弘治改元
第97話 弘治改元
この年は、二条領に住む全ての人々にとって、大きな飛躍の年になった。
もしくは、その飛躍の原動力となり、後に生まれる他国――それは日本国内の旧分国法上の他領に留まらず、明、インドからヨーロッパ文明を含め――との文明格差を決定づける年となった。
何をするにも良之がいなければ崩壊するような危うさを持っていた全ての分野が、まるではいはいしている赤ん坊が、危うげながらも捕まり歩きをはじめたようなものだった。
二条領に住む全ての人々が、良之たった1人の活力に当てられて突き動かされているように見える。
だがそれは、楽天的で陽気な気分に満ちていた。
だからこそ、誰もが自身の持てる全ての能力を惜しみなくつぎ込み、まだ見ない明日を目指して動き出した。
良之は4月には刈羽、6月には琉球、7月には台湾。
そして8月には池島で1日の休みもなく働いている。
その間何度も信長や藤吉郎から急ぎの問い合わせがやってきたが、ひとつき、ふた月と時を追うごとにその頻度は減っていった。
まさにこの年こそ、二条領は良之ひとりのまがい物の国家から「本物」の国家へと成長した嚆矢という事が出来るだろう。
すべての外地における開発、そしてその布石を終えた良之は天文24年9月下旬に、京に入った。
良之の指示に従い、京の皮屋支店では今井宗久が金に糸目を付けず人足をかき集め、二条城と相国寺の二大建造物を建造中である。
遠く、丹波や若狭、播磨、伊賀や伊勢など近隣各地域から噂を聞きつけた者達が流入し、京は応仁以来久しぶりの賑わいを取り戻している。
良之はそれらの監督を行ったあと、参内した。
「黄門。良く戻られた」
後奈良帝は、久しぶりに戻った良之を朗らかに迎えた。
「相国寺、二条城の槌音が、都を明るく致して居る。黄門、おおきに」
「ありがたきお言葉」
「……ところで黄門。ひとつ願い事を申して良いか?」
帝は声を沈ませ、良之に問いかけた。
「なんでしょう?」
「うむ。実は、仙洞御所のことよ」
仙洞御所というのは、帝が隠居をして次帝に譲位をした後、隠棲するための御所のことである。
本来、公卿であれば知らないはずはないが、良之は無論、知らない。
帝は仙洞御所について良之に細かく解説してくれた。
「……なるほど。承知いたしました。それで、紫宸殿の東にお造りすればよろしいのでしょうか?」
「引き受けてくりゃるか?」
「はい」
良之は早速、堺から武野紹鴎を呼び寄せ、仙洞御所の建設を命じた。
紹鴎を呼んだのは、隠棲後の上皇になる後奈良帝のため、大庭園を建造させるためである。
「引き受けてもらえるかな?」
「そらもう、喜んで」
紹鴎も、上皇のために庭園が造れるとあって、大興奮で引き受けた。
10月。
建設のはじまった仙洞御所の槌音の響く御所において、後奈良帝は改元を宣言した。
天文24年10月23日を以て、元号を弘治に改める。
戦乱に加え、震災や噴火、異常気象による飢饉などが続いた天文年間だった。
帝は号を改めることで、そうした時代の流れを断ち切りたいと望んだのである。
そこで、良之も銅銭の改鋳をせねばならないことになる。
早速帝に弘治通宝の揮毫を願い出て、快諾された。
余談だが、この改元について、朝廷は京から落ち延びている亡命幕府に通達を行っていない。
足利義輝は翌年まで元号を天文のまま使い続けて恥をかき、恨み言を詰問の形で朝廷に送りつけて冷笑された。
このことについて良之は無関係であるが、世間はそうは取らなかった。
良之の足利嫌いはすでに公然たる事実として、公卿のみならず地下人の1人1人に至るまであまねく知れ渡っている。
ことに、北陸大乱のきっかけが足利による能登畠山氏への扇動である事実を掴んでいる良之は、その密書をすでに、後奈良帝の目に触れさせている。
二条城が完成し、二条軍が京の都の防衛体制を固めれば、それは、おそらく14代続いた足利幕府が終焉するときになるだろう。
公家という貴族が実権を失ったもっとも大きな理由は、その徴税の苛烈さゆえだった。
荘園に暮らす庶民たちは、未開拓の地に新しい活路を求めて逃散し、やがて、その新田を守るために武装した。
彼らを庇護するために武士が興った。
武士は組織化を繰り返し、ついには荘園に攻め込んで私掠をはじめた。
やがてそうした各地の武家をまとめ上げた武家政権が登場する。
鎌倉幕府である。
後に建武の新政で後醍醐帝が公家社会の復興を目指した。
しかしやはりうまくいかなかった。ひとつの理由は、やはり過去、公卿が行った暴政の印象があまりに深く残ってしまったためであろう。
朝廷と足利家の南北朝時代は、時と共に陳腐化して終焉する。
北朝方の足利幕府は、自然消滅した南朝を吸収する形で結果的に勝利を収めた。
だが、自力で完全勝利できないような脆弱な基盤を元にした足利幕府は、結局、その最後までこの日本という国をよりよい社会へと導くことは出来なかった。
良之は、按察使である。国司の上位に位置する権力者として、各所領に国司たちを任命して統治している。
戦国大名ではないため、二条領は大名領ではない。
とはいえ、この時点においてすでに日本最大の領土を誇っている。
二条領に次ぐ規模の大名は、九州の大友、畿内の三好、そして東海の今川あたりが存在する。
彼らはすでに、いわゆる足利幕府による守護大名ではなく、独立の風を強めた戦国大名へと脱皮している。
さらにこの時期においては、まさに現在滅亡を迎えている周防の大内を吸収しようとしている毛利や、関八州にその所領を広げつつある北条なども、徐々に台頭しつつある時代である。
現状においては、未だ足利幕府が消滅すると、その権力背景の消滅によって大義名分を失う権力者は数多い。
良之はまだ、足利幕府を滅亡させたあとの日本の国体について、深く検討したことはない。
もし滅ぼせば、新たな秩序が必要になるのは言うまでもないだろう。
京における政治活動を終えた良之は、敦賀に下って船便で富山御所に戻った。
富山に戻った後も、しばらくは自身が不在中の各分野の経過視察で領地を忙しく飛び回っていた。
おおむねその経過に満足した良之は、この年じゅう考えていた計画を動かすことにした。
「御所の移転、でございますか?」
越中にいた全ての幹部を呼び出して、会議を開いた良之の言葉に木下藤吉郎が問い返した。
「うん。俺の所領で一番栄えてるのが富山だけど、今の状況だと富山御所は、京から遠すぎるんだよね」
「確かに」
織田信長がうなずいた。
「織田殿は、新しく御所を移すとしたら、どこがいいと思う?」
「そうでありますな。わしなら、稲葉山かと」
稲葉山。
斉藤家の居城稲葉山城を要する美濃屈指の要所であり、陸路に加えて木曽川の水運にも恵まれ、古くから栄えた土地である。
史実において美濃攻略を果たした信長が本拠地を移し、岐阜と改名したことで有名な土地である。
「うん。俺も同感。越中は四方が全部うちの領地になって安全地帯になっているし、あんまりここに兵力を置いておく利点はないからね」
「確かに」
一同も同意する。
「それより、南近江の六角家に備える意味でも、うちの中心は美濃に移した方がいいと思う」
良之が常時つきっきりにならなくても、この年、全てのプロジェクトは遂行することが出来ている。
そのことも良之の戦略的な視点を変えさせるきっかけになっている。
「どうかな? 道三殿と信長殿に、稲葉山への御所の移転、任せて良いかな?」
「承知しました」
信長はにやっと笑って快諾した。
彼は建設マニアというべき性癖がある。
「御所様、お任せいただけるにおいて、わしの好きに縄張りしてもよろしゅうございますか?」
「? ……もちろんいいけど」
「して、ご予算は?」
「必要なだけ使って良いよ」
「
こうして道三と信長は美濃に向かっていった。
富山から美濃への引っ越しは、陽気の良くなる来春ということにして、信長は必要とされる職人たちを数多く引き連れ、また工兵団も引き連れていった。
また、信長から北近江の
関東管領上杉憲政は、長尾不識庵を養子に取り、上杉景虎と名を改めさせた。
そして直後に家督を譲り、政の字を偏諱して、景虎を政虎に改めさせている。
自身は出家し光徹入道を名乗り、現在は平湯御所でのんびり温泉と美食三昧の日々を送っている。
一方、上杉政虎はというと、親上杉・足利であった上野・下野の国人たちから頼られて閉口しているようだった。
問題なのは、古河公方足利藤氏である。
関東公方は本来、鎌倉に在して足利家連枝として幕府を支えていた。
しかし、北条早雲によって伊豆・相模を奪われると、やがて関東公方の座は古河足利家が引き継いだ。
この古河公方は、川越夜戦において北条氏康に完膚無きまでに敗れ、実権を失い北条の傀儡となっている。
前公方足利晴氏は北条によって強制的に隠居とされ、次男の義氏を後継に建て古河公方家を継いでいる。
一方、将軍足利義輝は、旧名義藤から藤の字を与えて晴氏長男の藤氏を古河公方として擁立し、それを関東管領であった上杉憲政も後援していた。
全く以て足利将軍家お得意のお家騒動である。
他家の分裂を起こさせて、あるいは付け込んで、自身の権力を維持増大させようとするこうした行いのために、一体どれほどの血が流れたことだろう。
こうして古河公方足利家には公然と二君が並立している。
その藤氏方が、上杉政虎に庇護と剛力を望んできているのである。
一方、現状の政虎は二条方である。
二条はすでに公然と足利将軍家を黙殺し、その権威を一切否定している。
さらに北条とは同盟関係にある。
政虎は対応に苦慮して、富山御所に良之を訪ね、その対応を相談しに来ている。
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