私が壊れていった背景

小笠原寿夫

第1話

 泣いた。

 涙も枯れるほどに。ただ別れが辛かったわけではない。友達がくれたテレフォンカードに、感極まった。

「これで、電話でもしてくれや。」

嬉かった。小学校時代からの連れである。遠い地に行くのに、涙は見せまいと、強がっていた自分が、その一言と、テレフォンカード一枚に泣いた。テレフォンカードの表面には、神戸の空からの風景が、描かれていた。

 就職していく友達。専門学校に通うことが決まっていた友達。夢を叶えて、なりたい職業に就いた友達。

「おぎゃ、泣くなや。」

底抜けに明るい友達は、私を励ました。その励ましに、また泣いた。

 別れ際、父の自家用車の中でも泣いていた。

「喫茶店でも入るか?」

関西国際空港を目指す車は、喫茶店の路 肩に止まった。

「こいつ、今から北大行くねん。」

父は、そう言って、泣きじゃくる私を、喫茶店の店員に話した。

関西国際空港で、大きなボストンバックを預け、

「行くわ。」

と言い残し、私は、搭乗口に向かった。

「風邪引くなよ。」

確か、父は、そんな挨拶をした。

「じゃあな。」

「じゃあ。」

飛行機の気圧を感じながら、隣に座る学生に話しかけられた。

「ちょっと話しませんか?」

ずっと週刊少年ジャンプを読んでいた私に話しかけた学生は、

「ずっとジャンプ読んでるから、気まずかったです。」

と言った。

ひとしきり、話し終えて、隣の学生は、

「敬語やめません?」

と言ってきた。これから、同期になる学生が、敬語でやり取りするのに、また違和感を覚えていたのは、相手も私も一緒だった。

「何学部に入るの?」

「法学部。」

「法学部って卒論いらんらしいな。」

「自分は?」

「理学部。」

「あっ、理系なんや。」

「関西弁喋れるのも、これが最後かもしれんな。」

「確かにな。」

他愛もないやり取りが、続いた。

 新千歳空港で、1,040円の切符を買い、快速えあぽーとに乗り込んだ。快速えあぽーとは、当時、新千歳空港と、札幌駅を結ぶ唯一の地下鉄だった。

「寒っ!」

空港を降りたとき、口々に、学生の本音が、聞かれた。この時点で、学生という薄暗い生活が待っていることを、私は、知る由もなかった。

 札幌駅から、重たいボストンバッグを肩に掛け、徒歩で学生会館という朝夕の食事を提供してくださる寮に入った。学生たちの大荷物が、一階のロビーに、群れを成していた。

「ご苦労様。」

学生会館の管理人さんは、温かく私たちを迎え入れてくださった。

4階のかなり奥の部屋が、私の最初の住処になった。

 狭い。

 これが、第一の印象だった。そして、表に出ると、4月の根雪が残っていた。

「なんか、独房みたいなところやわ。」

電話で、小学校時代からの友達に、電話を入れた。

「まぁ、ええやん。無事に着いてよかったわ。」

やはり、友達は、底抜けに明るかった。

 言葉の壁。まずは、それに、悩まされた。周りは、みんな標準語を喋っている。私は、頑なに関西弁を、閉ざした。そして、心の扉も。

「腐っても北大や。」

「上に立つもんは、嫌われて当然じゃ。」

この二つを、母から教わった。

「明日、オリエンテーションが、あるみたいよ。行ってみれば?」

学生会館の、管理人さんから、それを聞き、札幌市に着いた翌日。私は、訳も判らぬまま、学校に向かった。

 翌朝、買ったばかりの自転車で、オリエンテーションに向かった。

 ただのクラス分けだった。次の朝、入学式があるというので、参加した。

「諸君らの健闘を祈る。」というような、学長の挨拶の後、夜の歓迎祭が待っていた。目の前の舞台に立つ、上級生は、小汚い着物を着て、

「北海道大学5年目4年! 親の仕送りが止まった!」

と叫び、笑いを取っていた。正直、笑えなかった。帰ろうとすら思った。学生会館に戻ったのは、夕暮れを過ぎていた。

 美味しい料理が振舞われた。確か、最初の夕食には、桜餅が、ついていた。

 学生会館の食堂で、黙々と、食事を済ませている間、他の学生たちは、身の上話に花を咲かせていた。私は、インテリが嫌いなので、どうしても馴染めなかった。共同の洗面所で、歯磨きをしていると、隣にいる学生に、私は、声をかけた。

「テレビって、どうやって繋いだ?」

ごく自然に、というよりも、テレビが映らないと、生活できない性分になっていた。だから、自然にというよりも、もっと逼迫していたかもしれない。その学生は、電気屋の場所から、繋ぐプラグのことまで、事細かに、親切に教えてくれた。

 母が、別れの際に、手渡した20万円を、封筒に入れ、棚に置き、父が郵送してくれたテレビデオに線を繋いだ。そして、その晩は、テレビに夢中になりながら、すすり泣いた。

 まずは、アルバイトを探さなければならない。学生たちは皆、一様にアルバイト情報誌を持っていた。何度目かの正直で、私は、モスバーガーに採用が決まった。高校時代に少しだけ経験があったので、それを理由に採用された。

 そのモスバーガーは、夜勤で、主に食器洗浄と、調理器具洗浄が、主とした仕事だった。それから、夜中の3時ごろ、勤務を終え、2階のスタッフルームで、飲み会が行われることが、しきたりになっていた。18歳だった私は、きつい洗礼を浴びた。たらふく飲まされ、昔付き合っていた彼女の名前を先輩の腕に書かされたことまでは、覚えている。

「小笠原くん、昨日すごかったんだから。」

先輩は、そう言って、次の日の出勤で、私がスタッフルームで、吐きまくったことを、告げられた。

「パートのおばさんには、礼言っておきな。カーペットの掃除するの大変だったらしいから。」

まったく覚えていなかった。

 仕事の出来は、悪かった。何せ、手が遅かった。一番下っ端だった私は、よく馬鹿にされた。一年も経たないうちに、学校よりもアルバイトに精を出した。そして、学校の勉強には、皆目、着いていけなくなった。とにかく金に執着していた。そして、仕事を教えてくれる先輩が、ある意味、神様に思えた。

「おぎゃ、どうよ。」

アルバイト先のモスバーガーでは、リーダー格の先輩から、おぎゃというあだ名をつけられ、かわいがっていただいていた。

 ある日、家庭教師のアルバイトを見つけ、

「僕、掛け持ちしようと思うんです。」

と、先輩に持ちかけた。

「やめとけば?」

変に頑固だった私は、そのアルバイトに飛びついた。

 家庭教師のアルバイトでは、落ちこぼれの中学生の男の子を、担当した。私は、高校時代に、がむしゃらに勉強し、大学に滑り込んだ口だから、中学校の問題を教えるのは、あまり得意ではなかった。男の子は、私が、熱く説明する度に、うな垂れた。

 そして、事件は起きた。

「僕、モスバーガー辞めてもいいですか?」

という、先輩に対する相談と時を同じくして、

「家庭教師辞めたいんです。」

という、電話をした。何もかもが、厭になった冬のことである。うつ病だった。それから、電話を切った後、大きな手荷物を持ち、札幌駅に向かった。

「今、札幌駅まで行ってきたんですけど、1,040円がないんです。」

と、学生会館の寮母さんに、話した。

 それからは、話が早かった。うつろな目をして、そう話した私を、心配して、寮母さんは、私を心療内科に連れて行った。

「とりあえず、ご家族に電話しなさい。」

母が、仕事を休んで、飛行機でその日の夕方に、来てくれた。

「あんたとは、意思の疎通ができへん。 」

最初は、頷いて話を聞いていた母も、途中からは、嫌悪感を覚えた様子だった。

「なんか、外国人と話してるみたいやわ。」

私は、一年間の思いを、話したに過ぎないが、そこに話を聞く姿勢は、なかった。遠い地に心配して、来てくれた母を労うをことすらもせずに。孤独と戦った私は、無我夢中で自分のことを話し続けた。

 母と一緒に、札幌駅の地下街を歩いた。

「ここら辺、パン屋さんないねんな。」

母は、そういって、学生会館の寮母さんに、手土産を探していた。

「これからもお世話になります。」

母は、寮母さんに、そう告げて帰っていった。

 それから、実家に電話する回数が多くなった。言っていること言葉に、「妄想」という二文字が、露骨に表れていた。

「一旦、実家に帰った方が、いいかもしれないわね。」

寮母さんは、私にそう告げ、今度は、父を呼んでくれた。朝、調子を崩したのに、その日の夕方には、既に父は、北海道に来てくれていた。

「お父さんが、こんなに早く来てくれるなんて、感動やわ。」

私は、泣きつくように、そう言った。

「当たり前やがな。」

父は、笑った。うつになったことを、周知していた父は、私に絵本を買ってきた。

確か、「きっとよくなるよ」だったと思う。私は、何を思ったのか、

「読んでもいい?」

と聞いて、それを音読し始めた。その夜、小さなベッドで、父は、私を抱きしめて寝たと後に述懐している。

 翌日、私は、父と新千歳空港に向かい、神戸の実家に戻った。療養中に訃報が、入った。

「落語家桂枝雀死去。」

新聞に、大きく取り上げられた。私と同じ病だった。上方落語の火が、ひとつ消えた。

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