第63話 暗雲 7


天文21年11月1日(1552年11月16日)。

越中の専業軍人の募集は、6000人あまり。

壮年で武芸が達者な3000を三隊に分け、富山城、放生津城、増山城に配備。

各指揮官の許で訓練に入る。

残り3000は飛騨の平湯で種子島や軍制についての訓練を行う。

平湯で訓練をしていた2500のうち、年少者を除いて、越中各地の警察組織として、大まかに旧国制の郡邑に300ずつ配備する。

未だ越中においては刀狩りに着手していない。

これは、越中全土を武力で統治するだけの余力が、未だに二条家に準備されていないためである。




岩瀬の二条家商館に集まっている手代たちに、ふと良之は

「朱肉って売れる?」

と聞いてみた。

「かなり良い値で。御所様には伝手がおありで?」

代表して伊藤屋の伊藤次郎左衛門が問い返す。

「うん。伝手と言うより、作れるかな?」


この時代、後世のように中国大陸から価格攻勢が行われていない朱は、国内に朱座があるほどの専売商品だった。

各大名家も、利潤の大きな朱に対しては通関免除や様々な利権を提供する代わりに、自領の発展のために利用した。

この当時は国産の朱といえばなんと言っても伊勢である。

伊勢には、朱肉、朱漆、朱墨などを作る職人が抱えられ、利益を独占していただろう。

また、堺や博多では、表向き国際貿易を禁じている明国から、倭寇やポルトガル人の介在を経て平戸に入る朱肉などを珍重していたと思われる。


手代たちは驚愕した。

朱肉は、大名や国人、それに寺社の高僧や宮司などが求めるため、言うまでも無い高額商品である。

飛騨の匠は、冬期の手仕事で肉池と呼ばれる容器を作っている。

その器は、漆塗りをされ出荷されているが、中に詰める朱肉とは別売なのである。


「それほど難しくはないけど、重労働だと思うよ。だれか職人育成からはじめる人はいる?」

手代たちは牽制しあうが、いち早く伊藤次郎左衛門が、「では」と名乗りを上げた。


フリーデに任せてあった中国産の丹は、彼女の工房で金属水銀に精製され、その後再び硫黄と反応させて純粋な朱に加工されていた。

この朱は、飛騨の匠たちに提供され主に漆塗りの原料に使われていたが、未だ大量に在庫があった。


朱肉の作り方は、この精製された朱に、ひまし油、木蝋、松ヤニなどを加えて練り上げ、液状の朱油を作ったところに、和紙やモグサ、綿などの植物繊維を加えて硬度を出し、印鑑に馴染む粘度に仕上げるのである。

朱の原料である丹ととひまし油だけは越中や飛騨では内国産が出来ないが、残りは全てこの二国で手に入る。

ひまし油も、以前良之が平戸で購入した分があるので、材料は全てそろっている。

ひまし油はインドからの輸入品だろう。漢方では下剤として用いられる。

人体では分解・消化されない油脂で、食用にならない。

適度な粘性があるため、長いこと日本ではミシン油として知られていた。

良之も、工業潤滑油なのを知っていたので、購入したのである。


ちなみに、モグサは越中に古くからある特産品である。材料はヨモギの葉の裏にある白い産毛だ。

松ヤニは、山方衆が換金商品として古くから収集を行っているし、和紙は飛騨にも越中にも産地があった。

木蝋は、ハゼノキやウルシの実を絞って取り出す高額商品だが、漆職人や山方衆の多い飛騨や越中には生産者がいるのである。


伊藤次郎左衛門に全ての材料と大まかな生産方法は伝えたが

「悪いけど、後は職人たちと研究してもらうしかないかな?」

と言った。

この手のものは秘伝が多く、原材料は分かっても配合比率はそう易々と公開されないのである。

ただ、ここまで分かっていれば、それほど時をかけず、商品化が進むだろうと良之は見ている。




従った越中の国人層から、良之はこの年徴集した年貢の買い上げを行った。

これらは、塩屋とその配下、越中を監督する斉藤道三などの指揮の下、適正な価格で執り行われた。

越中の国人たちは奇妙な感覚に襲われた。

神保家も含め、敗北した後の方が、良い暮らしになっているのである。

越中の農民たちも、木下藤吉郎らの指揮による大工事が強制労働の賦役では無く、日当の出る人足傭いだった関係もあり、また、塩屋による小売商の統括や、豊富な在庫に裏打ちされた安定供給なども相まって、暮らし向きが随分楽になっていた。

そこに、アイリたちの療養所建設、健康診断や治療、フリーデたちが供給するポーションによる治療効果も進んでいた。


良之は各村に必ず銭湯を設けるように触れを出し、石鹸を越中に供給開始した。

皮膚病のうち、寄生虫によるものや細菌感染によるものは、入浴によって予防、治療が出来る。

加えて石鹸の洗浄効果は、数々の感染症を撃退できる。

特に、食事前の手洗い、トイレ後の手洗いなどは重要だった。

そうした布告と、結核患者らへの手厚い保護などによって、越中国内の二条家への印象は好調だった。


これがおもしろくない者達がいる。

能登の畠山家。そして、越中一向門徒衆である。


良之は、ついに挨拶に来なかった越中の一向宗を黙殺した。

つまり、たったひとつきで門徒衆が実効支配する砺波南方の瑞泉寺、勝興寺、土山御坊など越中西南部は、良之が富をもたらした支配地と、ぬぐいがたい幸福度の格差が生じたのである。

当初はわずか5000の兵力と甘く見ていた二条家は、戦勝後、越中の民から一気に6000もの常雇いの傭兵を雇い入れ、それらを毎日訓練している。

また、各郡の首邑に警察という名の治安維持部隊を配置し、毎日警護をはじめている。


これよりわずか後、石山から使者を携えて下間源十郎は瑞泉寺の証心、勝興寺の玄宗らを訪ねた。

だが、彼らの二条家への侮りはぬぐいがたく、ついに彼らによる富山への訪問は為されなかった。




この頃の能登、畠山家は世情から乖離していた。

理由は、重臣たちの権力争いによって、分析力が曇っていたせいだろう。


能登畠山氏の歴史は、足利義満の頃にさかのぼる。

当時大御所だった義満が家臣である畠山満家を嫌い、弟の畠山満慶を取り立てた。

謹慎していた満家は、足利義満死去後に勘を解かれたが、それに併せて、本家を踏襲していた弟満慶は兄に家督を返した。

「天下の美挙」などと呼ばれたという。

美談というのは、人として為しがたい欲得を越えた行動に感動するから生まれる。

兄の満家も、弟に深く感謝し、分家として能登を弟に渡し、新たに能登畠山氏を興させた。


名門意識が強い。

それは、家臣団にしても同様だった。

たとえ実利が伴わなくとも、名家である。

畠山本家は管領の家柄だし、能登畠山氏も将軍御相伴衆の家格なのである。

これは、先に触れた「天下の美挙」のあと、家督を兄に返したあと、幕府から賜った名誉である。


当然、往事は管領として河内、紀伊、越中から伊勢や山城までを守護とした畠山家の分家として権威を誇っていた家臣団から分家にも家臣が入っている。

それが土肥氏であり、神保氏であり、遊佐氏である。

中でも守護代遊佐氏は、国人層である長氏や温井氏と執拗に権力争いをし、ついに七尾城を一部とはいえ焼くに至った。

これを受け前年天文20年に家督を嫡子義綱に譲って国主畠山義続は隠居。

大名個人としての能力を問われた義続・義綱親子に代わり、能登7人衆などと言われる重臣たちによる国家運営が開始された。

そもそもの発端が家臣間の権力争いである以上、解決のためには大名である義続の支配力や指導力が必要だった。それが結局、隠居して権力争いをしている者達に運営を託すというのは、火に油を注ぐようなものだった。


能登がこうした状況だったことは二条家にとっては幸運ではあった。

だが、能登畠山家は、代わりに大きな面倒ごとを二条家に降りかからせた。


「将軍家から?」

良之は、伝令に問い直した。

「はっ。細川兵部大輔殿、和田伊賀守殿と名乗られて居られます」

「わかった。会おう」

良之は、謁見室に使っている富山城の武家屋敷、元は神保家の居宅だった館で引見した。


「細川殿、和田殿、お待たせしました」

良之は当然のように上座に座る。

それにむっとしたのは細川兵部だ。

「二条殿。畏れ多くも大樹公よりの使者で御座る」

「細川殿。あんた俺のことどこまで知ってるんだ?」

「関白殿の弟御であるとか?」

「なるほど。お宅の大樹公は位階は? 俺は正三位、参議、左近衛中将、大蔵卿。飛騨国司で、越中国司だ。いつからお宅の征夷大将軍は、俺を従えたんだ?」

そう言って、良之は立ち上がり、この部屋を去って行った。去り際に当人たちに聞こえるよう、

「隠岐、無礼者をつまみ出せ」

と怒鳴りつけた。


初手を誤った。

細川兵部は歯がみした。

二条家は、足利将軍の偏諱を受ける公家だ。

現関白でさえ、前の将軍義晴の偏諱を受け、晴良と名乗っている。

だが、良之は違う。

理由は分からないが、彼は一度として将軍御所には来なかった。

しかも、飛騨にしろ越中にしろ、彼は自分が「国司」であると自称した。

もし彼が「国司」であるなら、同じ朝廷の権威によって「征夷大将軍」の地位にある足利家は、手出しが出来ない。


富山城からこそ突き出されたが、城下への滞在は邪魔されなかった。

2人はこの日、宿を日枝神社に求めていた。

「兵部殿。一度都に戻りませぬか?」

和田伊賀守は、相役の細川兵部に持ちかけた。


和田は気づいている。

細川が、無理筋を承知で将軍の権威を振りかざさなければならなかった理由。

それは、越中を守護である畠山家へ返還せよという一方的な通告だったからである。

具体的には、能登の畠山家に明け渡せという話である。


だが、それをあの公卿は分かっている。

だから、ああやって話を聞こうとしなかったのでは無いか?


和田にとっては身内に近い伊賀・甲賀の手の者が多数この公卿の元で働いている。

だから二条良之という公卿の尋常ではない知性と能力については聞き及んでいた。


神保が二条に手を出しさえしなければ、おそらくあの公卿は越中など眼中に無かったはずだ。

それを山下大和守という白川の国人に乗せられた神保が敵対行動など起こすから話がややこしくなった。

そして、能力も無いくせに欲を出した畠山に、同じく能力のない足利将軍家が便乗している。


そして、あの公卿は室町幕府とは全く無縁である。

実力を持った公卿であり、彼の国家統制における権威の源は国司だった。

朝廷における権威で言えば、現状、征夷大将軍である足利義藤より上なのである。


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