俺の友達、私の知り合い。

睦月山

第1話夏のおわり

 カキンッと慣れ親しんだ音が鳴り、青い空に白球が舞った。

 俺は帽子の唾を上げ、それを視線で追う。走るべきなのかもしれないが、足は動かなかった。囗の中はからからで、じっとりと嫌な汗が体中から滲み出ていた。ボールは一瞬、太陽と重なりそして降下を始める。

 段々と地面に近づいていく。重力加速度九,八メートルパーセコンド。そんなどうでもいいことが頭に浮かんだ。

 永遠にも思えた時間は――ミットにボールが収まったことで終わりを告げる。

 相手側の観客席からどっと歓声が沸いた。俺はバッターボックスに一人で立っていた。

 センター、一二〇メートル。両翼、九十ニメートル。マウンドまで十八,四四メートル。それらが全て遠ざかっていくような心地がした。逃げるように見上げると、ずらりと並んだ観客席が青空を切り取っていた。

 ベースを踏む足裏の感覚。

 風に舞う砂埃。

 ミットに受けるボールの衝撃。

 あらゆるものが走馬灯のように思い起こされた。

 俺の高校生活のすべてが終わった。十八歳の夏が早くも終わってしまったのだ。




 ◇◇◇


「大樹くん」


 掛けられた声に、しかし俺は振り向かなかった。


「だ、大樹くん」


 ずんずんと構わず、進む。


「大樹くん、戻らないの?」

「うっせーな。つーか名前で呼ぶなっつってんだろ」


 タタタッとコンクリートを革靴が叩いて、俺の横で止まった。ジャージの裾をぐっと掴まれて、ようやく俺は足を止めた。


「何だよ、白石」

「な、何だよって言われても」


 マネージャーの白石はおどおどと視線を彷徨わせ、結局俯いてしまった。


「みんなで学校に戻るんじゃないの。監督、怒ってる」

「いいよ、俺は自分で帰るから。頭冷やさせて下さいって言っといてくれ」


 バックを肩に掛けなおし、「じゃあな」と言ってまた俺は歩き出した。白石は暫し立ち止まり、またあたふたとしていた様だが、結局俺の後についてくる。


「おい、ついて来んなよ」


 俺は白石を睨み付けた。白石は竦み上がるが、足は止めない。


「家、近いんだし、いいよね」

「監督……」

「携帯で連絡しとくから、ね。だい、竹内くん」


 また名前を呼びそうになったのを白石はすんでのところで留まった。

 白石はいつもおどおどキョドキョドしているくせに、時に我慢強く、頑固な奴だ。もう小学校から十年近くの付き合いになるのだからそれくらい知っていた。

 俺が結局諦めて、二人で近くのバス停まで歩く。夏の明るい夕暮れは余った体力を容赦なく奪っていった。会話はなく、足音がやけに鮮明に聞こえた。これは不自然なことでも何でも無い。というか今まで二人でいて会話が弾んだことなど一度もない。だから、これは普通だ。


「ねえ」

「何だよ」

「何で中村くんを怒ったの?」


 ちっ、と思わず舌打ちをした。


「舌打ち、嫌い」

「お前の好き嫌いなんて知るか。誰が言ってたんだよ」

「中村くん」


 本人かよ。調子に乗ってる坊主頭を本気で殴りたくなった。


「ねえ」

「うぜえ。どうでもいいだろ」


 俺は足を速めた。


「よ、良くないよ。竹内くんは理由もなく怒らないもの。……いじめたりするけど」


 最後の言葉は俺への当てつけだろうか。白石は唇を噛み、それきり黙り込んでしまった。先ほどとは違う嫌な沈黙に俺は責められているような気がした。


「あいつが良かったなって」


 だから、つい口を開いてしまった。


「……何が?」

「『これくらいで負けといてさ良かったな』って。そう言ったんだよ」


 思い出すと沸々と怒りが沸き戻ってきた。


『オレら高三じゃん。さすがに八月まで伸ばされたら受験とか色々大変だしさー、これぐらいで負けといて良かったなー、な?』


 今までだって苛立ちを抱くことは何度もあった。そもそも中村とはあまり反りが合わなかったのだ。小柄だが、俊足を活かして高二の時点でスタメン入りした嫉妬もあったし、練習に時々手を抜いていたのも気に食わなかった。

 しかし、それも石に躓いたり、小骨が喉に刺さったりするようなもので意外とすぐに忘れたりできるものだった。

 だけれども、今回は駄目だった。一人、涙をこらえていた自分が何故か恥ずかしくなった。へらへらしている中村にこれ以上ない怒りを覚えた。気がついたら声を荒げ、椅子を蹴り、部屋から飛び出していたのだ。


「俺、悪かったかよ」


 高校生最後の夏。十八歳の、たった一度の夏。

 甲子園予選は二回戦で敗退してしまった。俺が打ち上げたライトフライのせいで。

 終わってしまった。


「少し悪かったかな」


 白石はそう言った。こういう時、白石は絶対慰めの言葉を口にしない。女子にはその性格が疎まれているらしいけれど、俺は嫌いじゃなかった。


「中村くん、みんなを励まそうとしてたんだよ。いつもムードメーカーで片橋くんと平田くんが喧嘩した時だってバッテリーが険悪になった時だって取り持ってくれたのは中村くんだったもの」


 そうだったっけ。俺は知らなかった。何となく仲直りしていたものだと思っていた。


「でも今回のは無神経だったと思うよ」

「お前、よく見てるよな。昔からそうだった気がする」


 白石は前髪を爪繰って、「そんなことないよ」と呟く。

 それで話は一段落してしまって、また静けさが満ちる。

 数分歩けばバス停についた。生憎とバスは行ってしまったばかりのようで十分後まで来ないらしい。隣にボロボロの椅子が置いてあったので、ドンっと腰を落ちつけた。


「白石も座れば」

「錆びてるからやだ。スカートに付いちゃう」


 せっかく気付かったのに……うまくいかねえもんだな。

 ふっと気が抜けると静かだと思っていたが、様々な音が耳に入ってくる。車のエンジン音、蝉の声、子どもの話し声。

 急に悔しさと悲しさが湧き上がってくる。隣に白石がいるってのに。慌てて空を見上げる。白い雲が目についた。


「悔しいなあ」


 涙は溢れなかったけれど、代わりに言葉が溢れ落ちた。


「なんかさあ、みんな泣いてねえし、中村は笑ってるし。悔しくて悔しくて仕方ないのって俺だけかよって。みんなで頑張ってきたんだと思ってきたんだぜ。悔しいの、恥ずかしいのって」

「みんな、悔しいよ」


 白石は言った。


「結局竹内くんも泣かなかったじゃん。みんな高校男子だもん。恥ずかしいのかもね」

「そういうの高校男子の前に言うの止めろよな」


 蒸し暑い夏の風が吹いた。

 そうか。みんな悔しかったのか。そのことに少しほっとした。昔から単純で馬鹿で無神経な奴だと言われてきたし、たぶん実際にそうだと思う。だから白石に教えてもらって安心した。

 ふと足元に軽い衝撃がきた。見ると黄色いボールがある。


「お兄ちゃん、それとってー!」


 こんがりと焼けた小学生低学年くらいの少年が手を振っていた。こっちは疲れてんのによ……。よろよろ立ち上がって投げ返した。


「道で遊ぶなよ! 公園行けー!」

「分かってるよー!」


 少年はボールを手に走って行った。足が絡まって転ばないかハラハラする。元気いっぱいを体現したような様子だった。


「悩みなんてないんだろうだよなあ」


 とくに何も考えずにそう呟いた。と、背筋がヒヤリとする。


「それほんとに?」


 声も心なしか低い。これは静かに怒っている。


「悩みがないはずないよね。感情ないとでも思ってるの」


 ちょうどそこでバスが来た。白石はこちらに一瞥もせず、乗り込んでいってしまう。その背は白シャツしかないのに赤いランドセルが見えたような気がした。

 そう。前もこんな風に怒らせてしまったことがあった。あの時はたぶん二年以上、囗をきいてくれなかったっけ。どうしてそうなったのかも、どうやって仲直りしたのかも、朧気だ。

 俺はバスに乗り込みながら、白石の言葉を反芻していた。


『悩みがないはずないよね』


 確かにそうだった、かもしれない。いや、そうだ。

 給食をどうやったら先生にバレずに残せるかを真剣に考えて、終わらない宿題に泣きたくなったりした。本気に友達に『死んじゃえ!』と叫んだこともあるし、言われて傷ついた言葉も覚えていて、それから本気でどうしたら仲直りできるか考えたりもした。ドッチボールに負けて悔しくて負け惜しみを言ったり、ズルがバレて女子にねちねち言われて苛立ったりした。同じ物を何回も忘れて自分は馬鹿じゃないかと悩んだこともあったっけ。友達が引っ越してしまった時は心にぽっかり穴が空いたし、母ちゃんが病気した時は本当に怖くて、不安になったのだ。

 あの時にたぶん『悩みないだろうな』なんて言われたら本気で怒っただろう。馬鹿にすんなって思う。俺たちだって色々考えてんだ。大人の尺度で勝手で決めつけんじゃねえよって思う。

 それなのに高校生の時点であの思いを忘れてしまうのだ。大人ってこうやってなっていっちまうものなのか。


「悪かったな」


 バスのエンジン音で聞こえないかもしれないとも思ったが、俺は白石に謝った。幸いにも俺の声は届いたらしく、白石は居心地悪そうに小さく身じろぎした。


「別に。わ、私に謝ることじゃないから」


 揺れる車体に足を踏ん張る。


「……謝ってくれてありがとう」


 あっと思い、白右の方へ顔を向けた。そう、二年近く続いた冷戦に決着がついた日。その時も確か白石はそう言ってはにかんだ。

 隣の白石の横顔が幼い過去のものにふっと重なった。

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