二度目の、おはなし。

白黒音夢

運命だけは、変わらない。

第1話 前編



 教員室の中は、とても静かだった。

 誰一人として声を出さず、黙々と仕事をしている。

 今の時間は、ノートパソコンに文字を打つか、テストの採点をするかの二択だ。

 わたしは先ほどの授業で行った国語の実力テストの採点をしている。

 勤めている塾は多様な学力(ピンからキリまでとも言う)を持った生徒が通っているため、それぞれのレベルに合わせた試験を作る。特にわたしは小学生と中学生、両方を受け持っているのでテストの作成が少しばかり面倒だ。

 けれどわたしが手を掛けるほどに生徒の成績は上がるのだ。そう思えた瞬間、わたしは塾講師を続けていこうと決意した。問題の主旨が理解できたときに見せる、ニヤリとした顔やホッとした顔。子供たちの見せる一瞬一瞬の表情が好きになっていた。

 ……少しばかり現実的な話だけど、この仕事を続けている理由の一端は給料が高かったこともある。ともかくこの塾で働き始めてから三年ほど経つが、その意欲自体は衰えていない。

 採点し終えたら次は解説だ。誤答していた問題についての解説を、テスト用紙の余白部分に書き込んでいく。今回のテストはどうやら最後の問題が難しかったらしい。

 作者の言いたいことを八十文字以内で纏めなさい。

 という問題だったのだけど……。そんなに難易度高かったかな。

 でもこの程度の問題、スラスラ解いて貰わないとこの後が大変だ。公立高校はともかく私立になるともっと難易度の高い問題が出題される。

 次に類似問題をやったら、解くことができるようなヒントを書き込んでいく。

 思考の手順。抑えるべきポイント。

 といっても、このヒントを読んだだけで劇的に成績が上昇するのなら講師の存在意義はないけど。

 息を吐いて、それから腕時計を見た。これは名の通ったブランドのモノではないけれど、簡素な装飾を施されいていて、どんな場面でも使えるヤツだ。

 淡いピンク色で統一されている。わたしが一番好きな色だ。

 現在午後七時。そろそろ帰社してもいい時間だ。

 バッグを持ちながら立ち上がる。


「お先に失礼します」


 小声でそう告げて、わたしは職員室を出た。隣の講義室から熱血講師(生徒談)の声が漏れている。チラリと講義室を眺めると、生徒達は机に齧り付くようにして数学の問題を解いていた。

 こんな遅くに講義を受けている彼らは、特進組だ。

 目の色を変えながら、講師の声に耳を傾け、その話を理解し、手を動かして問題を解く。

 そうやって必死に勉強をしてまで、彼らにはなりたいものがあるのだろうか。

 講師としては最低の部類の考えだけど、出来の良い生徒を見る度にわたしはそんなことを思う。

 時間は永遠じゃないのだ。サラサラと落ちていく砂時計のように、限りある時間を使って生きている。一回きりの人生。その中でも最も大切な時間を犠牲にして、彼らは勉学に励む。

 そうして得られるモノは一体なんなんだろう。

 思えばわたしは、一度たりとも必死になったことなんてなかったはずだ。少なくとも目を皿のようにしてだとか、血眼になってだの、そんな言葉とは無縁の人生だった。

 客観的に自己を見つめてそう思うけど、自己評価とは大抵自分を高く見積もってしまう。だから恐らく、周りからの評価はもっと低いだろう。友人からも『頑張ってるね』なんてことを言われたことがなかった。

 ほどほどに、適度に。

 そんな言葉を使いながらわたしは生きていた。周りが変化していく中で、わたしはわたしのままだった。たぶん、そのままだろうと思っていたけど――

 ふいに鳴った携帯のバイブ音で、わたしは現実に呼び戻された。空虚な妄想に浸っていても、もう意味が無いのだ。

 携帯のランプが青の点滅を繰り返していた。

 帰るのを見られていたのか、同僚である吾妻さんからメールが送られてきていた。


『今日は行く?』

『行きます』

『車で待ってて』


 主語のない会話だけど、そのくらいでちょうどいい。

 吾妻さんは基本的に車に鍵を掛けていないので、助手席に座って待たせてもらうことになっていた。五分ほど経ってから彼は現われ、「じゃあ、行こうか」と呟いた。

 吾妻さんは、優しい人だった。

 働き始めた頃、既に吾妻さんはこの塾の中核を成している人だった。

 様々な子供や親から頼られ、さらには他の講師からも信頼されていた。

 わたしも同様に、彼のことを信頼していたし、仕事の出来る有能な人だという印象を抱いていた。それは間違いじゃない。

 間違いではないのだけど、それだけでは無いというのを知ったのは最近だった。

 一年ほど前に卓を亡くして、憔悴しきっていたわたしに優しくしてくれたのが吾妻さんだったのだ。

 単に身体が目当てだったのだろうけど、おざなりでの優しさでもわたしは嬉しかった。

 吾妻さんは顔がカッコイイというわけでも、身に着けている衣服が洒落ているというわけでもない。

 雰囲気なのか、会話の仕方なのか。

 とにかく、吾妻さんは他人の心を開く術を持っていて、悩みを引き出すことに長けていた。心理カウンセラーにでもなればいいのにと告げたけれど、吾妻さんは苦笑いしながら「俺は共感力が0だから」と言っていた。

 吾妻さんが近付いたのか、わたしが近付いたのかは分からないけど、確かにあの頃はたくさん飲みに行っていた。二人で飲みに行っていた。

 恋人を失って空いてしまった心の隙間に、少しずつ吾妻さんは入り込んできた。

 自分が軽い女なのか、その頃のわたしには――いまのわたしにも理解できないことだ。

 ただ、吾妻さんの彼女にはなれないことは理解していた。彼が相当軽い人間だというのは、彼自身が言っていたことだ。受け持っている女子高生を取っ替え引っ替えに付き合っていると。真面目に付き合うということができないらしい。その方が楽だとも話していた。

 それでも、そのときわたしは、吾妻さんにもたれ掛かった。

 わたしには似合わないカクテルを見つめながら、次の選択は彼に預けた。

 普段なら微酔程度にしている。理性を失わない程度のアルコールは、良いものだと思う。でもわたしは、初めてお酒に酔っていた。人生で一番飲んでいた。

 言葉は支離滅裂で、相手の喋っている言葉だって分からなくて、本当にただの酔っぱらいだった。

 けれど、もたれ掛かったのは自分の意志だった。

 雰囲気もあった。流されるままだったというのもあった。

 しかし、最期の最期に頷いたのはわたし自身た。

 わたしも吾妻さんも、都合が良かったんだと思う。

 わたしは卓の代替品としての役割を彼に求めていたし、吾妻さんは性欲を解消の道具としてわたしを見ていただけだ。

 おざなりの優しさでも、見せかけだけのそれで良かったんだ。

 それさえしてくれれば、別に吾妻さんじゃなくてもいいのだ。

 こんな考えしかできない自分が気持ち悪いけど、胸の奥で疼く悲しみをそのまま吾妻さんに分けてしまいたかった。分かち合いたかった。

 上目遣いで吾妻さんを見つめると、彼の何処か冷たい瞳がわたしを射抜いていた。

 卓じゃなくても身体は感じるし、求められる間は何もかもを忘れられていた。

 汚いものを吐き出すだけの交尾が終わったあとで思ったのは、卓のことだった。

 吾妻さんと抱き合いながら、ぼんやりした頭のまま、卓のことを考えていた。

 そうやって始まった関係は今でも続いている。

 誰かが決めたシナリオをなぞるように、繰り返す行為。

 安いホテルのベッドに押し倒されて、唇からうなじ、鎖骨に触れられる。吾妻さんの唇も手の平も指先も、何故か冷たい。

 たぶんそれが吾妻幹也という男の本質なんだ。

 おざなり。全部。

 きっと、彼が想っていることは理解できない。他人の胸の内を聞くことはできても、自分のことを話そうとは思わないし、理解して欲しいとも思っていないのだろう。

 月並みな表現だけど、吾妻さんの瞳は鋭利な氷のようだ。誰もが触れてはいけないと思うほどに尖っていて、そのくせ透き通るような輝きを持っている。

 だから、目を逸らせない。

 彼の瞳に映るわたしは、一体どのように見えているのだろうか。

 奇妙なほど冷静にわたしは考えているけど、身体は快楽の波に呑まれている。その証拠に口から漏れ出るのはため息にも似た嬌声。そして吾妻さんはゴムも着けずにわたしの中に入れてくる。でも、それを認めたのはわたしだ。どんな会話の流れでそうなったのかは覚えていない。

 わたしが積極的になればなるほど、吾妻さんはわたしとの時間に多くを裂いてくれて、一緒に過ごしてくれた。

 遊ばれていた。分かっている。本当に、遊ばれている。

 でも、上手なんだ。

 だから彼が「生でしたい」と言えば、わたしはなんの躊躇いもなく、その言葉に対する戸惑いもなく、わたしは受け入れた。幸いなことにわたしは副作用が出にくい体質のようで、ピルを飲んでも身体的にはなんの問題もなかった。こうやってわたしは彼に尽くしているけど、これは断じて愛情ではない。けれど彼に何かを感じているのは確かだから、もっと知りたかった。

 わたしが狂っているくらいの想いで吾妻さんを受け入れれば、いつかは応えてくれるのだと思っている。

 いまのところ、そんな兆候は見られないけれど。

 期待なんてしていない。してはいけない。

 でも、何かが欲しいんだ。



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