異星言語科学研究所
しんめいかい
第1話 七王トモ
人類の歴史全体からすればそれほどでもない昔、それは失われた。それは人類史上かつてない衝撃的な事件であった。一部の人々の狂気とも言える未来への夢を賭けた試みは、彼らにすれば大成功だったのかもしれない。しかし、その代償は計り知れなかった。
事件の後、地球では、地震、それに伴う津波、火山噴火、豪雨、それに伴う洪水、干ばつ、暴風など、激しい異常気象が何年にも渡って続いた。山が崩れ、低い土地や島が海に沈み、数々の湖が失われた。異常気象の本当の原因が、それが地球から奪われたためだったのか……。その証明は誰にもできなかった。しかし、誰もがそれが原因だとして疑わなかった。
人類からは、多くの財産、幸福、そして、命が奪われた。人類以外の命も大量に失われた。
築き上げた文化からも、多くのものが失われていった。それは形のないものにも及んだ。時を重ねながら、徐々に失われていったものもあった。
◆
その日、トモは夢を見ていた。母との最後の日の夢。七年前のことだ。少年はまだ七歳だった。母の名はあずさ。彼女は日本の古い言葉を研究する言語学者だった。
「お母さんが行くサセボいせきってどんなところ?」
ベランダから夜空を観ながら、母と子は話していた。
「ここから西南西にだいたい七〇〇キロ。海底二千メートルのところよ。そこには、三百年以上昔、日本で使われていた言葉が書かれた本や記録メディアがたくさん残っているのよ」
「そのころの日本の言葉ってどんなものだったの?」
「全体的には今とほぼ同じね。たった一つの大きな違いを除いてね」
「どんな違い?」
「今は使っていない言葉が昔の日本語にはたくさん存在していたのよ」
「それらはどうして使われなくなったの?」
「きっとそれは、昔、地球から大切なものが奪われてしまったから……」
「大切なもの?」
「それはね――――」あずさはトモの耳元に唇を近づけ、小声でそっと教えた。
「――――さまって何?」
「地球のそばにいつもいたお友達よ」
「お友だち? どうしてそれはうばわれちゃったの?」
「夢を叶えるためよ。でも、そのせいで、いっぱい人が死んでしまったけど……」
「それをうばったのって、だれなの?」
「今は別の星に住んでいる人達よ。ここからもその星が見えるわ。ほらあれ……」
指し示した先に、明るく輝く惑星があった。トモは「わあ」と声をあげた後、再び訊ねた。
「うばわれた地球のお友だちもそこにいるの?」
「そこにはいないわ――もしかしたら、お母さんの夢はそれを見つけることなのかも……」
あずさを乗せ佐世保遺跡に向かった船は、消息を絶ち、後に遭難事故と報じられた。あずさ達は死んでしまったと皆が思う中、トモは母が生きているとずっと信じ続けてきた。
夢を叶えようとした人達に会い、そして、地球から奪われた友達――を探せば、母にもきっと会える――いつしか彼はそう思うようになっていた。
それと同時に、彼らが実現しようとした夢がどんなものだったのか、トモは知りたかった。
「まずは宇宙へ……そしてあの星に行きたい――」
星の方角に消えていく母の姿を追いながら、トモが夢の中で叫んだ時、目が覚めた。
「――寝過ごした」
その日はトモが食事当番だった。トモは父の和人と二人で暮らしている。味噌汁を煮ながら、手早く食事の準備をした後、今日も階段を上り父を起こしに行く。
黒地にカラフルな煙のようなものが描かれたTシャツ姿。トモはいつもこんな感じの服ばかり着ている。それは宇宙を現した絵だ。この服も含め、すべてがトモ自身によって描かれたものだ。星雲、恒星、銀河、超新星爆発、太陽コロナ、太陽系惑星の軌道図……、想像図も含め、そういったものが描かれた服を何枚も作っている。
「おはようお父さん!」と布団を揺すると、父は眠そうに声をあげた。
「あっ、え、もう
ここで父が使っている『十早』とは、日の出からの数時間のことを示した言葉である。いつの頃からかこの言葉が使われるようになっていた。代わりになる言葉がなかったためだ。
「僕、時間がないからもう行くよ」
父は布団から眠そうな顔を出し、「え、夏休みじゃないのか?」と言ってあくびをした。
「夏休みは来週からだよ。六月の洪水の時の休みのせいで一週間ずれたんだよ。忘れたの?」
「そうか、来週だったか……」
その言葉をちゃんと聞く余裕もなく、トモは、階段をかけ降り、あわてて家を出ていった。
しばらくして、父は、ぼさぼさの髪で眠そうにダイニングに降りていった。食事の準備ができていた。テレビのスイッチを入れると、ちょうど、八時のニュースのヘッドラインを放送しているところだった。
「どうせ、俺は急ぐ訳じゃない。時間がないなら食事の準備なんかしなくていいのに……。ほんと、トモは生真面目な奴だ」
今日の食卓には、茶碗にごはん、軽いセラミックのスープ皿には味噌汁。納豆のパック、そして小さい陶の器に生卵が一個。それを見て和人は顔をしかめた。
「また、卵がそのまま……」
その時代の日本では、生卵はそのまま食卓には出さない慣習になっていた。形が崩れるようにかき混ぜてから出すのだ。しかし、トモはいつも、こうやってそのまま食卓に出す。
「そういえば、あずさもこうやって卵をそのまんまで出してたなあ……」
日本のごく普通の家庭に育った和人は、生卵をそのままにしたりしない。和人の場合、慣習に従うというより、その状態が我慢ならないのだ。黄色い球形が目に入った瞬間、すぐにかき混ぜてしまう。何かがそうさせてしまう。それはきっと、和人の母から伝染したのだろう。和人の母も、殻から出た生卵がそのままの形で存在している状態を嫌った。
そうやって、三〇〇年経ったこの時代も、生卵をそのまま食卓に出すことが不作法だと、人から人に伝わり続けている。気にしない人も増える一方で、不快に感じる人がまだどこにでもいる。それが、昔、あの凄惨な事件を体験した後の二十五世紀の日本の姿だった。
和人の母があずさとの結婚を強く反対したのも、彼女が卵をそのままで出したのを見たのがきっかけだった。
「孫のこんな行為を、おかんが見たらどう思うかな……」
卵をかき混ぜるうちに、ニュースヘッドラインが終わり、画面にアナウンサーが現れた。
「おはようございます。二〇三日、
そこで、アナウンサーは少し間を置いた。和人は地震警戒宣言でも出るのだろうかと思った。それはさほど珍しいことでもなかった。
「――三年昔に設立された東北州福島県の国際社会文化研究所では、今回、新たに異星言語を学ぶ研究生を公募することになりました」
――えっ、何だと、異星言語だと?
和人はそれまで全く見ていなかった画面に顔を向けた。
「なお、世界の報道機関各社との申し合わせにより、今まで、異星人に関しては、一環して報道規制を敷いておりました。申し訳ございません」
いつになくゆっくり喋った後、アナウンサーは深くお辞儀をした。
画面を見たまま、和人の表情は凍りついていた。卵をかき混ぜる箸が止まっていた。
「今回の研究生公募を機会に、異星人に関する報道も解禁になります。これは、世界代表者会議で決定した事項です。これからは、当社も、関係機関との連絡を取りつつ、段階的に異星人に関する報道を行なって参ります。既に言い伝えなどにより、ご存知の方も多いとは思いますが、この異星人とは、今から約三〇〇年の昔、我々から『ツキ』を奪った人々です」
その言葉で我に返った和人は、一度瞬きをしてから叫んだ。
「ツキだと! この言葉、公共放送では初めて聴いたぞ。これは大変なことになった!」
卵がテーブルにこぼれた。
和人がその言葉を初めて聞いたのは、彼の妻あずさに初めて会った時のことだ。それは、昔の日本では頻繁に使われていた文字……。
「国際社会文化研究所は、実は、この異星に住む人々が現在使っている言語を研究するために設立された機関です。今日をもって『異星言語科学研究所』と正式に名称を改めます。そして、今回、日本を含め、世界八カ国で、その言語を学ぶ研究生を募集します。定員は総計約一千人。資格は年齢十二歳から二十五歳までの男女。学校は各国共、全寮制となっており、研究生になりたい人は選抜試験を受けることになります……」
「あずさはやはり生きているのだろうか。もしかして、この研究に関わっているのだろうか」
それと同時に和人は、息子のことを考えていた。
――トモも、私のもとを離れ、行ってしまうのだろうか……。
その頃、トモはまだ何も知らぬまま、学校への道を急いでいた。
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