あなたは童貞を捨てたい

山内 剛

第1話 童貞を捨てたい

 あなたは童貞だ。

キリスト教的な意味ではなく、ヤりたい盛りの男の子、という意味である。

ご一新で焼け野原となって、京都府に政府組織が移ってから、140年と少し。

東京府は鱶川町(ふかがわちょう、と読む)に越してきたばかりの少年であるあなたは、

とにかくヤりたくて仕方がない。ああ、女の子。柔らかくて、甘い匂いで。

きっとフワフワしているのだろう。声は高いだろう。そして優しく気高く可憐なのだろう。

そんな女の子を、ああ、ひどい目に合わせる。最高だ。

 益体もないことを考えながら、あなたは今日も近所の中学へと登校する。

 かすかに香る潮風には未だ物珍しさを感じながら、校門をくぐる。

クラスに入ると、悪友たちがあなたを見てにへら、と笑う。


「よお童貞!」

突然不躾なやつだ。なんだ童貞と返してやったら、俺はもう違うぜという。

そういえば土日はショーナンだかなんだかに行く予定だと言ってたな。

夏のビーチはさぞかし女の子で溢れていただろう。

しかも水着か。小麦色か。日焼け止めローションの香りか。

そういえば男からも同じ香りがする。

クッ。羨ましい。悪友たちは脱童貞のことを武勇伝のごとく語りたいらしい。

イラっとする。童貞というあだ名にもだ。


 そう、その日焼けローション、コパなんとか男はいう。お子ちゃまには早かったかな。

だと。ありえん。たかだかショーナンで脱童貞なんて今更で、ありきたりだ。

そう言ってやると、話に乗ってきた。じゃあお前はどこで捨てるんだよ。ときた。

あなたは捨てるなら、そりゃ須奈町だろう。と答えた。

教室は不意に静まり返る。じわりと、汗のにじむ匂いがした。


 須奈町のことを説明しよう。

 ご一新で焦土と化した江戸を捨てた公方様の一件以降、

東京は開港なった横浜に物資を供給するいち工業地帯と成り果てた。

都市計画などあったものではなく、とりあえず以上の意味などない無機質な区画張りに

乱雑に工場、商業施設、住居が押し込められた形になった。

 十分な区画整理のされていない街並みはそれでも猥雑な町人文化の気質を残して

それなりに発展したそうだが、東京大空襲がこれまた、全てを焼き払った。

焼け野原になった東京府をGHQが区画整理をし直し、アメリカ式の広い道路や

人工的に真っ平らにして並べた区画などはその後の経済発展に功を期したものの、

町にあった猥雑さはなくなっていった。

 だが、その猥雑でしか生きられない人々はどうなったか? 具体的には追い出された。

アメリカ軍が見捨てた海抜ゼロメートル地帯、具体的には東京湾の人工島のさらに東側にある

焼け野原に、バラックで立てた小屋や三和土で作った文化住宅もどきを立てて暮らした。

そこには貧しいもの、貧しいものを食い物にするもの、

身分や国籍の違いによって住みかを追われたもの、犯罪をおかしたものなどが集い、

ビルやバラックはいつしか改築、増築が重ねられていった。

こうしてできたのが、須奈町である。

東洋の魔窟、今なら日本のブラクラと言ったとこだろうか。


 学校を半ドンで抜けたあなたは、バスを乗り継ぎ、須奈町へとたどり着いた。

目の前には須奈町銀座商店街、というアーチがかかっており、閑散とした日中の町に浮いていた。

この看板が役に立つのは主に夜だから、仕方がない。

あなたはおっかなびっくり、アーチをくぐった。緊張する。だが、ここであなたは童貞を捨てるのだ。

 歩いていると、意外に風俗街ではなかった。正確には、そこかしこに喫茶店が多いのが目立つが、

魚屋やお菓子屋など、普通の商店街に見えなくもない。あとは瀟洒な建物が多く目につく。

ただ、入り口に値段が書いてあるから、これがいわゆるラ、ララ、えへん。ファッションホテルというやつだろう。

 ……とりあえず喉が乾いた。コーヒー、いや、お茶でも飲むとしよう。

あなたは喫茶ヴィオラという名前の店に入った。

入り口の上半分がスモークガラスになっていて、間口が狭い。

中に入ると使い込んだカウンターと、椅子、一応窓際にソファなど置いてあるが、

これまた上半分がスモークグラスで、意味はあまりなさそうだ。

「いらっしゃいませー。お一人様?」

とりあえず入り口で所在無げにしていると、

白シャツに黒いスカート、少しうねった毛先の茶髪お姉さんが声をかけてきた。

シャツのボタンを上二つ開けている。

はい、いや、そうです。と答えると、目尻を緩めて席に案内してくれた。

お尻にも目がいく。でも、よく見るとそんなに年上でもない。二つ上、って所だろうか。

「ご注文は?」そうそう、注文をしよう。茶、茶、茶、、、これか?

「これを」肉骨茶と書いてある所を指差した。

お姉さんはニヤリと笑って、はーい。と答える。まずは一息つこう。

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