第八話

 文芸部棟はがっしりした造りの2階建ての建物で、正面玄関が東に向かって立っています。部活動の為の建物だというのに、ロの形に建物が配置されていて、つまり回廊を持った正方形の建物なのです。一般の学校に照らし合わせれば、二階建ての校舎が四つ、正方形に建ててあるのと同じくらいの規模ですね。外周に沿って伸びる長い廊下で行き来しますが、1階には綺麗な緑の多い中庭に面した廊下もあります。確かに部活動に力を入れているとは聞いていましたが、けれどここまでお金を掛けられるものなのでしょうか。

 でもまぁ、この美しい庭で写生をしたり読書をしたり、或いは友人と語らい合ったりするのは確かに魅力的です、と闇に沈んだ庭を眺めて思いました。そう、私は今庭に面した1階の廊下を、木下先輩と二人で歩いています。

 目指す生徒会室は東館(とは言っても完全に一つの建物ですが、便宜上そう呼んでいます)の一階中程……つまり玄関を通ってすぐにあり、北館2階西寄りに位置するオカルト研究会から歩いて向かっているのでした。広い学園ですので、同じ建物にあって良かったです。

「新月の精って言ってたかい? 今日は新月だね」

「……そうですね」

 新月。フォエラにいた頃は、ミリューネ様の力が最も強くなる時でしたが、はたして今はどうでしょうか。けれど朔の優しい闇に包まれることが出来る日には違いありません。フォエラにいた頃のように闇夜のもとで……つまり外で、或いはミリューネ様のお傍で眠ることが出来ないのは少し残念ですけれど。

「月の力というのは非常に大きくてね。魔術的な意味合いでもよく用いられたりするんだ。満月と新月は対になり、或いは同一のものであるとする見方もある」

「……ミリューネ様はあの野郎とは全然違いますよ」

「勿論、単に人間の定義さ」

 目を眇めて口の端を上げた木下先輩は、けれど、と言葉を続けました。

「黒羽怜那、君が新月に仕えるというのなら、満月の夜は術には向かないだろう。どういった魔術形態を学ぶか……信じるかによっても変わりはするけれど、殆どの場合は、君が主に心酔しているのなら、その主の象徴たる新月の夜は力を増し、反対の満月の夜は全然効果を発揮できないはずだ」

「逆でなくて良かったです」

 私がそう言うと、木下先輩は可笑しそうな笑い声を上げました。

「はは、全く私が言うのも何だが変わっているね。ところで……」

 それから、どこか人を小馬鹿にするような、見下すような笑みを作り、表情そのままに「馬鹿らしいが、」と尋ねてきました。

「その新月の精は、生徒会に入って長いのかい?」

「え……いえ、昨日お誘い頂いて、本日足をお運びしたんです」

「うん、それなら大した問題も無いだろう…………いや何、ちょっとした確執という奴だ」

 私の言葉無き疑問に答えた木下先輩は、首を斜めに傾けながら、その垂れ吊り目を細く閉じ、心底下らないという顔をします。

「オカルト研究会は、生徒会に歓迎されていないんだよ。同様に、生徒会はオカルト研究会に嫌われてる。……まぁ詳しい話は明日話すことになっているがね」

 とにかくも下らない話さ、投げ遣りに呟いた木下先輩は、自嘲気味に唇の端を持ち上げました。

「私はとくに嫌われているらしくてね、生徒会の連中を嫌うつもりは毛頭無いが、まぁ近付いて引っ掻かれるのは避けるに越した事はない」

 そして近付く豪奢な扉。朔の闇を跳ね除けるように光を放つその扉の向こう側には、私の愛しい方と、そして木下先輩を毛嫌いしている人々がいるのです。ミリューネ様があちらにいらっしゃるという事は、いずれ私とミリューネ様も、立場上対立しなくてはいけなくなる日が来るのでしょうか。勿論のこと、そんな日が来たら思うより先にミリューネ様の元にかしずいてやりますけれども。

「明日される話の中には、生徒会の悪口だって入っているだろう、だけど黒羽怜那、君が私の助言を聞くべきかは定かでは無いけれど、世の中の言葉は全て信じ込むか頭から嘘と思い込むべきだよ」

 ……私の発言から疑って掛かるのが、まず初めの一歩だね。そう笑った木下先輩に、私は強く頷き返しました。

「私がミリューネ様に出会うまで、新月の精については悪口しか知らなかったんです。けれど噂は異なり、私は真実を知りました。それに私は、自分自身で価値を決める、と決め込んでますから」

 だから木下先輩も大事な人です、と冗談めかして伝えると、木下先輩の目が真ん丸になり、次いで気のせいかはたまた羞恥のためか、その頬がほんの少し赤くなりました。それからゆっくりと目を閉じた木下先輩は、「んあー」、と猫のような鳴き声を上げます。

 ……というか声のそっくりさ加減に先輩の纏う雰囲気も相まって猫にしか見えません、ちょっと撫でてみたいくらいには。なんて葛藤している私をよそに、再び瞼を上げた木下先輩は、どこか照れ臭そうな顔でこう言いました。

「私はまぁ何だ、弟子は取らない主義だけれどね、君は素質が有るし、そうだな」

 出会ったばかりで何だが、と前置きした先輩は、コホン、と咳払いをします。

「うん、そうだね、私も君が大事だから、身を守る術は私が教えたい」

「どうか、宜しくお願いしますね」

 嬉しくて緩む口元を自覚しながら頭を下げると、「こちらこそ」、と出会った時の印象からは想像できないくらいに可愛らしい笑顔で木下先輩が小さく首を傾けたので、今度は涎で緩む口元を抑える羽目になりました。

 何か、ホント、馬鹿です自分。



――――――



「はい」

 小さくノックを三回。それに答える優しい声音は、甘く耳に心地良い上質なものです。分厚いですが音も無くスムーズに開いたドアの内には、指定の制服を見事に別の衣装として着こなしている推定二年生の男性がいました。整った顔立ちで、なるほど一般の女子にはもてはやされ、憧れの眼差しで遠巻きにされることは間違いないです。告白に至らないだろう点として、今の短い言葉と態度でも十分に伝わってくる丁寧さが上げられますかね。ともかくも、声だけならとても大好きな声です。

「こんばんは、何かお困りですか?」

 そう言って、「何でも相談して下さい」という表情で微笑む彼に、私は勿論の事敵意を抱けず、また彼がオカルト研究会を毛嫌いする姿も想像できません。自然に扉を開き切り、私を迎え入れるようにドアの傍に控えた彼に恐縮しながら私は、

「あの、みりゅ……こちらに新月美利様がいると思うのですが」

 すんでのところで大事故を回避していました。

 私の言葉を受けた彼はにっこりと綺麗な笑みを浮かべると、手を差し伸べて、優雅に室内を示します。

「はい、いらっしゃいますよ。中へどうぞ」

「えっ……あ、ええと」

 ますます恐縮しながら、「し、失礼します」と部屋の中へ足を踏み入れました。ちなみに灯清学園では室内用の靴……上履きの高級品みたいなものです、あれが用意されていて、この文芸部棟の中庭も室内用靴で行き来できるよう配慮されてたりします。

 広く、落ち着きつつも何故か威圧感を感じる凝った内装、それを認識するのとほぼ同時に、美男美女揃いの生徒会の目がこちらを向きました。心臓に悪いです、物凄く緊張する場所ですここ。私に向けられた眼の中にはミリューネ様の目もあり、険しく尖っていました。当然です。オカルト研究会の噂について報告するのは今夜、寮にての予定でしたので、ミリューネ様のお顔には『何をしに来たの?』という恐ろしい詰問がはっきりと浮かんでいました。

「どうなされましたか?」

 三年生の、こいつは間違いなくオカルト研究会を嫌っているだろうという……あいえ、あくまで見た目の問題です、ごめんなさい……目付きの鋭い先輩が、表面上は穏やかに尋ねました。まぁ私がオカ研に所属していることなど知らない筈ですから、表面上も何もあったものではないですが。その先輩が座っているのは一つだけ他から離れた大きな席で、如何にも会長臭がするのでこの人が会長でしょう。殺気でも放てそうな鋭い目付きに、普通の体格の割に逞しい首の筋、整った顔も相まって、近衛隊、或いは騎士団の隊長をしていると言っても違和感がありません。むしろ制服に違和感です。

 だなんて一瞬で浮かんだ失礼な感想を見抜いたのか、会長の目が鋭く光った気がして、私は慌てて口を開きました。

「あ、あの、私、一年の黒羽怜那と申します。新月美利様に用が有って参ったのですが、ええと……ご、ご迷惑だったでしょうか」

 鋭い眼光に怯えて及び腰になる自分が情けないですが、だって怖いんですもん。ミリューネ様も歓迎ムードとは言い難いですし、涙が滲みそうになるのを必死に堪えながら、無意識に出口を窺っていると。

「こら見崎けんさき、可愛い子を怖がらせちゃ駄目でしょ」

 覚えのある声がして、見崎けんさきと呼ばれた先輩の頭をはたく者がいました。小柄な身体でも、決して頼りないという印象を抱けない、意志の通った表情。無邪気に笑い掛けて下さいましたが、私は思わず半歩ほど後退り、体を固くしてしまいます。

「…………お前の方が怖いらしいぞ」

「あ、あはは、怖くないよー?」

 ほらほら~、と困ったような笑みで手をひらひらと振る井上先輩に、害意は無さそうです。私が「すみませんでした……」と小さな声で謝ると、井上先輩は困った顔のまま、ミリューネ様を見遣りました。

「ほら、美利ちゃん、私達じゃ怖がらせちゃうみたいだから、ご指名に答えてあげて」

「はい」

 ミリューネ様は険しい表情のまま一つ頷くと、私の元にずんずんとやって来ます。「あちゃあ」と額に手を当てる井上先輩をミリューネ様の背後に見ながら、私は半歩どころか二歩も三歩も後退してミリューネ様のお顔から目を反らしました。

「何かしら、黒羽怜那さん」

「あ、うっ……あ、あの、お話が有ると言いますか」

「今でなくてはダメ?」

 棘の生えたミリューネ様のお言葉にぐさぐさと突き刺されながら、「ええと……」と言葉を濁らせていると、あの野郎の声がしました。

「新月さん、今日はもう何も無いから、そのまま彼女に付き合ってあげなよ。可哀想に、怖がってるじゃないか」

 そう言って私に微笑み掛けてくるので、燃え上がれこの野郎と念じながら睨み付けます。何を勘違いしたのかウィンクをしてきたので、逸る中指を必死に抑え込みました。そんな私を視線で窘めてから、ミリューネ様は後ろを向いて感謝の印に小さく頭を下げました。

「お気遣いありがとうございます。それと、本日はどうもありがとうございました」

「いえいえ。推薦任命の件、考えておいてね」

 あの野郎の言葉に「はい」、と優しい言葉を掛けるミリューネ様、流石です。ミリューネ様が荷物をまとめに行ったので、気付かれないうちにあの野郎へ殺人光線を焚き付けてやります。視線でダメージを与えられるのなら即死レベルで睨んでやっているのですが、その視線に気付いたあの野郎は、困ったように頭を掻きながら、「そんなに見られると照れちゃうよ」と言ったのでした。勿論殺意が沸きました。

「僕は篠崎晃成。黒羽さん、だよね。宜しくね」

「………………」

 勿論答えてやる訳は有りません。私が怨念を込めて睨み付けていると、ミリューネ様の慌てたような声が聞こえてきました。

「ちょ、ちょっと怜那」

「……ヨロシクオネガイシマス」

 ミリューネ様に迷惑を掛けるわけにはいかずに、しぶしぶ挨拶してやります。「あはは、照れ屋は君も同じだね」と聞こえてきて、私はとっさに左手を後ろに回しました。中指を抑えられなかったからです。

「あはは、はは……黒羽ちゃん、生徒会は悪い場所じゃないからねー」

 井上先輩がそうフォローを入れて下さいました。勿論のこと、木下先輩の言もありますし、私も無闇やたらに嫌うつもりはありません。けれどあの野郎がこうして私を煽ってくる限りは、近付きたくない場所ナンバーワンです。

 井上先輩に会釈を返しながら、あの野郎に最後の一睨みを利かせてやって、ミリューネ様へ何でもないような顔を向けました。鞄を抱えたミリューネ様は私に訝るような視線を向けてきましたが、何も聞いてはきませんでした。

「それじゃあね、美利ちゃん、黒羽ちゃん」

「はい、それでは」

「失礼しました」

 私達が扉の近くに来ると彼が自然にドアを開けて、どうぞと言わんばかりに微笑んできました。私はまたも恐縮し、ミリューネ様も同じな様で、「すみません」と二人揃って言いながら生徒会室を出ます。私達が内廊下へ出てきっかり3秒後、「失礼しますね」の声と共に、静かにドアが閉められました。

 ……あの人はドアマンでもやっているのでしょうか。

 私が暢気にそんなことを考えていると、「れ~い~な~」と恨みの籠ったミリューネ様の唸りが聞こえてきました。

「うっ……ミリューネ様」

「一体どんな理由が有ってわざわざ乗り込んできてくれたのかしらね? 下手な用じゃ勘弁しないわよ」

 ミリューネ様は目を吊り上げてお怒りを示しています。フォエラではあまり見ることの無かった表情なだけに価値が有るとか考えている私は馬鹿です。余り大人びた顔立ちとは言えないため、可愛らしいったらありません。と、そんな思考を表情に浮かべぬように最大の自制を心掛け、私はミリューネ様に会いに行った理由を答えました。

「ええと……しょ、紹介です」

「紹介? 全く、そんなことで………………紹介?」

 ミリューネ様は眉根を寄せて辺りを見回しましたが、私たち二人以外に人はいません。

 ますます不機嫌な表情になったミリューネ様に、説明を行わせて頂こうと口を開いた途端です。


♪~~、♪~


 ポケットの携帯から着信音が鳴り響き出します。静かな空間に響く電子音に慌てて取り出し、通話ボタンを押しました。

「あっ……」

 会議中、或いは説教中に携帯が鳴ってしまった人の気分が凄くよく分かります。これからはそんなシーンを見ても『電源切っとけよ馬鹿野郎』とは思わないようにしましょう。

「良いから出なさい」

「はい……」

 ミリューネ様に伺うと不機嫌そうな表情ながらも許可を頂けたので、携帯を耳に当てます。すると、若干音の割れたスピーカーから聞こえてきたのは、猫を思わせる気ままな声でした。

『やぁ、思ったよりも早かったね』

「! 木下先輩!!」

 私の多いとは言えない(高校になってようやく手にした携帯です)アドレス帳に、今日めでたく加わらせて頂いた木下先輩。携帯を持っていることにも驚きでしたが、何よりスマートフォンだったことに驚きです。先輩のイメージは精々ポケベルでした。

 生徒会室に入る前に、「私は遠慮させて頂こう、終わったらこちらから出向かうさ」と言ってどこかへ行ってしまった先輩でしたが、電話が来るとは思いませんでした。と言うか、両親以外で初通話です。ミリューネ様よりも先に初めてを捧げた相手が木下先輩だとは……やりおる。

 じゃなくて。

「先輩、私達が見える場所にいるんですか?」

『あはは、それはともかく、悪いが文芸部棟の入り口まで来てくれないかい?』

「あ、はい、入り口に……って、質問に答えてくだ」

『それでは』

 ぷつっ、と途切れるように切れた携帯電話。こんなに強引に誤魔化されるなんて滅多にない経験ですね。

 ……文芸部棟の入り口は、勿論のこと建物の外側に付いています。私達が今いるのは内廊下なので、見えるはずはありません。

 私が釈然としない気持ちで携帯をポケットに収めていると、ミリューネ様が半眼で私を見ていました。

「……木下先輩、ね。随分親しげじゃない」

「はい。オカルト研究会の先輩で、今からご紹介させて頂く方でもあります」

「そうじゃ…………はぁ、まぁ良いわ、入り口に行けば良いのでしょう?」

 疲れたような溜め息をついたミリューネ様は、生徒会室の左右に一つずつある外廊下への通路の内、北の方……つまり生徒会室向かって左側の通路へと向かいました。

 小走りに駆け寄って、後ろに控え……ミリューネ様のお言葉を思い出して、そっとお隣に寄り添わせて頂きます。今までその背中をそっと見守らせて頂いていただけなので、ちらと見れば横顔が見られるというこの状況に未だに慣れません。何と言いますか、その、背徳的な感覚が浮かんでしまって……。うん、多分私だけですね。だなんてそんな事を考えながら幸せに浸っていたら、突然それを壊す一言がミリューネ様から発せられました。

「怜那、その、近い」

「…………申し訳ありませんでした」

 ものすごくショックです。私はしゅんと俯きながら、触れ合いそうだった肩と肩の間に、頭一つ分のスペースを開ける事にしました。

 私が凹んでいるのが見え見えだったのでしょう、「……私が悪者みたいじゃない」、と呟いたミリューネ様が距離を詰めてきて下さった時は、意識が飛ぶかと思いました。

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