#06 謎。興味。関心。「相手を知りたい。」

 ナーディア先生をこらしめるために教典から彼女の矛盾を暴きだすぞ !と思ったものの、教典の規則集は想像以上の分量であり、一人で調べあげるにはあまりに限界があった。だからランチャ・マルカナの開いてくれた教典講読の勉強会はとても助かっていた。

「教典の規則とその意義を知るためには、もう一度教典の教えてくれる世界の成り立ちについて勉強する必要があると思うの。」ランチャは丸テーブルの向かい側から僕とネイスンに言った。「あの修道士の先生、頭ごなしに七戒の暗記からいきなり入ったけど、あれじゃあ本質的な事が学べるわけないわ。まずはちゃんと原理を勉強しましょう。」ランチャは紙を机に置いた。「この紙がアリュヌフの神であり世界です。」そして大きな円を書いた。「これが私達全体の世界。」円の中に小さい丸を次々と描いた。「これが私達個人の世界。」小さな丸同士に線を引く。「私達人間はお互いに関係を作り世界同士のネットワークを創ります。これがいわゆる、世俗ね。しかし私達はこの世俗のネットワークの中に浸って満足し、アリュヌフの神のことを忘れてしまいがち。そしてそのまま表面的なネットワークがより濃密になる中で悪魔が具現化された。」ランチャは線を沢山書き足し、 「ネットワーク、悪魔の住む所」と書き足した。

「要約すると、」僕は言った。「私達はアリュヌフの神と同じく、心の中に世界を持っているが、 それら全ては本来アリュヌフの神が作り出した世界の上にあったはず。それを忘れた私達は、 お互いの世界との関係の中でネットワークを作る事ばかりに気が向いて、結果的に世間の中に悪魔ができあがってしまった、と。」

「そう。人々は神を無視して経済や文化を営んでいった。それが世界の諸悪の根源。だから、七戒の第一条『まず第一にアリュヌフの神を求めなさい』は、そういう意味なの。」

「なーるほどー。」ネイスンは納得しながら頷いた。

「そこで私達は”自分の外の世界”に目覚める必要がある。」ランチャは言った。「七戒第二条『自らを脱ぎ捨て、自らの外を求めなさい。』・・・でも求めろといっても どうしていいのか分からない。そこで人間に真実の心を与えたセリウミャの草が必要なわけ。ここでも香壇が焚かれてるじゃない?私達はセリウミャの香りを嗅いで新しい世界を見出すの。それがアリュヌフの民。」そう言って『私たち個人の世界』を示す小さな丸に丸を重ねて二重にする。どうやらこれが上位存在の『アリュヌフの民』らしい。「そしてアリュヌフの民同士でネットワークを作る。」そして二重丸同士を二重線で繋げる。「これがこの学園だったり、集会のつながりだったりするわけね。このネットワークはアリュヌフの神自身が教典で定めていて、この定めを守る限りネットワークの中に悪魔は現れない。 これが七戒第三条『アリュヌフの神の定める掟に従いなさい。』よ。次に第四条についても触れようと思うんだけど・・・・えーと・・・そう、『上位者を敬いなさい。』ちょっと紙が一杯になったから新しく書くね。」ランチャはそういって紙を変えて、大きな円を書く。「さっきも言ったようにこの紙がアリュヌフの神で円が全体の世界。そこに人々がいて」小さな円をかく。「セリウミャで目覚めたアリュヌフの民」二重円。「アリュヌフの民からさらに悟りを得た悟者がいる。」三重円。「人々は本当はアリュヌフの民に従い悟者になるための悟りのステップが必要なんだけど、悪魔が支配するこの世の中ではなかなか難しい。でも、私達アリュヌフの民も悪魔に惑わされないとも限らない、だから、 悟者に従う必要があるの。私達の先生ももちろん悟者ね。」

「例えばの話なんだけど、」僕は切り出した。「もしも悟者が教典の教えと矛盾した行動をした場合、誰がそれを指導するんだい?」

「教典はさっきも言ったようにアリュヌフの民同士のネットワークを規定するためのもので、悟者には必要ない。」

「え!?じゃあやりたい放題じゃないの。」僕は吃驚した。

「そんなわけないわ。悟者はアリュヌフの神と対話する資格を得るから、逆に言うとアリュヌフの神との結束は極めて強いの。だから悪魔の支配を受けない。だから私達のように多くを知らない人を規定するようなものは必要無いの。」

「そうなのか・・・」僕は渋々納得したものの、じゃあナーディア先生はアリュヌフの神に認められた悟者であり、僕が先生の行動の教典との矛盾を指摘しても問題無いばかりか、その指摘の行為が七戒第四条を違反するのでむしろ自分が処罰される、という事を知って暗澹となった。

「第五条『悪魔と悪魔を良しとする世界に近づいてはならない。』これは言うまで もないわね。俗世間には近づいちゃダメ。第六条『同胞の世界を認め助け合いなさい。』これも言うまでも無い。 次に第七条なんだけど『男女の愛は世界の創生の根本である。アリュヌフの神の定める愛の流れに従いなさい。』」ランチャはここでクスクスと笑った。僕は一瞬ネイスンを見たがネイスンは無表情である。「これは赤ちゃんが産まれる時って新しく世界が生まれる時じゃない?そして恋って相手を知りたいとかそんな気持ちを作り出すものだから、ネットワークを繋ぐ衝動の根本ともいえる、というか教典はそう捉えているわけ。」ネイスンはやはり無表情である。「勿論私達人間の世界は全てアリュヌフの神の上にある。だから、恋の流れもアリュヌフの神によって定められている。アリュヌフの民は皆、定められた祝福のもと結婚するのよ。」ランチャはキラキラとした瞳で言った。 恋かあ、と僕は思った。女の子と一緒にいるのは緊張するけど、それは恋とは言えない。つまり「相手を知りたい」と思わせるものが恋である、と。思えばさほど他人に関心を持っていない事に僕は気づいたのだ。

「サリアは恋ってしたことあるの?」ランチャは唐突に訊ねた。僕は当惑する。 ネイスンの前でその質問を答えるのは気が引けたが、「うーん、」と考えつつ答える 事にした。「今までないかな。」ネイスンの感情にすこしヒビが入ったような気がして申し訳ない気持ちになった。「そうなんだ。」ランチャは両頬を両手に乗せて首を傾げる。「気になる人とかっていないの?」そう言われても「気になる・・・・・気になる・・・・・ウーン」とろくに答えられていない。「変な質問ごめん。」ランチ ャは笑う。「じゃあ今日はここまでにしようか。七戒の基本を学んだ、と言う事で。」 「ありがとう。」僕はそう答えて席を立った。ネイスンも無言で席を立った。そうい えばランチャからはネイスンに一度も話していない事に僕は気づいた。ネイスンは僕の事といい、ランチャのそこはかとない冷たさといい、色々と傷ついてしまっただろうなあ、と僕は反省した。外に出れば灰は相変わらず降り注いでいる。その灰は僕達が上位者になるための香りの代償である。まるで声を失ったあの人たちみたいに・・・。そういえば悟者になるためにはどうすればいいのか聴いた事が無い。ある日アリュヌフの神にお呼ばれするのだろうか、と僕は漠然と思った。一緒に歩いていたネイスンが図書室で調べ物するから、と言って途中で別れた。調べ物以外に、一人になりたい気持ちもあるんだろうな、という事を漠然と思いつつ手を振った。ネイスンがいなくなって一人で歩いている時も、僕は、恋かあ・・・とぼんやり考えている。

「悩める青年サリア・マークよ、おぬしはどこへ行く。」と馬鹿に仰々しく尋ねる女性の声が聞こえた。振り返るとクルス・ザンドラであった。

「クルス先輩・・・特に何も、ただ歩いているだけです。」僕がそう答えるとクルスはニコリと笑って「私も暇。ちょっと一緒に喋らない?」と言ったので、「いいですよ。」と答える。

「何してたの?」

「同級生のランチャと、友達のネイスンと教典講読の勉強会していました。」

「おお、勉強熱心ねえ。」

「ははは。それにしてもランチャはすごい秀才だ。」

「彼女、アルバント・キンベルクと仲良くしていて、彼から色々教わってるのよ。」 「そうなんですか。」

「先生はノウハウなんて教えてくれないから、その方が確かに賢いわね。」

「確かに。」

 ふと僕はクルスの服装が気になって訊ねた。

「なんでクルス先輩は男の制服を着ているんですか?スカートじゃなくて。」

「あの制服だっさいし、こっちの方が楽。」

「その、クラスメートから笑われたりしませんか?」

「思い切れば何てことないわ。」

「でも、神秘劇に参加してないし、その、あの、」

「孤立してるって?」

「・・・・・」言い過ぎたかなと思って返事できなかった。

「さっすがサリア・マークくん。デューリッヒくんの悲鳴に、誰よりも一生懸命駆けつけているしね。」

「・・・・・」あの時は恥ずかしくて何も言えなかった。

「私はね、なぜだかアリュヌフの神に愛されているの。」

「え?」

「筋肉ババアは私を鞭で引っぱたきたくてしょうがなかった。服装おかしいし反抗的だったからね。でも私がいくら鞭で叩かれてもあんまりふてぶてしい態度だから、とうとう香壇に連れて行かれて神の裁きを食らう所だったの。 死ぬのかなーと思ったら、なぜかアリュヌフの神は私に憐れみを向けて下さり、処罰が解かれたってわけ。」

「へええ。」

「それで私は何か、面白くなってしまって、どこまでできるのかな?て冒険した くなっちゃったわけ。だからクラス中の憎まれ者よ、わたし。」

「どうしてアリュヌフの神に愛されたのか、心当たりはありますか?」

「うーん、ある事にはあるけど、」クルスは僕を見る。「今の君には教えられない。」

「・・・・どうしてですか?」

「まあそんなにツッこんで知りたいってことはどこかで答えを知ってるんだけどさ。」クルスは首を振った。「君は逃げてるからね。大切な事から目をつぶっている からね。」

「大切な事・・・。」

「君が自分で気づくまで教えてあげない。」クルスはにこりと笑った。

「あ、宿題 思い出した。じゃあね。」そしてさっさと女子寮に向かってしまった。

 やれやれ、と僕は服に付いた灰を振り払いながら思った。どうして彼女は僕の事 についてそんな知ったように話しかけてくるのだろうか、と思った。一体彼女は何 者なのだろう。彼女のどこがアリュヌフの神に愛されるのだろう。謎。興味。関心。「相手を知りたい。」それは、恋。

 ふと、まずい事に気づいてしまった。どうやら僕はクルスの事が気になってしまっていたらしい。かぶりを振る。足早に歩きだす。自分を小馬鹿にするクルスの事が頭にチラつき始めている。笑顔を思い出してしまっている。あのボーイッシュな背の高さにどうしようもない美しさを感じてしまっている。あれ、そんなつもりじゃ。これは恋か。恋なのか。アリュヌフの神が定めた愛の流れなのか。否、アリュヌフの神が彼女を愛しているならば、僕ごときに愛をむける筈は、そんな筈はない。ではこれは悪魔の誘惑か。悪魔が誘惑しているのか。僕はふと数ヶ月前のネイスンを思い出す。

『僕は・・・・君は・・・・悪魔だな!』

『!?』

『僕をたぶらかせてるんだ!きっとそうに違いない!君は悪魔だ!処罰されるべきだ!』  その時僕はネイスンを引っ叩いた。しかし同じような発狂が今自分の身に起きている。クルスの存在が危険に思えてきた。自分を惑わしているように思えた。なぜならばこんなに思考が壊れてしまうのだから!しかし同時にもう一度一目みたいとも思う ようになってしまった。女子寮にはさすがにいけないので自分の寮に帰る。「おかえ りサリア!今日の声楽指導は何するの?」とネイスンが元気に話しかけてくるが僕は「ごめん・・・今日はやらなきゃいけない宿題があって、できない。」と断った。 それよりもクルスが気になって仕方ないのだ。寝室近くの自分の机に向かい、(ああ、 クルスクルスクルス)と思いながらノートにクルスの似顔絵を描いていた。あまりにも似ていなくて消しゴムで消した。答えの無い疑問に立ち向かったような気分になって僕は机に突っ伏して泣いてしまった。そのまま寝ていたらしく、起きたら毛布が被せられていた。ネイスンらしい。僕は頭痛とネイスンへの申し訳なさと再び起こるクルスへの興味が交じり合って頭を抱えながらベッドに向かう。



○七戒

一 まず第一にアリュヌフの神を求めなさい。

二 自らを脱ぎ捨て、自らの外を求めなさい。

三 アリュヌフの神の定める掟に従いなさい。

四 上位者を敬いなさい。

五 悪魔と悪魔を良しとする世界に近づいてはな らない。

六 同胞の世界を認め助け合いなさい。

七 男女の愛は世界の創生の根本である。アリュヌフの神の定める愛の流れに従いなさい。

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