第十三話

『済まないが五時半にオカ研に来てくれ。

 昨日のことで落ち込んでいるなら無理にとは言わない。

 けど一応大事な話になると思う、来れないなら私の方で話を付けるから、大丈夫なら顔を見せてくれると嬉しい』

 との木下先輩のメールを受け、私は一つ首を傾げました。前を再び向く事が出来、オカルト研究会には勿論行く気満々でしたが、しかし五時半に来てくれと時間指定が有ると、早く着いてしまっては申し訳ない気がします。

 保健室を出たばかりで隣の実さんに「五時半まで暇になってしまいました」と告げれば、顔を輝かせた実さんが、「それなら一緒に演劇部に行こ!」と腕を引っ張ってくださり、彼女の初見学に付き合うことになりました。

 ここ灯清学園の演劇部は、他の全国大会を有する部活や、或いはコンテストやコンクールに鋭意参加できる部活に比べれば、知名度はとても低いのだそうです。けれど演劇部の中では進学先として一度は名に上がるそうです。毎年、一年を通し計6回の公演を行う灯清学園の演劇部は、閉鎖的なこの学園内の、それも本講堂とはまた別にある比較的規模の小さい舞台で劇を繰り広げるそうですが、しかしその会場はいつも人で埋まり、外部からも沢山の人が足を運ぶそうです。楽しそうに語る実さんは、更にどうして本講堂で演技をやらないのかという理由が、その規模の小さい舞台の方が、けれど舞台の奥行き、幅、照明などに於いて勝っているからだということを話して下さいました。

 文芸部棟へ向かうには沢山のルートが有りますが、しかしどれも最終的には一つの大きな道に入り、そこから真っ直ぐに文芸部棟へと歩いていくことになります。丁度そこへ差し掛かって、足元のタイルの模様が細かく種類を変えたことに無駄な感心が起きました。

「でも……本当の演劇を見たことが無いから、見学へ行くのは少し不安ですね」

 そもそも入るつもりも無い人物が部活動の見学をするのは失礼に当たらないのでしょうか。今まで部活に入ったことが無いから良くは分かりませんが、歓迎されなさそうなのは察しが付きます。けれど実さんは、私の不安を逆にプラスに受け取って下さいました。

「演劇も楽しいから、気に入ったらこの学園で沢山見たら良いんだよ! だからこの見学は、その一歩目」

 それから、悪戯っぽく笑みを溢します。

「私が主役をやるって言ったら、怜那ちゃん見てくれるでしょ?」

「! はい、是非!」

 実さんが主役。それどころか実さんが演技をしている姿すら想像は付きませんが、しかし主役が実さんならば、最前列でその劇を見させて頂きます。その時に自分が一人か二人かを考えて、私は小さく溜め息を溢しました。

「ミリューネ様と一緒に見れると良いのですが」

「えっ?」

「――…………」

 あ。

 かくかく、とぎこちない動作で実さんを見ながら、「み、美利お姉様と一緒に見れると良いのですが」と、正直フォローの代わりに弾丸をぶち込んだ勢いの台詞を吐きます。実さんは顔を真っ赤にして、「あ、あああそうか、うん、そそ、そうだねあはは」とこちらに向けた目をすぐに前に戻しました。

 しばらく無言で歩いた後。

「ねぇ、今聞いて良いか分からないけど、二人ってどこまで進んでるの?」

 うっ。

 キラキラした目付きの実さんに、何と言って良いのか分かりません。何しろそう言う関係では一切無いのですから。私の気持ちは置いておくとしましても。

「キスとか、した?」

「まさか、キスなんて、そ…………ん、な」

 しました。しかもミリューネ様からして頂きました。

 一気に歯切れが悪くなった私に、実さんが「したんだ」とにやにやした顔を向けてきます。しかしアレはキスと言いますか、ミリューネ様が私をからかった訳で、となれば、その、実さんににやにやされる様な、そんな初々しくも甘酸っぱい物では無い……筈ですが、まぁこういう時の赤い頬は引いてくれる物では有りません。

「キスはした。でも抱きたくないって事は、まだソフトな関係なの?」

「あ、いえその、ですから、そういう関係では……」

「はいはい、嘘は無しだよ。ってか、美利ちゃんは間違いなくそういう関係になりたいと思うけどね」

 昨日の件で私もひょっとしたらと思っていたりしますが、矢張りそうなのでしょうか。だとすると私の色々なそれがどうなってもう大変ですが、一先ずも深呼吸して、きっぱりと否定すべく実さんの方を向きました。

「私が美利様をお慕いしているだけで、そういう関係では――」

「そっか、それじゃ怜那ちゃんは美利ちゃんとどんなプレイがしたい?」

「――んなっ!?」

 いいい、いきなりですね!?

 実さんはけらけらと笑うと、「だって同じ趣味の人と、私の大切な人以外に初めて友達になれたんだもん」と言って、今度は自分自身のその、えっと、灯清に来るまでの余暇の過ごし方と言いますか、ええまぁぶっちゃけるとメイドのリバちゃんとのにゃんにゃんについてお話して下さいました。

 そのお返しにミリューネ様と明かしたいと望む夜を語ったかどうかは、ここでは秘密とさせて頂きます。



――――――



『擦れ違いに気付かず、気付いた時にはもう手遅れ……どうしていつもこうなってしまうのでしょう、ああ神様、どうか私に、愛する人の心を覗ける力をお与えください!』

 泣き叫ぶ彼女に、答える声は一つとして有りません。愛し合っていた筈の大切な人と、擦れ違いを重ねて、自分は何も気付かないまま、愛する人を沢山傷付けてしまったフィエナ。彼女がそうして泣いていると、そこへ彼女の想い人が現れました。

『……フィエナ、どうして泣いてるんだ。君は、あいつと幸せになった筈だろう?』

『ジュディ!?』

 驚いて彼を振り返り、フィエナは暫し呆然とした後、彼の言葉にはっとなって涙ながらに首を振りました。

『いいえいいえ、違います! ジュディ、私が好きなのは貴方です、レオルは貴方の妹が好きで、私は彼女とレオルが会える機会を作ってただけ!』

 苦しげな表情だったジュディはフィエナの言葉にハッとなり、自分の記憶を探ってレオルが妹に恋をしていた可能性を確かめている様でした。そしてやがて、ジュディは項垂れます。

『何て事だ、俺は自分の勝手な勘違いで、君をこんなにも傷付けてしまった』

『いいえ、違う、違いますジュディ。貴方の心を知らず、傷付けたのは私です、だから、ねぇ、貴方がこうして分かってくれただけで、私はこんなにも嬉しいの』

 涙はまだ止まってはいませんが、フィエナは笑みを浮かべて、愛おしげにジュディを抱き締めました。

 ジュディは涙を溢しながらも、そっとフィエナの抱擁に応えます。

 そうして強く、それでいて優しく、お互いを許し合った後、回した腕をそっと解き、どちらともなく顔を見つめ合わせました。

 そうしてふっ、と同じタイミングで柔らかに微笑んだ二人の顔が近付き、そして――




「ストップ! ちょ、ちょっと先輩ストップ!」

「――っ、そ、そうだった、俺はジュディじゃないな」

 フィエナが突如腕を伸ばしジュディの顔を遠ざければ、ハッとした様子でジュディは頭を振りました。演劇部年6回の公演、その第一回目は4月の半ば、それに向けての稽古の真っ最中です。何でもオリジナルだそうですが、ラストの数シーンを見ただけで、どうしてか胸が苦しく、というか嫌な予感がぐるぐると頭を回る物でした。話は良いお話の筈なのに、何故でしょうね?

 演劇部が普段から活動しているという私達が今いるこの建物の正式名称は、成る程名は体を表すもので、公演館だそうです。いえもうこんな名前では別に舞台や照明がどうだろうとここで公演を行うのではと思いましたがそれは内緒です。話に聞いていた通り入学式、始業式を行ったあの講堂に比べると小ぶりと言えますが、しかし単純な比較のみで出た結果はこの学園においてはさして重要では有りません、文芸部棟が良い例です。舞台が有り、そこから入口へ向けてコンサートホールの様に段々畑な席を持つ公演館は、地下に半分埋もれる形で建てられたのか、中に入れば外から見た時の倍の高さを持っていました。落ち着いた、無装飾の焦げ茶の木で構成された館内は人々の意識を奪う事は無く、公演の為にライトを落とせば、自然と視線は舞台へ向きます。

 明るい舞台の中、先程まで愛おしげに抱き合っていた二人は、今は身に付けた制服にそぐう態度で、ジュディ役の先輩はどこか気まずそうにし、フィエナ役の先輩は部員たちのアドバイスを真剣に聞いていました。

「……凄い」

 思わず、口から感嘆の溜め息が漏れます。勿論役をこなしてこそ演劇部でしょうが、ここまで変わってしまうと顔が瓜二つの別人を見ている気分です。

「うん……それに可愛いよね」

「えっ? あ、ええまぁそうですね……」

 私の溜め息に肯いた実さんは、けれどどうもフィエナ役の先輩の容姿に釘付けな様でした。えぇ、可愛いと言うよりは綺麗な方だと思いますが、確かにとても整っている容姿です。勿論ミリューネ様に比べれば霞みますが。

 そんな風に劇の感想を言い合っていたら、後ろから声が掛かりました。

「やぁ、見ない顔だね、君達入部希望かな?」

 明るい声。顔を後ろに向けると、その視線よりも早くこちら側に回り、慌ててそれを追ってまた前を向き……びっくりしました。

 恰幅の良い、30歳程に見える人懐っこい笑みを浮かべた男性。しかし制服に身を包み、コスプレ好きの顧問でなければこの方もまた学生なのでしょうね。あいえ、加賀崎部長程老けて……失礼、加賀崎部長程大人びた印象を与える訳では有りませんが。

 私達が質問に答える前に、にこにこと口を開きました。

「僕は演劇部部長の島井しまいだ、一足先に新歓公演のネタバレをしてしまった訳だけど、もう見るもの見たし演劇部に入る気は無くなった?」

「まさか! あ、私入部希望の夏川実です、えっと、今日練習なさっているのを見学させて頂いて、この学園に来て良かったと思いました!」

「一年の黒羽怜那です、私は入部希望ではなくて実さんの付き添いなのですが、けど、公演は絶対に見に来ます」

 私達の言葉にふむふむと頷いた島井部長は小さくウインクをして、「まぁ、さっきの奴は去年の最終公演だった劇だけどね」と言ってわははと笑いました。

「うん、でもそうだね、新歓公演の時はこっちから特等席を用意させて貰うよ。二人分で良いかい?」

「あ……それは――」

「三人で!」

「――……実さん」

 実さんは密かにこちらへウインクをしました。あ、あの、新歓公演って確か4月の中旬で、後二週間弱ですよね? 確かに愛を認めて頂くと言いましたが、けれど二週間……いえ、これはやるしか有りません。

「そうですね、三人分お願いします」

「うん、一番良く見える場所を取ろう。……彼氏かい?」

 からかい半分で首を傾げた島井部長に、「そんな感じです」と曖昧に答えをぼかしました。またわははと笑ったしまい部長は、さて、と実さんに視線を向けて、しばらく観察した後、満足そうな笑みを浮かべました。一瞬犯罪臭が漂いましたが違うようです。

「入部希望か。うんうん、我らが演劇部には、君の様な可愛いヒロインが足りないと思っていたんだよ」

「ちょっと、それどういう意味ですか」

 フィエナ役の先輩の声がしたかと思えば、じと目とやらをした彼女が段を上ってこちらにやって来ました。彼女に釘付けになっている実さんの頬は、心なしか赤くなっている様に見えます。

「いや、その、可愛いは綺麗とはまた別だろう? すずめ君は綺麗だけど、この子は――」

「あ、あの!」

 部長の言葉を遮って、実さんが上擦った声を上げます。不思議そうな目を向ける雀……で合ってますよね? 雀先輩に、実さんは緊張を見せながらも真剣な瞳を向けました。

「わわ、私1年の夏川実です、その……いつか私と、恋人になって下さい!」

「「ええっ!?」」

 ――えええええ!? えええ、いや、でも、だって実さんにも大切な人いるって言ってたじゃないですか! メイドちゃんはどうしたんですか、メイドちゃんは!!

 驚きを隠せない私達でしたが、島井部長は「ほー」と感心した様な声を出します。

「もしかして男役かな? それとも百合百合ちゃんかい?」

「どっちもです!」

 まさかの笑顔でのカミングアウト。

「えぇ……え、え、えええ!?」

 混乱する雀先輩に、「大したもんだ」とからから笑う島井部長。私がメイドちゃんを思い出して下さいと実さんを睨めば、実さんは焦ったように手を振りました。

「あ、いえ、違います。えっと、私の現実の恋人はちゃんといるので、その、恋人役を先輩とやりたいって話です。私が男性の役で」

「え、あ……うん、なる、ほど?」

 雀先輩は首を傾げながらも、「そういう事なら……」と、頷いていました。島井部長はまたも実さんを観察して、ううむ、と一つ唸ります。

「身長も顔もヒロインが合っていると思うけど……でも自信有るみたいだし、中学校の頃はそういう役をやってたのかい?」

「はい! 元気な男の子、落ち着いたお父さん、悪の伯爵、怒りんぼなお爺ちゃんとか……でも一番多いのは、女の人の恋人役でしたけど」

「ふむふむ、結構活動してた演劇部みたいだね」

 これは期待できそうだ、とにこやかに笑った島井部長は、それから少し離れて囲むようにこちらを窺う演劇部員たちに合図をします。

「さて、我らが栄えある新入部員、メインヒーローの夏川君に少しばかり演技を見せて欲しいからね、皆、準備を宜しく頼むよ」

 島井部長のその言葉と共に、演劇部員達は一斉に動き始めました。凄いです、性格は割と適当そうで、こう言っては何ですが演技とは無縁にいそうな方ですが、その人望は確かなようです。

 舞台上の道具類が脇に寄せられ、ああでもないこうでもないと話し合い始めた数名の部員はやがて頷いて一枚の紙を選び出し、実さんに手渡しました。その部員達の指示を受けて、演劇部の皆さんが素早く舞台を整えて行きます。いきなりの話にも関わらずすんなりと紙を受け取った実さんは真剣な顔で文字を追い始め、そして雀先輩にも紙が手渡され……と、雀先輩が私をちらりと見てきました。

 私の傍に歩み寄り、実さんを気にしながら、小さな声で尋ねてきます。

「えっと……私が相手役でも良いの?」

「え?」

「だって、恋人でしょ?」

「……はい?」

 どこからそうな……あー、先程のやり取りを客観的に見れば、私がそう取られてもおかしくは無いですね。何しろ、恋人になって下さい宣言の際に実さんを非難する目付きで見ましたから。勿論、ゆっくりと首を振って否定し、島井部長も「この子は新歓を彼氏と見るそうだよ」と、少々間違ってはいますが概ね正しい見解を言って下さいました。早とちりを知った雀先輩は慌てたような顔になって、「そ、そうなんだ……」と微妙な呟きを洩らしましたが、けれど大人しく紙に目を落とします。

 やがて実さんは一つ頷くと、舞台に足を向けました。どうやら台本の一部だったらしい手渡された紙を演劇部員に返してしまっていますが、果たしていきなりの役をこなせるのでしょうか。と言いますか、実さんが演技している姿自体を想像できないのですけれど。

 先程までの舞台の印象からがらりと変わり、絞られたライトの中、石壁を背に人工芝のマットが舞台に敷かれていてその中にテーブルと椅子が置かれています。テーブルも椅子も庭園よりは書斎向けの作りなのはこの際置いておきましょう、雰囲気十分です。暗い夜の庭園を一つ眺めた実さんは、私から見て左の舞台袖へと消えていきました。後に続いて舞台に上がった雀先輩は舞台中央のテーブルより少し右に立ち、それから静かに目を閉じました。

 一瞬の静寂。


パチッ!


 綺麗に指を鳴らす音が聞こえて、それと同時に雀先輩が瞼を上げます。

 硬く強張った面持ちで、緊張と決意を秘めた彼女は、誰かをこの庭園で待っている様でした。けれど辺りを窺う事は無く、ただ唇を結んで俯き加減に目を据えるだけです。

 やがて、庭園に姿を現した人物がいました。

 身のこなしは丁寧、顔に浮かぶ笑みも爽やかですが、どこか疲れた様子も感じます。テーブルの手前で立ち止まった彼はしばらく静かにしていましたが、彼女から一言の挨拶も無い事に少し眉を上げ、それから直ぐに笑みを取り繕って、優しげな声を掛けました。

「こんばんは、リェラ。今夜は突然どうしたんだい? 急な呼び出しだったから、警護の目を避けるのも一苦労だったよ」

 茶化した様子で言いながらも自然にリェラの元へ寄り、椅子を一つ引いて勧めました。けれど彼女は座ることは無く、硬い唇をやっと開きます。

「……アレリア様、私、嫌な噂を聞きました」

 アレリアと呼ばれた彼は、その言葉に顔をほんの少しの時間硬直させて、直ぐに何事も無かったかの様に「どんな噂?」と聞きながら椅子をテーブルに収めました。

 促された後もしばらく口を開いては閉じを繰り返していたリェラでしたが、やがて震える吐息と共に、声を出します。

「…………グレゴリオ様に、私とアレリア様がこうして会っているということを知られた、そしてそのせいで、アレリア様の立場が悪くなっている……と」

 静かにリェラの言葉を聞いていたアレリアでしたが、その顔には先程までの優しい笑みは無く、代わりにどこか憂いる目で疲れた様に、それでも笑みを小さく形作ってやんわりと口を開きました。

「……噂だろう?」

「――噂になっているんですっ……!」

 誰にも知られぬ筈の密会。二人の会話からして、許されない身分違いの恋なのでしょう。けれど知られてはならないそれが人々の口に昇り、そのせいでアレリアに迷惑を掛けている。……愚かにも、手の届かない方に恋をしたせいで。

 リェラはアレリアに背を向けました。

「私からお呼びしたのに申し訳ありません。ですが……私は今から赤の他人です。アレリア様、どうか……どうか、ミーナ様の元へ行ってあげて下さい」

「君が身を引く必要は無い」

 そう言ったアレリアは、けれどリェラに顔を向けることが出来ません。リェラの言葉が正しい事は、アレリアが誰より知っているからです。彼女には、例え身分が高くなくとも、生活が裕福でなくとも、幸せと呼べる生活が有った。けれどアレリアが彼女に恋をして、そしてそれがばれてしまって、もう彼女は元の生活に戻ることは出来なくなってしまった。……自分の立場を弁えなかった、愚か者のせいで。

「……さようなら」

 しばらく躊躇った後にそう呟いたリェラの後を、アレリアは遂に追う事が出来ませんでした。彼女の去った方を一度も見ることが出来なかった彼は、苛立ちをぶつける様にテーブルに拳を打ち付けます。

「っ……嫌、だよ。 リェラ、さよならは嫌だ……!」

 わがままにそう返す自分を口だけで笑って、流れる涙を拭わずにもう一度テーブルを殴りました。

 そうして、夜の闇に彼の姿も溶け込んでいきました。



 パチパチパチ、と拍手する音がそこかしこで上がり、舞台の照明が明るく灯されました。

 実さんはぶんぶんと首を振ると、まだ涙で濡れた頬のまま、ぺこりと一礼します。

 舞台袖から出てきたリェラさんも、綺麗にお辞儀をして見せました。

 実さんは、けれどアレリアでした。言いたい事は分かりますよね? 確かにアレリアだったんです。男でした、私の胸がときめかなかったので間違いありません。いえまぁ、ミリューネ様がいても胸がときめく様なら……という色々は有りますが、言いたい事はそうではなく、まずもって私の勘が、彼は男だと訴えたということです……あの状況の彼にときめくのは少々マズい気もしますが。周りの部員さんたちもそれぞれ笑顔、或いは酷く感心していて、実さんの演技が受け入れられたのが分かります。

「想像以上、期待以上だったよ。ただ、今回のはちょっと堅めのテーブルだったけど、手は大丈夫かい?」

「あはは……ちょっと痛いです」

 茶化す島井部長の言葉に照れたように頭を掻く実さん。島井部長は、「でもその分悔しさは伝わったよ」とまたからから笑って、それから手を叩きました。

「さて皆! こんなに凄い新入生を歓迎するんだ、まさか新歓の出来がダメダメでしたじゃ通らないぞ! シーン5の掛け合いと、シーン8の舞台替え、どっちもまだテンポが遅い! それじゃあ準備を始め――」

 携帯を見れば、時間は17時12分。公演館が文芸部棟の後ろにある建物とは言え、そろそろ向かわなくてはいけないでしょう。せわしく動き出した演劇部の皆さんの間を縫ってこちらにやってきた実さんは、私が鞄を手に立ち上がったのを見て、「行ってらっしゃい」と言って下さいました。

「はい。 ……実さんが主演の劇が楽しみです」

 去り際に小さく微笑めば、実さんは少し目を見開いて、それから照れた様に頭を掻きます。

 稲妻の速さで整った舞台を背に、私は公演館を出ました。

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