不具合 #007
九月十六日。
本日は敬老の日という事もあるのでしょう。この六畳ワンルームに一風変わったお客様がいらしております次第です。
「これが、みぬふぇー、っちゅうもんかい」
「おばあちゃん、ミルフィーユ、ね」
「みゆふぃーる?」
「ミルフィーユ」
「mille-feuille」
「うわ」
たったった、と笑うおばあちゃん。
「ちょっとからかっただけやが。あぁ美味しそうだねぇ、いただくよ」
「麦茶でごめんね」
「十分やがの」
幼子の頃から、女性とお年寄りには優しくしろと躾けられております手前、おばあさまが誰であろうが関係無いのであります。教育の良さがここに浮き彫りになってしまい大変おこがましい気持ちで一杯ではありますが、粗相無きようただただ一所に心を配る次第にございます。
「ところでおばあちゃん、名前を聞いてなかったね」
「カサネや」
「カサネばあちゃん」
艶やかにさえ見える混じりけのない白髪を首元で一点に束ねてだんごを作ってある。目は開いているのかどこを見ているのかわからない一本線。決して豪華ではないが質素にも見えない整った藍海松茶色の着物をぴしっと着こなしている。言葉は悪いが小さな置物のようなおばあちゃんにおあつらえのヒゲ付き赤座布団――こんなもの我が家にあるはずがないので持参という事になるのだが――に正座したまま似つかわしくない銀色のフォークを手に取るや否や、あの食べにくさ全開で有名なミルフィーユをサックリと断ったかと思えば器用に一口サイズ分だけを乗せ、欠片もこぼすこと無く口へと運んだ。
「おいしいねぇ、おいしいねぇ、あんたもそう思うやろ?」
金欠故に一つしか買えませんでしたので、賞味出来ておりませぬ。
「なんじゃえ、一つしか無いんか。したらの……」
えー、待って待って、流石にストライクゾーンが広すぎて秩序バッターが法審判ぶん殴っちゃって大乱闘なんて事は往々にしてあり得る事ですけれども、それでもこの年齢差であーん、とかは無いんじゃない!? 自分、おばあちゃん子ってわけでもないですし、そういう問題でもないですし。もっと言うとこちらが用意した物の一部を施しとして受けるってどうよ。とか思いつつ、飲んだ生唾が勝手に口をあけさせてしまった。
「有り難くいただくとしようね」
二口目も器用なフォーク捌きでシワで尖った口に放り込んだ。
「おまえさん、なーにしとるが? ぽかーと口さ開けなって」
たったった。
それにしても、
……全然関係ない事考えていないと、さっきの恥ずかしさが喉元を通らんのです。ミルフィーユも。嗚呼。
カサネばあちゃん。言わずもがな血族ではなく、突如現れるなり「みぬふぇーや、っちゅうもんを食べてみたいんや」とのたまったところから、
「ねぇ、カサネばあちゃん」
「なんやの」
「単刀直入に聞くんだけど、ばあちゃんはバグなの?」
「のくてえ事言いなや。あたしが虫に見えるんかってえ」
の、のく……?
「のく、あ、いや、ごめん、バグっていうのは虫じゃなくて」
――英語にも長けてんのかな。なんかすごいな――
「え、と。どうしようかな。どう聞いたら良いか難しんだけど」
「思ったことまーんま言うたらええが」
それだと最初に戻っちゃうんだわ。
「……えーと、ばあちゃん、何処から来たの?」
「……」
カサネばあちゃんは暫くこちらを見続けて、こくり、と麦茶を一口飲んだ。細い細い目が少しだけ開く。
「いきなしあたしが此処におってもあんま驚かんっちゅー事は、一回や二回じゃなさそうやのお」
「ま、まぁね!」
「なーん得意げな、自慢する事かいや」
確かに自慢にならないけど、踏んだ場数の異質さには評価いただいてもいいんじゃないでしょうか!? じ、実はさ、目の前に
「バグっちゅーんか、あたしらの事ば。不具合じゃないんけの」
「どっちでも呼ぶかな。そう聞いたほうが良かったかー、ごめんごめん」
「ええんよ」
「じゃあ、ばあちゃんは
「ほや」
脊索動物門尾索動物亜門ホヤ綱に属する海産動物の総称。餌を含む海水の入り口である入水孔と出口である出水孔を持ち、体は
ジョークだ、たったった。
カサネばあちゃんが
だからこそ脂汗がじっとりと頭の生え際にへばりつく。見に覚えのない問題がどこかで猛威を振るっていて、それを知りつつも解らないという状況は、プログラムのそれではない他の何に置き換えたって怖い。見えるのに掴めない、あるのに無い。元通りになる保証の無い人体切断マジックの実験台になるなんてのは空想の世界だけで十分だ。
今までいただいては納品してきたデータをざくざくっと見直してみたり、本題と建前が逆な事は伏せつつも、何かお仕事ありましたらばーと贔屓にしてくださるクライアント様に電話したついでに何かバグレポートが来ていないか伺ってみたりするも、こういう時に限って何も無いどころか、しっかり動作していますいつもありがとうございますー! なんてご機嫌なお返事をいただくのである。こちとら真・建前を快く応対してくださった事に加えて、真・本音の解決の糸口が見つからない事から、ただただたじろぐしかなかったというか、それがどちらの結果の反応としても成立しているあたりがもうね。"5分8秒"。
上手く行かなくていい事は上手く行き過ぎても、上手く行って欲しい事がそうなる事はなかなかないもんだ。
「なんや、わからんまんまけ」
「うーん、お手上げ」
「ほうかあ。なら、これ食べて少しゆっくりしねの」
とん、とちゃぶ台に置かれた大きめの白い平皿。測ったように整った三角形の頂点達が綺麗に並び、白と赤と緑と黄色のストライプが目にも鮮やか。
「これは……さ、サンドイッチ!!!」
「ハイカラやろお」
「ミルフィーユの時点で十分な」
あ、面白くなさそうな顔した。
「これ、食べていい、のですか」
「そのためにつくったんや、はよ食べ食べ」
こんな旨そうな物を前に我慢できるはずもなく飛びつくも、なかなか一つを取ることが出来ない。選べないんだ。冷凍庫に入れられたままどれ程の時間が経ったかわからない食パン、丸かじりしようと思って買っておいたものの結局その意欲は買うまでの一時的なもので気付けば放ったらかしだったトマトときゅうり、漢チャーハンのお供としてしか使役される事の無い運命下にあったはずの卵。過酷な境遇に立たされていたか弱き者達が王宮に養子として迎え入れられ大切に育てられたような気高さが目の前のサンドイッチにはあった。本当にこれはあの冷蔵庫に入っていた食材だけでできたものなのか。
思わず一度低頭し、きゅうりのはさんであるサンドイッチを手に取る。
はんっむ。
「む、ふむおおおおあああ!!!」
「黙って食いい」
「ふぁひ」
なんっじゃこりゃあ! 本当にパンにきゅうりはさんだだけかよこれ!! 斜めに大胆にカットされたきゅうりの真ん中にぽちぽちとマヨネーズらしき白いソースがしつこくない絶妙な量でふわっと口に広がりながら、かぶりついた時に聞こえるパリッという心地良い音。完全にしなびていたはずだろお前どうしたんだみずみずしいにも程があるぞ。パンも中央がうっすらきつね色になるくらいに焼かれている。我が家に"とおすたぁ"なるものなど存在しない。いつもフライパンに乗っけては、個人的には焦げるギリギリまで焼いたバリバリなのが好きなんだけど、歯ざわりだけがパリッとあとはふわふわのこの触感でこその感動だ。それにこの塩気、なんだこれ、いつも使ってる塩とは何かが違うぞ。舌に触れた瞬間突き抜ける辛味がまったく後を引かず、それが逆にパンやきゅうりの甘みをこれでもかと引き立ててくれるから、次が食べたくて仕方なくなる。
「塩加減一つでこんなにも変わるのかよ……うそだろ……」
二口で胃袋へストン。
「すんげえ美味いよばあちゃん。塩気とか、もう最高」
右手は次のトマトサンドに伸び、左手は玉子サンドに伸びているのに気づく。
「ほやろ、自慢の塩やでな」
「ほへ」
こっちはきゅうりサンドと玉子サンドを交互に頬張っている横で、カサネばあちゃんは懐から小瓶を取り出した。
「まいそると」
「バビボブボー!?」
むせた。そして口に物入れたまましゃべるなって怒られた。
え、待ってよ。塩って個人で作れるのかよ、どうやって。海水熱して、みたいな話になるの? どういうことなの?
最後のトマトサンドが口の中でじんわりと甘く広がる。あはは、もう何がどうでもいいや。しかし、二個買ったうちの一つは丸かじりで食べたけどこんなに甘くなかったぞ、寧ろ酸っぱくてハズレたちくしょうとか思っていたはずなのに。
ぱくん。
空になった平皿を片手に、たったった、と得意げな顔でカサネばあちゃんは笑った。
「お茶でも淹れようね」
九月といえどもまだまだ暑さの残滓がそこかしこ。まだ居てもいいんですかと場違いを気にしはじめた扇風機が申し訳程度の風を送ってくる。至高のサンドイッチ・カサネソルト仕立てをたいらげ、この陽気なら敬遠しがちな熱いお茶をひとすすり。吸った熱気を体に巡らせ、ゆっくりと吐き出す。
「ばあちゃん、一つだけ聞きたかったことがあるんだけど」
「なんやの」
このまま暫し沈黙を楽しむのもいいかな、と思っていたのだけれど、それ以上にどうしても聞きたかったことがあった。
「結構前なんだけどね、会話の中で、あたし『ら』って言ったんだよね」
「覚えてえん、そんな昔のこと」
「言ったんだって! ばあちゃんは一人じゃなくて、誰かと暮らしてたの?」
細い細い目が少しだけ開く。
「じいさんと二人や」
「そっか、一人じゃないんだな。ならよかった」
「今は一人やけどの」
長いようで一瞬の沈黙が六畳ワンルームを覆った。こういう時、どう考えるだろう。言ってはいけない事を言ってしまった、踏み込んではいけない領域に足を入れてしまった……考える事は様々でも、辿り着く答えは大体"申し訳ないことをした"になる、ように思える。それに対して、自分は無神経なのだろうかと思うことはしばしばあるけれど、その申し訳無さこそが逆に相手への非礼に繋がりかねない申し訳ない感情なんじゃないのかと思っている。死別という事象は決して禁忌なんかじゃない。もちろん当人が語りたくない場合は除くけれど、人の、家族の、愛するものの死は、その生前をひっくるめた今を語らう方が自分は好きだ。若造の思い描きだけで発する俺語りではなく、そうした経験を経てびゃーびゃー泣いて落ち込んで、暫くしてからゆっくり考えなおして辿り着いた所で描いた絵の話です。
「じいちゃん、どんな人? つーか早く帰らなきゃならんよなぁ、まいったな、もっかい調べてみるわ」
たったったったった。
「あんた、優しいのお」
「え、なに急に、何が?」
「やけどモテんやろ」
唐突で無茶苦茶な一撃は、的確にこの身の図星を全て貫いた。
「か、返す言葉もないわ……別に優しくもねーしな、はははははは」
泣いてません。
「いんや、それでええ、そのままでええ。男は不器用なんがちょうどええ」
ガラスのコップをゆらゆらさせながら、カサネばあちゃんは笑う。その手に合うような湯呑みの一つでも持っていたら良かったな。
「ほやのお、仕事しかせんような人やった」
「なんの仕事してたの」
「ちーさな写真屋やあ」
「へー、写真屋! なんかいいなー!」
勝手に木造一軒家の一部を改造して写真屋を開くカサネばあちゃん達の姿を想像した。人聞きは悪いが、決して人で溢れかえるような所じゃなくってさ……
「ん? って事はお客がいたって事だよね。ばあちゃんの居たとこには沢山人がいるのか」
人……でいいよな。人だもんな、うん。
「注文もろたら現像して送るだけやけどの。客ちゅーても会ったこともなきゃ、風景写真の現像だけなら顔もしらんてな」
「あー、なるほどね」
これまでのバグ達との会話を思い出していた。今でこそ当たり前になったネット販売の類が別次元で確立と浸透した世界で、相手という存在がどうこうではなく概念を疑わない、みたいな所がそっちの日常だとか何とか。相変わらずよくわからんが、ここで言うメール注文みたいなものだろう。
「空の色がようけ綺麗に出たわー、とか、トマトが美味しそうな赤色になったわー、とか言ってなあ、二人でやっとったんや」
「ばあちゃんも現像できるのか、凄いな、全然知らない世界だからさあ」
「ほやけど、歳は取りたくねえのお、最近はむつかしー方法がいっけー増えて、なーんも上手い事いかんくなってもうての。じいさんに任せて、掃除とか昼寝しとったわ」
たったった、は聞けなかった。
どうしてだろう、こんなにも共感出来てしまうのは。こちとら写真の現像はおろか印刷すらまともにした事無いんだけど。デジカメとプリンタなら持っているんだけどね。ふふふ、ふふ、覚えておくが良い。粗大ごみの日イズ宝庫。まさか壊れたデジカメまで付いてくるとは思わなかったけど、故障しているのはファインダーであって本体ではなく、使おうと思えば使えるのだ。まあ、それも含めて完全に持ち腐れてると言いますか、現像するものがないというか、あっても適当にシャッター押したこのベランダからの景色の一枚が、なんとなくいいなとか思っちゃって加工とか印刷とかしてみようって思ってたやつくらいで……
「あ」
待て、流石に無いわ! 無い無い無い!! だってこれは自分で作ったプログラムじゃないもんね!!! 誰に言い訳をしているか解らないまま机に座った。待機状態から復帰したモニタ上で矢印をあちこちに動かし、一つのイメージデータを表示した。 これまで一度も使ったことなんて無かったフリーのレタッチソフト、無論使い方なんてわかるはずもないが、それでも、フィルタと呼ばれる自動で加工してくれる機能が豊富で、一つ一つを選ぶだけでもセピア調になったりモノクロになったり、なんかよくわからなくなったり原型留めていなくなったりするのがなかなかに面白くて、これを使ってあの写真をいい感じにしてみたいと思った残滓が、このデータ。
後で調べて解ったんだけど、初心者がよくやってしまいがちな事の一つに、さっきのフィルタとかレイヤー――簡単に言うと……画用紙、かな――の使いすぎ、というものがあるそうで。当然この仕事用パソコンは英数字の羅列が打てればほぼほぼOKなわけで、性能としてはあまり良くない部類に入るだろう。無論画像処理なんかちょっと頑張ろうものならすぐにフリーズしてしまう。現にしてしまって、開くこともままならなくなったのが、このデータ。
無い無い無いと思えば思う程、これしかない他に考えられないと思えてくる。仕事限定だと思い込んでいたから認めたくなかったが、これもれっきとしたプログラムであり、処理であり、精通した人にはわかるだろうけど、バグ、とは決して言えないにせよ、不具合、という括りには入ってしまいそうなあやふやな状態だ。それを認めてしまった。
「ばあちゃん、多分だけど、帰れるよ。待たせて悪かったね」
返事は無い。そうか。もうか。
えい、とデータを開く。にらめっこも飽きるほど待たされていたはずのデータがすんなりと開いた。青空に赤みが差し込んできた空の写真が画面いっぱいに映し出された。我ながら良く撮れたと感心してしまう見事なグラデーションだ。どうだ、カメラ初心者にはありがちな発言だろう。笑いたきゃ笑え、ちくしょう。待ち時間の間にそんな事を思っていた、全てのフィルタとレイヤーを削除して元の写真に戻すための操作の。こちらは随分と待たされたが見事元通りになった。なった所で気が付いた。写真画像そのものは残っているんだから、それを使えばよかった、と。
「これ、このままでもいいよなぁ」
「それでええ、そのままでええ」
なんだまだ居たのかよ! さっき返事してくんないからてっきりもう!
振り返った部屋には、薄暗くなった部屋の中に白い平皿が一際目に入ってきた。小さなちゃぶ台が丁度よく似合う小柄な人の姿は、ない。
「なんだよ、最後までからかいやがって、ちくしょう」
たったった、と聞こえた気がした。
不具合 #007 修正完了
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