君とぼくとの四十年

猫屋梵天堂本舗

君とぼくとの四十年

 その狭い個室には、小さな窓と洗面所、手洗いが備えられている。

 中央には介護用のベッドが、心拍や血圧やさまざまな数値を測定するいくつもの機械たちに守られるように配置され、その横には、付き添い用のパイプ椅子が置かれている。


 取り替えられたばかりの白が眩しいシーツのベッドに、ただ目を閉じて、静かに横たわっているのは、真っ白になった髪を短く刈り込み、色あせたつやのない皮膚に深いしわの刻まれた老女だ。


 彼女は今はまだ自力で息をしているが、いつ必要になってもいいように、ベッドの背中側には酸素マスクと呼吸器が準備されている。

 数時間に一度、看護師がやってきて、彼女の点滴を新しいものに取り替え、一日に何度か、排泄物の溜まったビニール袋を観察してから取り替える。


 彼女はごく扱いやすい患者のようだ。特にこの療養型病棟に置いては。

 療養型と言えば聞こえはいいが、要するに患者が死を迎えるまでの間の面倒を見るのが主な仕事だ。今は、それも三ヶ月や半年で病院を転々としなくてはならない。国の方針として、末期の要介護者の自宅介護を推奨しているせいだ。

 その点では、彼女は運が良かった。時折命に関わる発作を起こすせいで、ずっとこの部屋にいられる。

 家族の一人もいない、ケースワーカーやケアマネージャーが一番頭を抱える種類の、介護できる人間がいない末期患者なのだ。


 彼女は一年前に脳内出血で倒れているところを、長いこと新聞が溜まったままになっていたのを不審に思った配達員から警察に連絡が入り、市営住宅の狭い一室で、既に意識がないことが確認された。

 彼女は救急搬送されたが、脳の半分以上に血液が広がっており、これほど大規模な状態となると、意識の回復は見込めなかった。


 彼女に結婚歴はなく、子供もいなかった。連絡の取れる親族はおらず、ほとんど貯蓄もなく、年金ももらっておらず、医療費の問題で採算の合わない患者だった。

 少し調べると、彼女は三十代で仕事を辞めて要介護となった父親の介護をほぼひとりでつききりでやり、その父の没後は、今度はもともと視覚障害のあった母を老老介護していた。しかし彼女だけを見れば充分働ける状態だったため、年金の免除対象から外されて、年金未納者扱いだった。


 急性期、すなわち命関わる状況が過ぎ去ると、救命病棟は次々に運ばれてくる患者のために常に満床のようなものだから、彼女は行き場を失った。

 いくつかの療養型病院をケースワーカーが当たったが、受け入れる病院はなかった。そもそも、入所に必要な貯金すら彼女には残っていなかった。


 しかし、今にも息を引き取るかもしれない、逆に何年も生きるかもしれない無意識の老人を、自宅に戻すわけにも行かない。

 困り果てていた病院関係者の前に、ひとりの青年が、花束を持って挨拶に来た。


「今まで何のご連絡も取れませんで、たいへん申し訳ありませんでした。私も、祖母が倒れたことどころか、自分の祖母がまだ生きていることすら知らなかったものですから」

 若者の物腰は穏やかで、とても物静かだった。

「私は土井誠と申します。私は、祖母が一人で産んで、育てきれずに里子に出した子供の息子、つまり孫に当たります。もし法的に問題がないのであれば、私が祖母の金銭面での面倒を見たいのですが」

 医療事務担当の部屋に移ってからも、彼の態度は実に自然なものだった。

 応接用の仕切りのついた机に書類の整理させたファイルを並べていく。

「母は川野順子、祖母が川野家に養子に出したのが私の母です。いま、母は結婚して土井順子となっています」

 医療事務担当の人間が、いささか不審げな目で彼を眺めた。

「どのような事情で、そのあたりのことをご存じになりました?」

「インターネットは便利ですね」

 土井護と名乗った若者は、わずかな笑みを浮かべたまま当たり前のように答えた。それから、合板の机に並べられたファイルのいくつかを持ち上げて、必要そうな紙面を数枚、事務担当の人間に見せた。

「そのあたりのことは、弁護士の先生にお願いして一通り書類を揃えてもらいましたが、まだ何か問題があるようでしたら仰って下さい」

「しかし、あなたに一切の扶養義務はありませんし、こう申し上げるのはなんですが、あれほどの脳内出血となると、意識の回復の見込みもほとんどありません」

「知っています。ですから、私が参りました。両親は……特に母は、祖母に顔を会わせたくないようでしたので」

 かすかな笑みを浮かべて、彼は少し伏し目がちに言った。

「私は、どうしても会っておきたかったので」

 病院としては、特に断る理由も無かったのだろう。

 すぐに若者は老婆の病室へと案内され、看護師はプラスチック製の花瓶をベッド脇の窓際に無造作に置くと、一言の挨拶もないまま部屋を出て行った。


 若者はベッド脇のスチール製の粗末な椅子を引き寄せると、そこに軽く腰掛け、点滴の針が刺さっている彼女の手……既に腕や手首には針を刺しすぎて、唯一硬くなっていない血管が浮き出している手の甲にガーゼと針と管のつながった手に、そっと触れた。

 その瞬間、若者の黒目がちの大きな目に、みるみる涙があふれた。

「雪絵さん。ゆきちゃん。こんにちは。ぼくですよ」

 彼はまるで、先ほどまでの……事務処理を整然と行う青年とは別人のように、それでいてその穏やかな雰囲気は残したまま、優しく老女の指先を握った。

「会いにきましたよ。ひさしぶりだけれど、君はあいかわらず綺麗ですね」

 意識のない老婆に向かって、彼は少年が少女に向けるような、無邪気な笑顔を見せた。そしてただ優しく、優しく、その点滴や注射で痣や傷だらけの、やせ細った細い手や手首を撫でた。

「ずっと会いたかった。ごめんなさい、遅くなりました」

 老婆は何の反応もしない。

 彼は自分の頬を伝う涙を拭ってから、持ってきた花束を彼女の顔の近くへと寄せた。

「君の好きな薔薇を買ってきました。君に一番似合う花だから」

 白いバラの花束だった。甘い香りが、病室を満たす薬品の臭いの中でかすかな輝きを感じさせた。

 しかしそれでも、彼女はぴくりとも動かなかった。ただ薄くなった胸が上下しているのを見つめて、少しだけ寂しそうに彼が笑う。

「ぼくのことなんて、忘れてしまいましたか」

 若者は白いバラを安物の花瓶に生けると、彼女のベッドサイドの小さなテーブルに置いて、また元の位置に座った。

「いいんですよ。何もかも忘れてしまっても。魂が半分天国に行こうとしていても、君がまだここにいるうちに会いにきたかったんです」

 大粒の涙が、彼女の手と彼の手の上に、代わる代わる落ちた。

「ぼくはずっと、君と一緒にいたかった。ずっと一緒にいられるって信じていたんですよ」

 若者は泣きながら、その手を伸ばして女の顔にかかった髪を整えた。まるで、いつもそうしているかのような仕草だった。

「苦労をかけました。本当にごめんなさい」

 彼は彼女に顔を近づけ、すっかり血の気の失せた、かろうじて生きているのが分かる呼吸の音を、彼女の声であるかのように聞いていた。

 長い時間。

 それから。

「でも、君が半分だけ、向こうに来たので……ぼくも半分だけ、こっちに戻りましたよ。孫の……君とぼくの孫の体を、少しの間だけ貸してもらえました」

 彼女の頬を両の掌でそっと覆って、涙をこぼしながら、必死に笑おうとした。

「ねえ。何か言って下さい。目を開けて」

 若者は老婆に向かって、優しい声で訴えた。

「身勝手なお願いだけれど。ぼくはもう一度、君が笑っているところが見たいんです」

 それはまるで、長いこと離れていた恋人のように。あるいは、永遠に愛する人に再び会えたかのように。

 そして、奇妙なことに……

 ずっと微動だにしなかった老女の瞼が、かすかに震えた。その目が開くことは無かったが、睫毛が確かに、わずかだが動いた。

 彼は白いバラを一輪取ると、彼女の青ざめた顔のすぐ横に、髪飾りのように置いてから、もう一度その口元に笑みを浮かべた。

「そうですね。そうしましょうか。二人で一緒に行ければ、ゆっくり話せるかもしれません」

 彼は老女の髪や顔を、痩せ衰えた肩を、骨ばかりになった腕を、そっと撫でながら、最後にもう一度、その針の刺さっていない指先を握って呟いた。

「でも、もしこれが、本当に永遠の別れになってしまったら……向こうでは出会えなかったとしたら、ぼくはどうしたらいいのですか」

 若者は不安げに、涙に満ちた瞳で老婆の瞼を見つめながら、指先を握る手に力をこめた。

「ずっと、君だけを思っていました。この四十年、ただずっと」

 その奇妙な告白。

 若者はどう見ても、二十歳かそこらだった。

 しかし、そのときの彼の目は、四十年どころか、二十年どころか、まだあどけない少年のように純粋だった。

「ただ会いたかった。一目でもいいから」

 泣きながら、笑いながら、彼は言った。

「でも、もう二度と離れたくなくってしまいましたよ。ゆきちゃん。君が今でも、とても美して」

 彼女の細い、棒切れのような指に自分の指を絡めて、ガーゼも管も何もないかのように、しっかりと握りしめた。

「分かりました、もうこの手を放したりしません。ぼくはずっと君のそばにいます」

 そのとき。

「あ……あ」

 脳機能のほとんどを血液に侵されてしまっているはずの彼女の唇から、僅かな呼気とともに、声が漏れた。かすかだがはっきりと。

 それは、苦痛やただのうめきではなくて。

「ぼくもです。愛していますよ、心から」

 彼女が笑い返したのを見たのは、きっと彼一人きりだった。


 そして、ずっと彼女を取り巻いていた機械たちが、突如として激しい耳障りな警報音を叫んで、その時の訪れを告げる。

「急変、急変です、先生!」

「ご親族の方は部屋から出て下さい」

 看護師から病室を出るように促され、若者は大人しくそれに従った。

 中では心肺蘇生のためか、テレビドラマで聞き慣れているような薬の名前や、心臓マッサージの音が漏れ聞こえてきたが、きっとそれは形式的なものだったのだろう。

 いつ息を引き取ってもおかしくない老人だ。医師や看護師たちは適切に対処し、冷静に判断を下した。

「ご親族の方、どうぞお入りください」

 看護師に呼ばれて、若者は病室へ入った。

「心肺停止。お孫さんでしたか、よろしいですか」

「はい」

「二千十六年八月七日、午後三時二十七分、進藤雪絵さん、死亡を確認しました。御愁傷様です」

「ありがとうございました、先生方、皆さん」

 若者は深々と頭を垂れて、ちらりと一度、祖母に当たる女性のなきがらを見た。

 しかし彼には分かっていた。彼女はもう、ここにはいない。

「ご遺体の方は、処置が終わりましたら霊安室の方に移させて頂きますが、他にお呼びになりたい方は」

 看護士に訊ねられても、若者は当たり前のように、静かに答えるだけだった。

「お化粧はどうなさいますか」

「そのままで。綺麗な人だったんですね」

 その言葉に、看護師は一瞬はっとしたように息を飲み、こんな場になどなれているはずなのに、なぜか目頭が熱くなるのを感じながら頷いた。

「ええ。綺麗な方でした」

「祖母の最期に立ち会えて光栄です。立派な方だったと、両親から聞いていましたから」

「そうでしたか。では、こちらにご署名を。手続きなどはあちらで」

「葬儀の手配は、一番簡単なもので。私の家の近くの斎場で、家族葬でお願いします」

 若者は淡々と事務的な手続きをし、それから病院関係者に丁寧に礼を言って回った。

 主治医には、かすかに笑みすら浮かべて見せた。

「ありがとうございました、先生」 


 土井誠が祖母の遺体を近くの葬儀社まで送ってから帰宅すると、帰るなり母が玄関先で怒鳴りつけてきた。

「誠、電話で聞いてびっくりしたわよ、あなたなんでこんな勝手な真似したの」

「そうだよ、せめて父さんたちに相談してくれてもよかったじゃないか」

 母をなだめながら父が言うのを、誠は当たり前だと思った。

 母が怒るのも無理はないし、父が当惑するのも当然だ。何より自分でも、どうしてこんなことをしたのかよくわからなかった。

「うん。お母さん、ごめんなさい。自分でも、よく分からないんだ」

 だって、どうして母に言えただろう。

 昨日、夢の中に、自分によく似た人が出てきて。半日だけ、体をかしてくれって言われたんだ、なんて。

 母は、祖母は自分を捨てたのだとずっと言っていた。里子に出されたのを今でも恨んでいるのだ。

 でも、その人の頼みには、どうしても逆らえなかった。

 長いことひとりぼっちで待たせてしまった人を、迎えにいきたい。

 鏡に移った自分のようにそっくりな男にそう言われて、誠はそれを受け入れた。


 ぼんやりと、母の作った夕食を食べながら、母の怒りが自分にぶつけられるのを、誠はやはりぼんやりと聞いていた。

「あなたはあたしたちの子よ。あの人たちとは、何の関係もないの」

「そうだよね。何の関係もないね。悪かったよ、ごめんなさい」

 食事の味など、何も感じなかった。その夜のメニューを聞かれても、おそらく一生思い出せないだろう。ただ、母が怒り続けているのと、葬儀社から来た家族葬のみの見積もり伝票が十万にも満たない額だったこと、それを自分のバイト代から引き落とせるように電話したことだけは覚えている。


 その晩、誠は夢を見た。

 長い黒髪の若い女の子と、自分そっくりな若者が、二人で歩いていく夢だった。

 彼女は白いバラを一輪、耳の上に差していて。

 二人とも恥ずかしそうに俯きながら、それでもしっかりと手を握り合って、時折無言で見つめ合ったりしながら、ずっとずっと遠い先まで続く道を、振り返りもせず、ただそっと微笑みあいながら歩いていくのを、誠は見送った。

 それからもう、夢にはあの、自分そっくりな人は現れなかった。


 焼かれて白い灰になった祖母を見た時も、涙は浮かばなかった。


 でも、どうしてかなあ。

 ぼくは今でも、あのひとが忘れられないんだ。

 病院のベッドで寝たきりの、年老いて、枯れ枝のようにやせ衰えて、管と機械に生かされているだけの、きっともう、何も考えられないはずの人なのに。

 本当にただの、かわいそうなおばあちゃんだったのに。

 あんなに美しい人のことは、忘れられない。

 お祖父ちゃん。

 ぼくは、あなたがうらやましいです。

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