第52話 飛騨での内政 3


新三郎の母と妹は、平湯に転居した。

その身体検査で、アイリは彼女達が「労咳」であると気づいた。

労咳、結核である。


急いでフリーデのマジックポーションと共に治療を開始し、2人は数日かけてやっと、顔色が戻ってきていた。

「良之様、この病は前の白癩と同じく、細菌性なのでしょうか?」

だとするなら、フリーデにもアイリにも根治は難しい。

彼女達はあくまで対症療法で菌に冒された肉体を癒やすのみで、細菌の撲滅にはイメージが届かないのである。

実際、彼女達の世界にも結核はあったが、やはり、再発と寛解を繰り返すのみで、根治した例はほとんどなかった。


「わかった。とにかく俺は治療薬を探す。アイリは、彼女達の体力を回復させるよう、食事を見直してくれ」

良之の指示で、新三郎の母と妹は、食事による体力回復と、温泉入浴による衛生面の向上と言った闘病がはじまった。

接触させるのはアイリや千を含めた数名のみを指定された。

彼女達と新三郎には、その理由を根気強く説明した。

結核菌は、飛沫感染である。

彼女達にも、治療看護する者達にも、良之が錬成したマスクの着用を義務づけた。


結核が広まる地域として、冬場の空気が悪い寒冷地が多かったのは、締め切った屋内で微細な燃焼灰が浮遊する、換気の悪い居住空間は無縁ではなかっただろう。

不完全燃焼によるすすなどによるじん肺も、同様に深刻だった。

良之は、医学書によって彼の時代の薬剤を特定。

その分子構成を分子辞典で参照して、治療薬を錬成した。


イソニアジド、リファンピシン、エタンブトール、ピラジナミドという四種の抗生物質を毎日服用。

その後4ヶ月を経過したら、イソニアジド、リファンピシンの2剤による投薬治療に切り替える。

ここまででもし未だ結核菌が陽性であれば、エタンブトールに代えてストレプトマイシンの筋注が必要になる。

ここに挙げられた薬はどれも効果は強力だが、強い抗生物質は副作用もその分強い。

そのため、たとえばビタミン剤の投与、抗ヒスタミン薬の処方なども行われるようだ。

とにかく、飲み薬の錬成についてはまだしも、筋注を毎日行うのは出来れば避けたい。

注射に関するノウハウは、全くの素人でしかない良之のみにしかないからだ。

今回の事態にあたって、良之は、アイリと千に、注射の修行をさせるべきだと強く思った。

良之の時代だったら医師法に反するが、ここは戦国の世である。


この治療法が、これほど強い抗生物質を使い、ここまで執拗に行われるのは、理由がある。

抗生物質に耐性を持つ結核菌が生まれるからである。

耐性菌がもし殺しきれず世界に広まってしまうと、それは人類史に新たな脅威が生まれることとなる。


新三郎にもアイリが治癒魔法を用いたが、彼には元々結核の症状は出ていなかったようである。

結核菌の場合、栄養状態や健康状態によって、鼻や喉の粘膜で侵入をシャットアウトできる。抵抗力が弱っている時に発病することが多いのだ。

新三郎は隔離されなかったが、それは、母や妹という、彼がこの世に生きる理由そのものと割かれる事になる。

新三郎は毎日、アイリのところにやってきては、遠目から2人の様子を見て彦右衛門の元に参じる。

その様子があまりにも健気で、アイリや千、そして彼女達の弟子となった10人の子供達は、胸を詰まらせた。

その話を聞いた良之は、

「大丈夫。半年の辛抱だ、そしたら一緒に暮らせるさ」

と新三郎を励ました。

新三郎が来ると、アイリたちは2人を新三郎に見える場所へ案内する。

毎朝2人に手を振って、新三郎は出かけるようになった。


結核の検査はしたいが、さすがに顕微鏡の手持ちはない。

「フリーデ、アイリ、顕微鏡作れる?」

「いえ、さすがに。使い方は分かりますが……」

フリーデが言う。

「あの。私、持っています」

アイリが<収納>から出した顕微鏡は、光学式の割合しっかりしたダイキャスト製だった。

「なぜ顕微鏡など持っているのですか?」

「返しそびれた学校の備品なのです」

あなた……フリーデはそのアイリのずぼらさに呆れるが、

「ありがたい」

良之は即座にアイリから顕微鏡を奪うと、2人が止める暇もないほどの手際で分解してしまった。

そして、全ての構成部品について錬金術で模造し、2台の顕微鏡を組み上げた。

そこから連続して10台の顕微鏡を複製して、アイリとフリーデに預けた。


顕微鏡が開発されたのは1590年、オランダのメガネ職人ヤンセン親子が発明したとされている。

真偽は定かではないが、望遠鏡の反対から覗いて原理を得たとされる逸話が有名である。

いずれにせよこの時代には、まだ存在していないテクノロジーである。

「これをうちの職人で作らせようと思うと、ガラス職人とレンズ職人が必要なのか。先は長そうだね」

レンズは自然鉱石に産出する透明度の高い宝石でも代用できるだろうが、ガラス職人については、1から育てなければならない。

確かに良之の言う通り、気の長い話になりそうだった。




結核菌の顕微鏡検査では、発見者の名を取ってチール=ネルゼン法と呼ばれる、染料によって感染者の痰中の結核菌を染色してカウントする方法がとられる。

幸いなことに、良之の手持ちの資料からその全ての染料の由来が判別した。

カルボールフクシンは塩基性フクシンという既存の紫色した染料にアルコールと石灰酸を加えて作る。

これに、耐酸性菌である結核菌以外を洗い流す1%塩酸アルコール。

そして、紫に染まった結核菌以外の物を青く染め、色差で菌を寄り視認しやすくするメチレン青液を使用する。

その検査法をアイリに教え、検査が出来る人間の育成を依頼した。


結核予防については、まずは住民の栄養改善、衛生意識の向上と、感染者の隔離治療が必要だった。

これは、いかに優れた科学力を持つ良之や、強力な魔法治療を持つアイリ、錬金術師のフリーデをもってしても、一朝一夕には成し遂げられないであろう。

とにかく、専門知識を持った人材を1人でも多く育てる、そこからこつこつとやっていくしかないのである。


良之は、

「労咳は治せる」

と全土に触れを出させ、患者を全員平湯に集めさせ、療養所を建設した。

療養期間の生活の保証や、退院後の身分の回復を良之の名において保証したので、患者は飛騨全土から集まった。

中には、内ヶ島や姉小路という対立した国人の領民もいたし、遠く、美濃、尾張、加賀や越中から訪れた病人もいたという。

良之は構わず受け入れさせた。

500人近くの患者が集まったため、比較的症状の軽い患者にも、看護を手伝わせる。

そして、ここの患者には栄養価の高い食事。米や肉、魚を与えた。


アイリ班30人、お千の班も同数に拡充し、とにかく、回復魔法の習得に努めることを最優先させた。




新三郎も、この施設で働きたがったが、残念なことに、科学的な素養も、魔法的な素養にも恵まれなかった。

滝川彦右衛門は彼に、槍と鉄砲を仕込んでみた。

こちらには優れた才があり、彦の弟子としては急速に力を付けていた。

また、この少年は持久力があり、平湯から神岡、平湯から旗鉾への伝令として日夜駆け巡った。

足も速い。

専門職である草の者達ですら、年若いこの少年に一目置くほどで、いつしか、里にいた頃とは比べものにならないほど、彼は周囲から認められ、期待されるように育った。




木曽左京大夫の嫡男で、すでに国を譲られている木曽中務大輔義康が、供回りを連れて平湯にやってきた。

この時期、良之は多忙なので、父の左京大夫に飛騨各地の案内などを任せ、良之はあいさつのみで済ませた。

「どうか、ゆっくりおくつろぎ下さい」

せめてものもてなしに、贅を尽くした食事を共に摂って、翌朝には旗鉾に戻った。


木曽義康は、父の案内で鉄砲訓練などを視察、また、労咳を治す病院を建てたことにも驚き、さらに、寄生虫予防のため人糞を廃し、化学肥料を提供したことや、鉱毒対策のため沈殿池を作っていることや、その材料のコンクリートなどにも驚嘆した。

だが、彼が本当に反骨心を折られたのは、行く先々で無数に見かける蔵と、その蔵が足りずに飛騨中で新しい蔵が建造されている現実だった。

「勝てるわけがない」

義康は、父の書状に記されたことが大げさではなかったことを察した。




天文21年は、新年早々に天下が動いている。

京の都を落ちた足利将軍家を支え続けた近江の六角定頼が1月2日に死去すると、継いだ義賢は日和見な態度に国論を修正。

そこで、従前から三好家による関係修復を打診されていた室町幕府は三好長慶と和睦、感情論から三好とは断絶している細川晴元を残して京都に帰ってしまった。

これが1月28日のことであった。

翌月2月26日。京に上って将軍足利義藤に面会した三好長慶は、室町将軍の御供衆に任じられ、名実共に将軍家の陪臣(細川氏の家来)から直臣に出世している。


この時代の日本という物を表す出来事がこのあとふたつ起きる。

ひとつは、陸奥の浪岡御所に在住する浪岡北畠氏が、京都の朝廷に官位を求める運動をしていることである。

当主北畠具永の四位昇進と、嫡孫北畠具運に式部大輔の叙任を公認させる運動である。

いうまでもなく、この時代、陸奥は日本の最北端といえる。

そうした土地の貴人でさえ、京都への使いを出している。

現代人は、戦国武将や庶民は一生領地にいるように考えがちであるが、実際は、かなりの交通量があったのである。

また、このあと6月には、今度は最南端の島津氏が、同様に官位のことで京に使いを派遣している。

島津貴久は従五位修理大夫を正式に認められ、また、室町幕府にも面会し、嫡男島津島津又三郎に義の字を偏諱している。


この年の3月には、関東管領上杉氏の平井城が北条に落とされている。

上杉氏は、川越夜戦による圧倒的敗北によって国人衆の支持を失い、この侵攻にもはや誰も救援に立ち上がらなかったらしい。

逆に、北条は侵攻に際し与力した国人衆の所領を安堵し、着々と勢力圏を広げていった。

平井を落ちた上杉憲政は、厩橋の長野氏を頼って逃げ延びた。


関東管領上杉の失脚は、武田が攻略する北信濃にもはっきり影を落とした。

抵抗勢力として存在する大小の国人は、武田を側面から牽制し、この戦いのイメージリーダーであった関東管領という権威を失った。

日増しに武田に誼を通じる国人層も増えてきている。

これは、村上と上杉の権威が失墜しつつある状況下で、積極的に山本勘助や真田弾正忠幸隆が信濃の豪族たちを懐柔している事による。


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