第49話 美濃へ 2


良之の依頼した倉庫町については、遠山氏から親切にも、

「苗木に作るより、南岸の一帯に作った方が良い」

というアドバイスがあった。

一つには木曽川が暴れ川のため、荷は渡しになる。

大雨などで川が暴れれば長期に船止めになるので、西濃からの荷は、南岸に集積場がある方が良い、というもので、なるほどと良之も理解した。

千旦林せんだんばやしという地に適当な町割りをもらい、さらに、大工人足から着工まで遠山氏が請け負ってくれるという事だったので、良之は前金で1000両を渡し、依頼することにした。


次に、良之が案内した鉱山の候補地について、見佐島、蛭川、遠ヶ根などについて美濃の金山衆と諮ることを約束した。

良之も、選鉱に対して協力することと、この時代にそれほど有価値ではないいくつかの資源、たとえばマンガンやタングステン鉱については良之が購入を約束し、錫については土地の金山衆が精錬して納めてくれることになった。

さらに、蛭川宮ノ前にある良質な御影石の石切場を教えた。

こちらについては、良之は一切報酬を要求しなかった。




いよいよ、明知へ出発である。

案内は明知遠山の領主相模守景行が務める。


良之の求めた粘土は、彼の資料では土岐口陶土層とされている。

その地層の上には、河川によって運ばれた砂礫層が積もっている。

この粘土層の獲得のためには、まず上層部をこそぎ落とし、粘土層を露出させて資源としなければならない。

そうした地層が、断層上ではっきり視認できるからこそ、最初の資源化が可能になるのだ。


岩村から西に向かって、小里川という川が流れている。

川沿いに降ると、山岡という地がある。

地名の起こりになった山というのは、この集落の南にある断層隆起した丘だろう。

良之たちは、この川沿いに断層を探した。

「あった」

内心、良之は喜んだ。

いつ起きた断層か次第では、良之の知識にあったとしても発見できない可能性がある。

そうした懸念を抱えつつ、不安を一切顔に出さず探して歩いていたのだった。


美濃には、焼き物の職人が多数いる。

鎌倉期に、かれら遠山の祖先である加藤景正という人物が中国で技術を学び、瀬戸で陶芸窯を開いた。いわゆる瀬戸物である。

そうした職人のうち、遠山で融通の利く人数を集めてもらい、良之は耐火レンガについてレクチャーをした。

基本となる寸法は、並型と呼ばれる規格を提示した。

210×100×60mm。

この寸法できっちりした青銅の寸法を作って提供した。

当然、レンガも焼き物なので、焼成すると縮む。

そのあたりは、職人たちが経験で学んでもらうしか無いだろう。

良之は、木で枠を作り、粘土を押し固めたあとで枠を分解する成形法なども伝え、後事を託した。




美濃での重要な課題としては、木曽川衆と呼ばれる、沿岸の商圏や流通を押さえている川衆との面会である。

川衆は本来、産みの海運に対する川の舟運に関わった庶民たちの組織である。

世が乱れると、当然こうした流通事業者は、野盗強盗などの獲物になる。

そうなれば対応策として川衆たちも武装する。

また、下りの木材筏や物資輸送の舟は速度が出るが、上り舟というのは、難所などでは舟に縄を張って、両岸から人力、馬や牛と言った家畜の力を借りて引き上げることになる。

そうした人間の社会が形成されていくと、必ずそこには、何らかの権威をもって彼らを束ねていく人物が現れ、そして、ある種の権力と武力が発生するようになる。

それが川衆である。

尾張と美濃の場合、舟運に最適な河川が三筋もある。

揖斐川、長良川、木曽川だ。

川衆はその川筋ごとに棲み分けることで不要な対立を避けるようになり、むしろ金次第で共同で事に当たるようになっていく。


この時代、後世ほどでも無いが、食糧を自給せず、商業や工業、そして彼らのようなある種のサービス業に従事している者達は、武家や貴族、そして農民を中心にした土豪などから低く扱われた。

殊に、殺生を行う猟師や漁師、金を扱う商人や職工、そして死体に触れる穢多と呼ばれる存在や、彼らのような河原者と呼ばれる者や海賊と呼ばれる者などのいわゆるサービス業者は、銭傭いの戦力として要求されることでも無ければ、自分たちを高い身分と定義した者達からは接触されないものだった。

戦国の世が終盤にさしかかると、そうした中から何人も武家に転じる者が現れた。

だが、それらでさえ、自分たちは源平藤橘いずれかの出自である、と家系を作らざるを得なかったのである。


木曽川衆は、川衆の中でも織田家に属している者が多い。

最下流から舟を守りつつ難所においては縄で引くのが蜂須賀の手のものである。

やがて舟が川島あたりまで北上すると、坪内の手の者が引き継いでいく。

こうして舟は飛騨川と木曽川の合流点である川合まで遡上して、この湊に入る。

この上は、木曽川の八百津の湊か、飛騨川の川湊に別れていく。


彼らの日常の九割方は平和なものであっただろう。

雨が降れば休み、川が濁れば休む。

川衆の舟を襲うのはよほど飢えているか、よほどの無知かである。

川の上の舟、という戦術的に不利な庇護者を守りながら戦う術に長けた川衆は、弓、長槍を器用に使い、良く鍛えられた野犬の群れのように、号令一下敵に襲いかかる。

年の半分を農作業に費やし、オフシーズンだけ合戦に参加するような農民の兵とは格が違うのである。


故に、国人として彼らは腕を買われる。

儲かる戦なら喜んで参加するが、どちらに転ぶか分からないような微妙な戦では静観する。

彼らは、その日常業務故に情報通でもある。

荷を託す商人たちや、職人たちから、日常的に様々な情報を聞き出している。

独特の感覚を備えているといえるだろう。


同じような存在として、尾張には生駒氏があった。

生駒は元は染料や油を商う商人だったが、馬借という、馬の背に荷をのせて運ぶ輸送業で栄えた。

それだけで無くその業務中に得意先や行動範囲で馬借たちが得てきた情報によってこの時代屈指の事情通にもなっている。

生駒家は、弾正忠織田家の二代、信安と信秀に正室を送り込んだ土田氏と縁戚であり、そこから土田の家子を養子に迎えて、分家生駒家を作っている。

本家生駒氏からは、信長の側室吉乃が、分家生駒からは信長の家臣生駒親正が出ている。

ちなみにこの生駒氏は蜂須賀とも関係が深く、また、坪内とも縁戚関係を結んでいる。


生駒が商う馬借は、馬の背に、縄で結んだ二俵の俵を左右にのせて馬丁が引いて配達する商売で、多量の専従者を抱えていたが、オフシーズンには地域の百姓たちも小遣い稼ぎにこぞって参加した。

馬丁は荷を狙われやすい存在であったために独自の軍事力を持つようになり、結果としてその実力と資金力、そして地域の信頼の高さから国人化したものが多かった。

飛騨の塩屋なども、その類いであっただろう。


良之はそのような美濃、尾張の商人、川衆、馬借の元締めたちにいちいち面会し、金を渡しては、荷物のことをお願いして歩いた。

これについて歩いたのは、上総介信長と、長尾虎、そして、信長の小姓の前田犬千代だった。


彼らに対しての信長の知名度は大きかった。

その多くは大うつけとしてのものだったが、うつけと侮っていた多くの者達は、良之の家臣として狩衣を纏い烏帽子をかぶった信長の偉容に圧倒されていた。

そして、男装している虎御前の倒錯した美貌もまた、尾張や美濃に響き渡るのだった。




ひとまずあいさつ回りを済ませた良之は、明知城から岩村、そして苗木を通り飛騨に戻っていった。

帰りの道中は、信長の家臣たちを引き連れての旅である。

そこには、意外な人物も加わっていた。

柴田権六と平手政秀である。

また、信長の奥方で道三の娘の美濃の方、さらに、少年期から信長の側室だった生駒の方も同道している。


斉藤道三も次男と三男、それに数人の老臣を連れて現れた。

前回のたびにも同道した明智光安や竹中重元、猪子兵介らである。

斉藤家は現在、美濃に再度入った土岐家を攻略中らしい。

いずれ落ち着いたところで、飛騨へ何人か、孫四郎と喜平次への付け家老を送りたいと言っていたので、良之は了承した。


織田家の女中陣は、当初は尾張から飛騨という引っ越しに都落ちのように嘆いていたが、いざ飛騨・平湯に着いてみると、海こそは無いものの意外と風光明媚、食べ物はうまくしかも温泉入り放題という。

ホームシックだけはどうしようも無いが、それでも皆、徐々に飛騨の暮らしに慣れていったようだった。




平湯に戻ると良之は、真っ先に滝川彦右衛門と下間源十郎の報告を聞いた。

「迫撃砲、なんとか使い方を理解いたしました」

彦がいった。

要するに飛ぶ距離は一定なので、打ち出しの射角によって弾着の位置が決定する。

彦と源十郎は、これをこまめに記録させ、また、発射筒の向く方向を簡単に調整するための原始的な照準器を取り付けていた。


良之が作った81mm迫撃砲は、簡便な筒に二脚の支脚を持ち、筒の底に撃針が付いている、いわゆる「ストークス砲」である。


余談だが、この武器は1915年にイギリスの農具メーカーの専務だったウィルフレッド・ストークスが発明した。

筒の前から弾薬を重力による自然落下で落とすと、弾薬の尻に付けられた雷管を筒の底の針が叩き、雷管が燃えて発射火薬に引火する。

発射火薬の燃焼ガスによって発射物は飛翔する。

だが、ストークス砲にとっては、発射速度やそれを保証する砲身の強度はそれほど問題では無い。

発射物である弾薬が自分で飛ぶので、初速を要求される大砲のような強度がそもそも要求されないのである。

銃や大砲は、密閉された筒の底に火薬を敷、重量物である弾丸や弾頭で塞いで火薬に点火する。

点火された火薬は一気に体積を膨張させ、行き場を失ったガスが弾丸を高速で押し出して飛ばせる。

当然、弾丸を飛ばすためには筒や砲底に、その爆発エネルギーに耐える強度が要求される。

砲底に亀裂でも入ろうものなら、次の発射で大惨事が起きるからだ。


迫撃砲にとっても同様なリスクがある。

砲身先端から投入した迫撃弾が不発だった時である。

40度以上の射角を付けて筒の中に落とし込まれる迫撃弾の発射火薬が不発だった場合、当然底から人力で不発弾を取り除かなければならない。

その際にもし暴発すれば、その射手は、控えめな表現で言えば「大変危険である」という事になる。


話を戻す。

彼らが取り付けた照準器は、射線の方向を決定するもので、いわゆる拳銃の照準と共通する思想の物だった。

飛距離と射角を経験則に頼る以上、照準はこの程度で充分だった。

良之はその工夫を褒め、採用した。


「問題は、最低1回は試し打ちをしないといけないことです」

彦が言う。

訓練場でいつも同じ的を狙っている分にはいいが、発射地点と目標の高低差がある場合や距離感の分からない初見の場合、試し打ちをしないと手も足も出ないという。

「じゃあ最初の一発は、音と光がやたら派手な空砲でも作ろうか?」

虚仮威こけおどしである。良之の提案に、彦はにやっと笑って

「そいつぁあいい」

とうなずいた。


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