばして、足の指をグッと広げる。

 なんらかの確認作業を終えたらしい人形は、ソファの上で居住まいを正した。


 そして、目の前にいる私を見つめながら、


「……おはようございます。ご主人様」


 と言った。


 その声に。ガラス製の風鈴を連想させるような透き通った声に。


 私は、しばし、感動して言葉を失った。

 まるで、本物の少女のように動き出した人形の代わりに、自分こそが人形になってしまったみたいに。


 たっぷりと、数十秒、時間をおいて、ようやく私は言葉を絞り出す。


「……おはよう」


 あまりの興奮に、私の声は少しうわずっていた。


 まるで子供のような自分の有様に、誤魔化すつもりか、ほとんど無意識に右手を伸ばし、私は人形の頭を撫でた。

 そんな私を、人形はじっと見つめている。

 しばし、銀髪のなめらかな感触を楽しみつつ、興奮が落ち着くのを待ち、私は右手を人形の頭から離した。その間、やはり人形は無表情で私を見つめていた。


「さて、それじゃあ、まずは……」


 ――まずは、何をすればいいんだ?


 挨拶は済ませたのだから、次は自己紹介だろうか。

 いや、人形の『ご主人様』になる私の名前などの情報は、出荷時の時点で入力されていると、メーカーのホームページにある「よくある質問」に書かれていた。


 そこまで考えたところで、はたと思いつく。


 ――名前だ。私の名前ではなく、人形の。


 人形に名前を与えることが、私が『ご主人様』として最初にするべきことだ。


「まずは君の名前を決めないとね」

「……はい」


 私の言っていることを理解しているのか、人形はそう答えて頷いた。


「名前か、名前……うーん……」


 ソファにお行儀よく座っている人形を眺めながら、私は考える。


 銀髪や赤い瞳などの外見的特徴から名前を考えるべきだろうか?

 しかし、それでは黒い犬に『クロ』と名付けるようなものだ。安直である。

 だからと言って、あまり人間っぽい名前をつけるのもよくない気がする。人形は人間に似てはいるが、人間にはなれない。できれば、人形であるということがすぐにわかるような名前がいい。


 人形……ドール……マリオネット……。


「……リオネ」


 思いつきを、口にする。

 発声を確認するように、同じ言葉を何度も繰り返し呟く。


「リオネ……うん。いいんじゃないか、リオネ。うん」


 九官鳥に『キューちゃん』と名付けるのとそう変わらないレベルのネーミングセンスだが、人形であることがわかりやすいし、音もいい。語呂も悪くない。

 確信を得た私は、腰を落として、人形に目線の高さを合わせた。


「君の名前は、リオネだ」

「リオネ……」


 私の発音を真似るように、ぎこちなく繰り返したあと、


「……わかりました。私の名前は、リオネです」


 人形――リオネは、はっきりとした口調で、そう言った。


 特に感動した様子もないリオネの頭を、また私は撫でた。なんとなく、撫でたくなってしまう。

 リオネは相変わらず無表情で無反応だが、これから様々な経験を積んで疑似人格が成熟していけば、何かしら反応を示してくれるようになるはずだ。


 ひとしきり撫で回したのち、私は立ち上がって壁の時計を見た。

 時刻は午後二時。

 まだ昼間ではあるが、暗くなる前にやるべきことを済ませておきたい。


「とりあえず……服を買いに行かないと」


 言うまでもないことだが、私は少女に似合う服など一着も持っていない。事前に用意しておくべきだったかもしれないが、どんな物が似合うのかわからなかったので、躊躇っていたのである。


 人形には、洗い替え用も含む衣服が三着と、まさに『お人形さん』という感じのエナメルの靴が一足だけ付属している。

 衣服のほうは、三着とも、今リオネが着ているネグリジェのようなもので、いくら人形に着せる服と言っても、外出着として使うには心許ない。靴のほうも、もう少し歩きやすい靴を用意してあげたい。


 幸いなことに、私の家から歩いて数分という距離に、人形専門のファッション・ブランド店がある。そこなら一通り揃えることができるだろう。


「けど、その前に……」


 じっと私を見つめるリオネの首元に顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。

 やはり、樟脳のような独特な香りがする。防腐剤か、防虫剤か、いずれ何かの薬品の匂いだろう。悪臭ではないが、この匂いを纏わせたままリオネを外に連れて行くのはためらわれた。


 私自身は、リオネの体から樟脳の香りがしても別に構わない。

 ただ、他人にリオネのことを「変な匂いのする人形だ」と思われたくない。

 こんなにも愛らしいリオネに、些細な悪評であっても傷をつけたくはない。


「リオネ」

「はい」


 私が呼びかけると、リオネは素直に返事をした。


「このあと出かけようと思うんだけど、その前に、一緒にシャワーを浴びよう」


 取扱説明書には、自律する上で最低限の知識はある、と書かれていたが、やはり最初のうちは一人で何かさせるのには不安がある。しばらくの間は、私がそばについていたほうがいいだろう。


「シャワーって、わかるかな?」

「はい。体を洗浄する際に使われる器具です」


 私の質問に、リオネは、辞書に書かれている文章をそのまま読みました、という感じの答えを返した。


「うん。そのシャワーでリオネの髪と体を洗うから、それから出かけよう」

「はい。わかりました。ご主人様」


 こくん、と可愛らしく頷くリオネ。

 私は彼女の小さな手を取り、一緒に風呂場へと向かった。

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