第十六話
「とにかく、きちんと食事は摂ること! 良いね?」
「う……はい。 ……あの、ホントに美利様は」
「弥生ちゃんは嘘は付かないよ? さ、じゃあ折角だし弥生ちゃんとご飯行く?」
「失礼しました」
「あ、ちょっと!」
暗くなった空を横目に廊下を駆け抜け、体の横を抜けていく風の冷たさに思わず身震いしながらも、けれどスピードを落とさずに一般棟の出口を目指します。新入生の入学時の制服は夏服で、まだ衣替えを迎えていない先輩方が非常に羨ましいです。ああでも、ミリューネ様の冬服姿を楽しみにとっておけると考えれば……素晴らしいですね。
人気の無い廊下を抜ければ直ぐに一つの開け放たれたガラス戸の前について、転がってる靴を拾い上げ、流れる動作で足を収めました。勿論のことこの碌な灯りも大きさも無い場所が正面玄関な訳は有りません、急いでいたので文芸部棟へ続く道からこちらへスキップさせて頂いたのでした。
とん、と地面を軽く爪先で蹴って走る体勢を取ってから、ふとその足を向けるべき先を迷います。保健室にいらっしゃらなかったとなると、果たして……或いはオカルト研究会へ向かったのでしょうか。それとも、初めから私などの心配ではなく、もっと重要な用件の方に奔走していたのでしょうか。ここまで走ってきておいて、けれど私はミリューネ様の居場所どころかその御用件すらも知らないのです。
……情けない限りです。フォエラにいた頃はミリューネ様のお気持ちを察することは従者の務めですし、あの方の元へと辿り着くなど造作も無いことでした。単に、心惹かれる方へ向かえば良かったのですから。けれど十数年の僅かなブランクが響いているのか、それとも人の体で有るからか、…………私もそうである様に、ミリューネ様の人としての生も、短くも長い為か、そのお気持ちを察することはおろか、私の気持ちを伝えることすらままならないのです。そして、自分の気持ちを掴む事も。
フォエラで有れば、きっとミリューネ様の気配はどこにいたって感じることが出来るでしょう。今日は繊月がかかっていますが、まだ残る筈の新月の精の優しさはけれど、肌に降りて下さることは有りませんでした。そう、この世界で、私の体は、ミリューネ様を感じることが出来ません。……それならば。
この世界の私が学んだやり方で、ミリューネ様に近付けば良いのです。
一つ息を吐き、それから夜気で少し冷えた頭でようやっと思い付いた携帯電話を鞄のポケットから取り出しました。アドレス帳を開き、あっという間にミリューネ様の電話番号が画面に表示されます。そうして発信する一歩手前で、私は一つ手を止めました。
もし、もしもミリューネ様が私などの心配では無く、もっと重要な用件に奔走している間であったなら、ここで電話をするべきでは無いでしょう。そしてその場合、昨日の件も有りますし、私の方から電話を掛けるのはミリューネ様の機嫌を損ねてしまうことになる。そう、なのでしょう。
けれど、私の想いを伝えるには、何もしないでいるのでは無くて、私が伝えようとしなければなりません。……それはそう、まずここで電話を掛けなければ始まら――、
♪~ ♪♪~ ♡ ♪~
「ひえっ!?」
まさに通話をしようとしたその時、静かな夜の中へ甘い愛の歌が響き渡りました。マナーモードとは違ったスピーカーの微かな振動が手を温める様で、周りの寒ささえも遠ざかります。手の中で歌われるその歌は一途な愛を歌ったもので、電子音でも誰もが聞き覚えがある有名な物です。
そして、ミリューネ様の着信音でもあり。
そのことを頭が理解した途端に待たせてしまっていることに気付いて、急いで通話ボタンを押し、裏返った第一声を発しました。
「もしもし、ファレイナですっ!」
『……私よ、お願いだから名乗るのはもっと慎重にお願い』
どこか呆れた様な響きのそのお言葉。電話越しで、少しノイズ混じりに聞こえたその声は確かにミリューネ様のもので、私は何も答えることが出来ませんでした。息が詰まった様な心地がして、一息で視界が滲んでしまいそうな気がして、世界が消えて。私の意識に残ったのは、耳元で聞こえる私の言葉を待つ様な砂の音だけ。その向こうにミリューネ様がいることが、私に電話を掛けて下さった今が、今日の不安も強がりも、全てを拭い去る様で。
頭の中が真っ白で、何かが私を包み込んでしまいそうで、一言でも言葉を紡いでしまっては、その拍子に涙を溢してしまいそうで。だから、何かを喋らなくてはと思っていても、言葉を見つけることが出来ません。そんな何も言えなくなってしまった私に、ミリューネ様の御声が掛けられました。
『………………それで、無事なの?』
「…………ッ……はいっ……!」
気の無い風な調子で、けれど優しい問い掛け。涙を溢さないように、声が震えないようにしたつもりだったのに、口を開いて初めに出たのは、声にならない言葉。それを誤魔化すように、上手く出て来ない声を絞り出して、返事をします。小さな、そしてどこか掠れた声になってしまって情けない限りですが、それ以上マシな声なんて、きっと出せなかったでしょう。
『…………怜那?』
頬を涙が伝い、顎から地面へぽたぽたと落ちていきます。返事をして余計に心配させてしまったのに、安堵の涙と胸の締め付けが、どうしても私の声を奪ってしまい、
「ミリューネ、様……っ」
『怜那っ!?』
ただ、縋る様に名を呼ぶだけなんて、従者失格で、情けない限りです。
嫌われてしまったと思っていました。情けないことばかり繰り返し、ミリューネ様に不愉快な思いをさせて、それに気付かず、誰彼構わず愛を求めて。そんな愚かな私に愛想を尽かされてしまったのだと。
どうしたら愛を認めて貰えるかなんて分からない、先の見えない拒絶がずっと続くのではないかと、ただ御一人でフォエラに戻られてしまうのではないかと、このまま、ずっとミリューネ様の御傍にいられないのではないかと、そんな思いばかりが浮かんでいました。だから誰かに励まして貰う度に、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせて、怖がっている心を前に向けることで誤魔化して、ミリューネ様に顔向けできないと言いつつ、これ以上の拒絶を避けようとこちらから向かおうとせずに。
もう、お隣で支える事すらも出来なくなるかもしれないと、新月の夜が怖くて、悲しくて、寂しくて、切なくて、恋しくて一睡も出来ずに。
『ちょ、ちょっと落ち着きなさい! 今どこにいるの、直ぐに会いに行くから!』
「っ……か、化学室………でずっ」
『化学室? 何でそんな場所に……まぁ良いわ、すぐ行くから、泣かないで待ってなさい!』
「ふぁいぃッ……!」
いつもと変わらない御声、いえ、私を心配して下さっている優しいミリューネ様の御声。電話越しの優しさは確かに私を包み込み、まるで朔の闇に浸っている様な、ほっとして、嬉しくて、それがとても愛おしくて。酷く胸が
何と言えば良いのか、気持ちが溢れてとても言い尽くせません。けれど、けれど今はただ、涙が温かく、ほっとして、ほんとに、本当に、
良かった、です。
そうして夜の闇の内からミリューネ様が現れるのを見逃すまいと涙に負けず必死に視線を巡らせていたのですが、『そろそろ着くから、ほら、泣かないの』の言葉を聞いても、まだ確認することは出来ませんでした。もう立っていられず地面にしゃがんでうーうー情けなく唸っているのですが、それでも先程よりは涙も収まってきて、視界も晴れてきました。
『あらあら、小さくなっちゃって……ふふ、子供みたいな泣き方ね』
「っ、み、りゅーね、様……?」
闇に眼を凝らせど人影は見えず、果たして木下先輩と同じく千里眼でも持ち合わせているのかと妙なことを思い浮かべた途端、
「ファレイナ」
ぽん、と。
頭の上に、優しく手が乗せられて。
――――ッ
「――ミリューネ様ッ!!!!!!」
「え……ひッ――」
ぎゅうっ、と、力の限り、精一杯に抱き着きます。ごめんなさいミリューネ様、少しの間だけ、ほんの少しの間だけお願いします。今だけはとても放せません。今だけは、絶対に放しません。
「ちょっ……ふぁ、ファレイナ、くるしっ……」
「ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
勢い余って地面に尻餅をつかれてしまったミリューネ様は私に比べて可愛らしい体躯で、涙でぐちゃぐちゃの顔をうずめるのは少々厳しいと言えます。しかしその御肩にしっかりと顔を付けて、ミリューネ様を全力で抱き締めました。力を掛け過ぎれば折れてしまいそうなその体に、けれど加減もせずにしっかりと腕を回して。
「ファレイナ、苦しいって――、ふぁれい、な…………」
「ごめん、な、さっ…………申し訳、ございませんっ…………」
後で何としてもこの償いをしなくてはなりませんね。何しろ、ミリューネ様の制服を汚した上に苦しい思いをさせてでも、私のわがままを通しているのですから。けれど、従者としてはあるまじきことですが……今だけはこの温もりを、安心を、繋がりを、解く事は出来そうに有りませんでした。掠れた声で、ぎゅっと力を込めたまま、必死になって謝り続ける私に……ミリューネ様は、優しく手を回して下さいました。
ごめんなさいミリューネ様。
それから、
「ありが、とう、ございます……」
この、どうしようもない嬉しい、幸せな心地。どうしたって伝わらない感謝の想いですが、どうしたって伝えてしまいたい。回したこの腕から、流した涙から、想いが伝わって欲しい。本当に、本当に、ありがとうございます。
そうして強く強く抱き締めていた私の頬に、ぴと、と優しく手が当てられて。すっ、と柔らかにミリューネ様のお顔へと目が向けられます。そこには、優しく、優しく微笑むミリューネ様のお顔が有って。
「こちらこそ、ありがとう」
「――――――っ!?」
っ……!
唇に柔らかく残る感触。顔に一度に血が昇って、涙も一息で引っ込んでしまいました。
悪戯っぽく笑うミリューネ様は、すっかり力の緩んだ私の腕から抜け出すと、小さく頬を持ち上げます。
そして、暗い中でもそれと分かる程赤い頬で、けれどあくまでそれを認めない悪戯っぽい笑みのまま、ミリューネ様の口が開かれ。
「好きよ、ファレイナ」
その音は凛と響き、逃れようも無く私の耳へと透き通って。
ぼうっとした頭にじわじわと言葉が染み込むまで、しばらくの時間を要した後。
「……えっ? ちょっと、どうしてそこで倒れ――!?」
慌てたようなミリューネ様の言葉を聴きながら、遠ざかる意識の中でもしっかりと、そのお言葉と照れっ照れな表情をばっちりと脳内に保存したのでした。
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