第十一話

 入学式から三日目、朝の教室では、既にいくつかのグループが形成されています。

 まだ比較的早い時間帯ですが、教室の隅で固まる3人の男子、中央でお喋りに花を咲かせる女子達、黒板に落書きをしている二人の女子と、何ともほのぼのした光景が広がっていました。

 私の心境とは大違いです。

「おは――…………よ……」

 教室に入ってきて明るく挨拶をしようとした女の子が、私の惨状を見て声を潜めました。教室中央の花園に混じり、「……何か有ったの?」とひそひそ尋ねています。勿論誰も答えを返せるはずが無く、皆揃って首を捻り、こちらに心配そうな目を向けてきています。私と同じく一人席に座る生徒達も、そっとこちらを窺っているのが分かりました。けれどそれに反応することすら億劫で、視線を俯き気味に固定したまま、ほんの少しだけ体を固くして。

 ……はい、昨日のことで夜通し泣いていた私は、酷い隈に赤い目を乗せて、幽鬼のような表情で宙を見つめていました。ミリューネ様に拒絶された、そのことを思い出しただけで、枯れた様に思えた涙がまた溢れそうになります。沈むばかりでは無く決意を強く持った昨日でも有りましたが、しかし持った決意の大きさはそのまま後悔の大きさでも有るわけで、身を裂かれそうな痛みをそっくり未来の希望に託してしまえる、そんな簡単な心では有りませんでした。

 声を上げて泣いて、やがて声が嗄れてすすり泣きになり、嗚咽が止まったのが漸く明け方のことです。そこから上手く働かない頭で登校の準備をし、朝食も取らずに誰もいない教室で自分の席に収まって項垂れ、今は黒板に落書きをしている二人組が「いっちば――ひっ」の声を上げたのがもう30分も前になります。こんな状態ではミリューネ様に愛を受け止めて貰えるどころかもう悲鳴でも上げられそうな、それこそホラーな私でしたが、それを分かっていたところで上向く気分では勿論有りません。むしろ沈んでしまった心に、私はゆっくりと机に突っ伏しました。

 視界を遮断すると、ミリューネ様の冷たい拒絶の目が思い起こされ、生徒の話し声に意識を持っていきます。親しみ初めの、距離感を計る様な手探りの会話。仲が良さそうな会話は持ち上がり組でしょうか。黒板にチョークを引く音はやがて一時の黒板消しの音に取って替わりました。

 段々と教室のざわめきが大きくなっていき、私はぼうっとその音を聞いています。昨日から悲しみに沈むばかりで遠ざけていたことが、ゆっくりと近付いていること。気付いているのに気付いていないフリをして、ただ教室の音を拾い……或いはその声を待っていたのでしょうか。私がどうするべきなのか、未だ答えは出せていないまま、その時はやって来ます。

「おはよ! ……怜那ちゃん?」

「…………」

 ゆっくり顔を持ち上げつつも、どうしたら良いのか分からず、顔を実さんの方へ向けられません。実さんの心配そうな声がもう一度私の名を呼び、ようやく「お早うございます」、と目を逸らしたまま硬い声で朝の挨拶をしました。

「…………何か有ったの?」

 真剣な声色になって、まだ空席の私の隣に腰掛けた彼女に、私は一度だけ首を縦に動かして見せました。

 それきり私が何も言わないので、実さんは周りを少し窺って、「後で相談に乗ろうか?」と潜めた声で尋ねて下さいます。けれど、私はどうして良いのか分からず、すぐに返事を返すことが出来ません。

 実さんや木下先輩と、どこまでの距離でお付き合いさせて頂いたら良いのか、分かりません。自分で自分が信じられないと言えば正しいでしょうか。無意識に誘っていると言われた私です、普通に気を付けてお喋りをするだけでも、実さんのちょっとした行動や言動に頬を赤らめたり、その逆で実さんを赤面させたり、またミリューネ様を不快に思わせてしまう……いいえ、この言い方は正直では有りませんね、ミリューネ様に「結局治す気が無い」と思われ見捨てられる、そんな行動を取ってしまうのではないかと不安なのです。昨日の拒絶から直ぐに実さんに鼻を伸ばす自分がいるとしたら、私はもう二度とミリューネ様に顔向け出来ないでしょう。

「私で良ければ、いつでも耳を貸すからね」

 そっとそう言って下さった実さんに、胸が締め付けられる思いがしました。木村なんとかの声がして、席に戻る生徒達に混じり、実さんの足音も彼女の席へと遠ざかっていきます。……心配を掛けるだけ掛けて、自分自身の意思の弱さのせいで、心の怯えのせいで、お礼すらも言うことが出来ません。

「もう三日目だな、そろそろ高校生になれよ~? まぁどの授業も自己紹介ばっかりだろうが。あー、後今日の午前は体力測定だが、皆運動着は持ってるか? 忘れたんなら今の内に寮に取りに帰れな」

 木村なんとかの言葉で、良い気分とは言えない一日が始まりました。



――――――



 入学式から三日目、HR直前の廊下には、既に生徒の姿は無かった。

 もう時間も時間なので、私は目の前のドアに見切りを付け、教師がやって来る前に教室へと戻る。

 背を向けたのは、私とファレイナを隔てる扉。向こうでファレイナは泣いているかも知れないし、笑っているかも知れないし、怒っているかも知れないし、いずれにせよ、扉をくぐらなかった私には知り得ないことだ。

 じくじくと自分の臆病さを責める声を胸に留めて、挨拶をしてくる生徒達に笑顔で挨拶を返す。綺麗に被れる仮面に、心の苛みが大きくなった。

 自分の席に着いて、そこに置いてある鞄を投げ出してしまいたいのをぐっと堪え、静かに今日の準備をする。

 謝ろうと思った。伝えようと思った。鞄を置いたのはもう40分以上も前で、静かな教室に一人きりの時、クラスを隔てる扉の向こうにファレイナがいる気がして、そうして席を立って、ドアの前で逡巡して。

 扉を開こうとする度に手が震えて、ファレイナに思いを伝えるのが怖くて。あの子が自分に向けてくれている好意が本物だと知っていても、私が同じものを返して、あの子の顔に浮かぶのがどんな表情か、想像出来なかった。それならせめて謝ろうと再び扉に手を掛けて、それきり先に進めずに。直接の原因とは全然違う、『そもそもこんな早い時間に来てるだろうか?』というずるい考えに甘えて、それでも教室に戻ることも出来ず、向こうから扉が開いてくれないだろうか、なんてそんな、自己嫌悪に沈んでしまえる思いも浮かんだりした。

 教室に入っていくクラスメイト達の不思議そうな視線に、不審に思われない皮を被って挨拶する自分も、どんな些細な切っ掛けでだって開いてくれなかったその扉も、何度開けようとしても引き止めてしまう私の心も、大っ嫌いで仕方が無い。扉に関しては完全な八つ当たりかもしれないが。

「今日は体力測定があるけれど、皆はきちんと体操着持ってきたかしら? 忘れたのなら取りに帰らなくちゃいけないから、ホームルームを抜けても良いわよ」

 先生のその言葉と共に、憂鬱な気分のその日が始まった。



――――――



 グラウンドは広く空は晴れ渡っており、四月の和やかな陽気と、時折温度を下げる風の寒暖差に少しばかり鳥肌を堪えながら、あまり馴染まない新品の体操着の袖を握ります。ざわざわとした喧騒の中にも、同じようにぶるりと体を震わせている人の姿を幾人か見ることができました。広いグラウンドをそれでも寂しく感じさせない人の多さは、一学年の1から5組、学年の半数がここにいるからです。

 そう、すっかり忘れていましたが、今日は一年生の体力測定がある日だったのです。物凄く顔を合わせ辛く、またこんな酷い顔を見せる訳にもいかないので探していませんが、ミリューネ様も確実にいらっしゃっています。ちなみに体操着ですが、早朝の覚束ない手は無事に準備を済ませていたようでした。

 体力テストはここ灯清学園も普通高校と同じ内容で、握力測定、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、持久走、50m走、立ち幅跳び、ハンドボール投げを行います。流石に全員が同じ測定を同時にやることは有りませんが、クラス毎に各測定を交替で回っていき、一番最後に持久走を男女に分けて執り行うそうです。ちなみに持久走の際はグラウンドを走るのでは無くてコースが別で用意されていて、更にゴールにはタイマーが設置されているため、時間は自己申告だとか。人が多い為、時間の短縮を図ったのでしょう。

 一クラス大凡40名、5クラスで200名の人間が、午前の内に各競技を済ませることになります。私達2組は長座体前屈、立ち幅跳びの計測から先に行うことになりました。と言いますか、昨日のホームルームで競技の順番なども私がクラスメイトに伝えたんですけどね。順序は、長座体前屈、立ち幅跳び、握力測定、ハンドボール投げ、50m走、反復横跳び、上体起こしと、他クラスを楽な順番にしたのでしょうか、後になる程体力が削れて行く鬼のような競技順になっています。寝てないのもあり少々不安では有りますが、受けられる競技まで受けることにしました。

 私達のクラスはグラウンドから少し離れ、タイルが敷かれた平らな地面にコの字型の測定器が置かれた場所にやってきました。少し向こうには目盛りの入ったマットがいくつか敷いてあり、それらの丁度中間にいる教師が、私達を見て両方を示します。

「長座体前屈を行う際は、二人一組で、5ペアずつ測定を行って下さい。測定が出来ないペアは、先に立ち幅跳びを――」

 ミリューネ様のクラスの担任である化学の教師、水島みずしま美春みか先生の声の下に、クラス内でゆっくりとグループが出来ていきます。孤立する人も多少いますが、きちんと偶数で割り切れるクラス人数なので、一人きりになることは無いでしょう。問題は、私自身です。

 柔らかな筈の陽光がけれど遠く感じられ、周りのクラスメイト達は、何もせずに立ち尽くすばかりの私とは違いペアの相手とはにかみ合いながら、長座体前屈、或いは立ち幅跳びの測定に向かっていきます。クラスの人数は丁度偶数で割り切れるので、私もどなたかとペアを組むでしょう。……いえ、ペアを誰と組むかは、今の状況でも一人きりしかいません。

 とんとん、と控え目に叩かれた肩に振り向けば、朝は目を合わせられなかった実さんと真正面から視線が合いました。瞳に浮かぶ怯えの色から私が目を逸らす前に、彼女の視線が一度余所を向きました。こちらでもなく、あちらでもなく、きょろきょろと辺りを見回した実さんは、ちらりと横目で私を窺い、やがておずおずと視線を戻しました。開かれた口は一度閉じかけ、もう一度開いた時、言葉を探る様にそろそろと声が紡がれます。

「ペア……なろ?」

 遠慮がちにそう紡がれて、私はゆっくり頷いていました。

 けれど、頷きと共に下がった視線は再び合わせられる事無く、罪悪感を抱きながらも、彼女との間に臆病な厚い壁を据えて。

 友達として。知り合いとして。クラスメイトとして。

 心の中のミリューネ様に嫌われたくない言い訳は次第に距離を開き、実さんが小さく「ありがとう」と言った声は、とても悲しそうでした。

 何ともし難い沈黙の中、私達は一先ずも立ち幅跳びに人が流れて測定可能になった長座体前屈へ向かいます。実さんが測定用紙を手に傍に立ったので、私は先に測らせて頂く事にしました。

「ねぇ」

 背中をきちんと壁に付け、背筋を伸ばし、肘も綺麗に真っ直ぐに伸ばしたところで、声につられて実さんの真剣な瞳を覗き込むことになりました。

「美利ちゃんと、何かあったの?」

 真っ直ぐに、こちらの奥底を見透かそうとする瞳。時々震える目の光は、けれど不安を飲み込んで、私を気遣うような色でちらつきます。その視線に、何かを紡ごうとして一度開いた口を、結局何も言えずに閉じて、私はしばらく息を震わせました。

 どこまで踏み込んで良いのか。どこまで一人なら大丈夫か。

 ミリューネ様に顔向け出来るまで、私は誰に頼れば良いのでしょう。少しくらい、少しくらいなら、実さんに相談してしまっても、構わないのかも知れません。友達として、クラスメイトとして。

 いえ、そうやって迷っている時点で……朝に答えを出す事を怖がった時から、理性の判断は距離を置く事を、心の望みは誰かに頼る事を、それぞれ正しいと感じていたのでしょう。朝には理性が勝っていましたが、実さんの哀しそうな顔は考えていたよりも感情の声を大きくしたようでした。

「…………はい」

 こくり、と、折角伸ばした背中を力無く丸めて、頷きます。怯えた顔付きだった実さんは、その言葉を聞くと少しだけ表情の色を変え、「そっか」と小さく安堵を隠して、そしてもう一度。

「……そっか」

 安堵の色を無くし、暗い顔で呟きました。

 一つ目の安堵はきっと、私が事情も言わずに実さんを避ける行動を取ってしまったので、それに対する安堵でしょう。そして二度目の呟きの暗さは、私の顔色が良いとは言えない物だったからだと思います。

 もう一度口を開こうか迷っている様子の実さんを一度遮るように、「それでは、測らせて頂きますね」と伸ばした指先を足先へ向かわせました。


―――


 クラス毎に交替で競技を回っていくと言う事は必然的に空き時間、或いは延びるクラスも生まれる訳で、各競技ごとの時間には、それぞれ五分から十分の余裕が持たされていました。そうして休憩を取ると共にそこかしこで語らい合って、集ったばかりのクラス仲も段々と良くなってきます。

「怜那ちゃん、思ったよりも記録出ないね」

「そう、ですね。 ……実さんはクラスでも上位ですよね」

 記録が出ないのは私の元々の能力も有るかも知れませんが、矢張り寝ていないのと、心因的な物だと思います。中学校時代の物よりも明らかに落ちたハンドボール投げの記録を見て、内心溜め息を吐いていました。今こんなことを考えても仕方のない事ですが、ミリューネ様に愛を認めて貰えた後に褒めて貰えるような結果を残したかったからです。

「体動かすの好きだからね! ……持久走はあんまり得意じゃないけどさ」

 小さく舌を出す実さん。先程の返答から会話が戻り、手探りながらも仲の良いと言える会話ができるようになってきました。ほんの少し怖くも有りますが、けれど今のところ、鼻の下を伸ばしたり、或いは実さんを赤面させることも無いので、これならミリューネ様に不快だと思われないかも知れません。単に遠ざけるだけでなく、自制する努力も必要でしょうし。

 私もです、と相槌を返すと、実さんは「だよね」と笑って、視線を前に移しました。そして、それからしばしの間、不自然な沈黙が生まれます。

 どこか緊張の伝わる逡巡。それにつられて私の表情も硬くなり、手にした記録用紙を、意味も無く両の手の中で遊ばせます。迷いながらも開かれた口から、探り探りの言葉が漏れました。

「そ、の…………もしさ、喧嘩、とか、だったら」

 こちらを気遣いながらも、そして気遣うからこそ質問を投げ掛けている実さんは、ん、と小さく息を呑むと、私に真っ直ぐに顔を向けてきます。

「上手く言えないけど、私もね、大事な人と喧嘩っていうか、勿論したこと有って」

 大事な人との喧嘩。実さんの大事な人とは、一体誰なのでしょうか。自己紹介で言っていた、リバちゃん……人名では無いでしょうが便宜上そう呼ばせて頂きます……がそうなのでしょうか。その時のことを思い出したのか、照れた表情で続けます。

「あの時は私も悪かったのに、それを認められなくてさ、子供みたいに絶交するとか言ったんだ」

 絶交する。そこまではいかなくとも、私がミリューネ様に拒絶されたのは確かですから、今の状況は実さんの喧嘩相手に近いのかもしれません。

「でもね、いざ離れてみれば、自分の悪かったとこばかり思い浮かんで、隣にあの子がいないのが寂しくて。意地張ってた自分が馬鹿みたいでさ、気付いたら、あの子に謝る為に部屋を飛び出してた」

 そう言った実さんは、何故か可笑しそうに笑いを洩らしました。

「あの子の部屋を開けたら、部屋は空っぽだったんだ。それで自分の部屋に戻る途中で、あの子にばったり会った。凄い偶然だけど、あの子も丁度私の部屋に謝りに来てたところだった」

 それから仲直り、と笑った実さん。喧嘩のお相手も、実さんと同じだったのかも知れません。自分に非がある事も分かって、寂しさを覚えて、耐え切れなくなって、そして謝りに部屋を飛び出した。

「ええっと……つまりね、大事な人との喧嘩って、その、長くならなくて、それに美利ちゃんと怜那ちゃんって、私から見ても羨ましいくらいラブラブだし、うん、だから」

 コホン、と気を取り直した実さんは、しっかりとした強い口調で、

「二人なら、仲直りできるから」

 と、そう言って下さいました。

 実さんが例に挙げた話は今の状況とは大分異なりますし、悪いのも両方ではなく、私一人です。

 けれど、その言葉が、どれ程心強かったか。

 昨日から悪い方悪い方へと考えていた私に、優しく安堵を与えて。

「……ありがとうございます」

 真っ直ぐに実さんの目を見て、自然に笑うことが出来ました。私の笑顔を見た実さんの顔も綻び、朝の気まずい空気がどこかへ行ってしまったのを感じて、知らず緊張していたらしい体の力が抜けます。

 仲直り。ええ、します、してやりますとも。

 ミリューネ様に愛を信じて頂けるくらいに、この身を尽くして愛を捧げれば良いのです。

 待っていて下さい、ミリューネ様。

 きっと、私の愛を認めて頂きます。


 次の競技は50m走です。そろそろ時間だと歩き出しながら、安心によって自覚した体の疲れに、思わず苦笑が漏れました。



――――――



「新月さん、記録凄いね!」

「良いな、運動できたらそんな体になるの?」

「運動部なのに負けた……」

 私の記録用紙の周りを囲んで、はしゃいだ声を上げるクラスメイト達。

「え、ええ、ありがとう」

 少しばかり戸惑いながらも笑顔を返せば、「体育祭が楽しみ!」と輝く目を向けられた。

 彼女達の言う通り、記録用紙に並ぶ数字はどれも良いものばかり。中学生の頃は運動部にこそ入っていなかったが、体型維持も兼ねてランニングなどの軽い運動を行ったり、家でテニスをしたりもしていたので、その分基礎体力は高めだ。けれど、今日の記録はと言えば、それから考えても随分高いものだった。

 今日は、本気どころかやる気を出すことすらままならなかったというのに。脳裏に浮かんでいたのは勿論、ファレイナのこと。昨日の、そして今朝の後悔で心は俯き、握力ばかりは自分への苛立ちで良い記録が出そうだ。いや、今から測るのだが。

 ひょっとして……記憶を取り戻したからだろうか? そして付け加えるなら、昨日が新月だったからか。向こうにいた頃は、月齢で能力も随分揺れ動いていたものだった。

「ええっ、佐奈っちそんなに有るの?」

「あ、あはは、つい力入っちゃって」

 考えごとをしていると、前のペアがこそこそと相談をしているのが耳に入ってきた。ちなみに私のペアは佐々木という名の男子生徒で、副級長をやって貰っている。女子同士のペアでは一人あぶれてしまう為、私が買って出た外れ籤という訳だ。ただまぁ妙な目を向けられることも無いし、というか武士の様な寡黙な彼は一言すらも喋らずに計測を進めていくので、正直なところ下手にお喋りな子と組んじゃったりするよりは良いか、と考えていた。

 佐奈と呼ばれた少女の計測器を見て眉根を寄せた女生徒……確か仲山さんだ……は、潜めた真剣な声色でペアの顔を見つめる。

「……これ、八綱君に引かれちゃうんじゃない?」

「…………そうかな?」

 のん気に首を傾げた佐奈さんだったが、私はぎくりとしていた。握力が強すぎるのは、果たして女子としてはどうなのだろう。ファレイナに幻滅されたりしないだろうか。薙刀や柔道の部員など、ちゃんとした理由があって握力が強いならそれは誇って良いと思うが、私の様に生徒会に入り一見スポーツとは程遠い女子高生が頑張る運動部の記録を越えることが有ってはまずいのではないか。

「低いに越したことはないよ」

「……下方修正します、はい」

 記録用紙にさらさらと書かれた嘘を見ながら、私は密かに手加減する事を決意した。ただし余りに数値が低いと不審に思われるだろうし、ここは集中して力を抜くしかない。

 左手を終えた後、計測器を利き手に納め、男子の中でもかなり高い部類だろう85という記録を出して少し首を傾げている佐々木君は、そう、別に手加減などする必要も無いのだろう。男子なら握力が有ればきっと女子も喜ぶだろうし。けれどファレイナに「手を繋ぎませ――やっぱり良いです」と言われる可能性を考えると、女子の平均の内に記録を収めなくてはいけない。

 そしてこんな思考を通して気付くのは、どうこう言おうとファレイナが気になって仕方が無いということだ。昨日のも、今朝のも、ファレイナが気になって、不安になった結果で。

 ……それなら、気になるのなら、それを伝えてしまえば良い。木下先輩にも言われたことだ。沈むばかりではなく、自己嫌悪に浸る場合でも無く、私から動かなくては。あの子をどれだけ傷付けたかを考えるだけで、自分への苛立ちが腸をぐつぐつと煮沸き立たせる。

 今度は78だったのに満足気に頷く佐々木君を少し不思議に思ったが、ともかくも渡された握力計を握った。背を伸ばし、腕は体に付けず、けれど握る力をしっかりと測定器に伝えられるようにする。

 このグラウンドのどこかにファレイナがいる。今は別々の競技を行っているが、きっと、最後の持久走で会えるだろう。全女子合同の持久走なら、ファレイナと会える可能性が有る筈。

 いや、絶対に会ってみせる。走りには自信が有るのだ、最後尾から先頭まで、ファレイナを探して駆け抜ければ良い。見つからなければ何度でも……まぁ、本音というか望みと言うか、ファレイナを見つけるのは運命の相手宜しく吸い寄せられるように、が良いのだけれど。ともかくも、絶対に見つけて。

 会って、謝って、伝えてみせる。

「……あ」

 ぐっ、と決意と共に握った握力計が指した数値を見て、さり気無く針を20程戻した。



――――――



「……次の、…………」

 くらり、と視界がゆらぐ様な眩暈を感じて、手に持った紙を取り落としそうになりました。幸いにもほんの少しの間だったので注目を浴びている中でも気付かれることは無く、気を取り直して用紙をしっかりと持ち直します。

「次の測定種目は、反復横跳びです。……ええと」

 頭に入っていたはずの言うべき事が思い出せなくて用紙に目を落とせど、どうしてか文字が霞んで上手く読めません。それでもどうにか数字が書いてあるのを確認し、数字、数字……時間だ、と思考が亀の歩みで動きました。現在時刻を確認するのも一仕事で、ようやく言うべき事を口にします。

「移動まで、5分、空きが……有るので、時間――ったら」

 っ…………。

 景色が歪み、舌が上手く回っている気がしません。

 皆の驚いたような声を認識できなくなり、膝がくずれた感覚がすぐに消え去り。

 五感が失われて、気が付けば意識を手放していました。

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