第34話 初めての城 5


神岡には、土地の鍛冶がいた。

良之は、錬金術で精製した純鉄の粒を提供して、その使用感を試してもらっている。

「親方、どうです?」

「……ああ御所様、これは」

ぺこりと頭を下げ、鍛冶はいう。

「素晴らしい出来に上がりますな。ただし、そのままですと柔くて使い物になりませぬ」

いい目をした親方だなと良之は思う。

純鉄は言うまでも無く一切の炭素、酸素を持たない。

金属としては安定した物質だが、鍛冶屋の望む鉄の性質、たとえば日本刀の皮鉄なら、剛直で固く、心鉄ならしなやかで柔らかい。そういう炭素鋼の特色を一切持ち合わせない。

「ただし、一度沸かして打ち直すと、良い鉄になります」

親方はいろいろ研究をしたようだ。

沸かし行程には炭素が混入する余地がある。

沸かしたあとなます行程で、わら灰でなますと、適度な炭素を供給出来ることを鍛冶は経験から知っているのだろう。

品質が一定である以上、使い方を把握すれば最良の素材だ、というようなことを親方は言った。

良之は喜び、蔵に5000貫以上純鉄を積み上げた。やり過ぎである。親方はあごが外れんばかりに驚いていた。


同様に、平湯の鍛冶にも純鉄を供給する。

良之の供給源は言うまでも無く、神岡や各地で入手したのろやカラミといったいわゆるスラッグであり、ほぼ産業廃棄物であるためコストは全くかかっていない。

「沸かしたあと灰なましをして使って下さい」

平湯の鍛冶に指示をして、ここにも5000貫ほど供給した。


「鉄は国家なり」といったのは鉄血宰相ビスマルクだ。

「鉄を制する者が天下を制する」などという言葉もある。

どちらも意図することは同じである。

良之は、後に至るまで、このときの純鉄供給が飛騨に産業的優位を与えたことに気づかなかった。

飛騨地方では鉄製品の生産量が飛躍的に増大した。常に鍛冶は人手不足になり、やがて各地から、良之の領地に鍛冶師やその志望者が集うことになった。




逓信総合博物館に所蔵されている宿村大概帳によると、開幕後、徳川家康は大街道を6間、小街道を3間、補助路を2間と定めた。

一間が大体1.8メートルなので東海道など主要幹線道路は10.8メートルの道幅を指定したことになる。


現実にはそううまくいかなかったようだ。

江戸から品川までのような平地ではともかく、街道工事が山間地に入ると、当時の行政担当者たちは道幅については妥協せざるを得なかった。

それでも、かつては等高線地図の標高を表す線に沿って右に左に九十九折りで登って、山の尾根沿いにふらふらと付けられていた道が、想像を絶する人海戦術によって、まっすぐな街道として整備されている。


この工法を「切り通し」という。

行く手に山があれば人力で谷を作り、平地でもわざと地面を削いで道路を作り、そこに河原の砂利を敷き詰め、その砂利を丸太や板で叩き馴らして平らにして、牛馬や荷車の通行を容易にした。

さらに、切り出した土砂を路肩に積んで突き固め、水害への備えとした。

この頃切り通しで作られた街道の名残は、鎌倉や日光、箱根、京などで残っている。


この工法自体は古い。

鎌倉街道。「いざ鎌倉」の言葉と共に知られるこの政策道路は、当時の土木技術を発展させた。

同時に切り通しの技術も爛熟した。

中にはトンネルまで掘られた街道が現存している。

鎌倉当時の建設工具のことを思うと、どれほどの人力と期間がかけられたのかが偲ばれる。

その鎌倉道には、もう一つ、後世の街道とはっきり違う特徴がある。

戦略道路であるため、道幅が異様に狭いのである。

場所によっては、一間かそれ以下という事もある。防衛側が敵を隘路に閉じ込めるという思想で作られているのだ。

一方、江戸期に開削された街道は、経済道路である。

荷車が上りと下りですれ違えることを意図して作られているため、平坦で、直線的で、広い。


良之が黒鍬衆と金山衆、そして彼らが指揮する労夫たちに指示したのは後者である。

現在平湯から神岡につながっている鎌倉道は、狭い上に激しく蛇行し、場所によっては、その後ほぼ廃れていたため、川の氾濫などによって切れている。

深い山中でもあり、山の崎がノコギリの歯のように入り組んでいる場所もある。

そうした場所は、掘削させた。

川が邪魔であれば、川底を浚わせ付け替えさせた。

浚った土砂はそのまま堤防として築かせた。

さらに、橋を架けさせた。

従来の思想とは全く異なる工法を粘り強く親方衆に説明し、やがて、彼らのスキルとして定着することになる。




江馬左馬介と塩屋筑前守は検地に難儀している。

良之はその状況を聞き、

「今の年貢の割合はどうなってます?」

と聞いた。

飛騨はさほど国人の権力も強くない。場所にもよるが、実質は五公五民程度がいいところらしい。

「十月中に検地を終わらせることが出来た村は、来年四公六民にします。出来なかった村には賦役を課します」

全ての村長に告知して下さい、と良之は命じた。

効果はてきめんだった。

江馬領も塩屋領も全て、十月中に検地を終え、戸籍も更新された。




飛騨の山方衆、匠衆、それに木工職人たちの主立った者達を集め、良之は、棹銅箱を量産するよう斡旋した。

以前小田原で箱根職人に作らせた棹銅箱である。

この地も冬期は雪に埋もれるので、こうした家内工業には受け手が居るだろうと考えたのだ。

箱の角を補強する金具や釘は、現在平湯に集まっている鋳物師や鍛冶師たちに作らせればいい。

一つ三百文の値を付けたので、職人たちは関心を持って、寸法を測ったり木組みの工夫を考えたりしつつ帰って行った。




良之は、多忙を極めた諸事が一段落付いて、やっと鋳銭のあれこれを考える時間に恵まれた。

造幣所をどこに建てるか。

その条件は、交通の便が良く、防衛に適していて、平地があることになる。

やっぱり神岡かな、と考えている。


良之の考える銅銭製造は、一口で言うとプレス打ち抜きと打刻だった。

彼が見学した造幣局の製造法と同一である。

まず、地金を板金にして巻き取る。

その板金を加熱しながらプレス機で円形えんぎょうに打ち抜く。

打ち抜かれた円形は再び加熱され、高速回転する洗濯機のドラムような機械で縁が作られる。

これには真ん中に心棒があり、ドラムと心棒の隙間が、その硬貨の直径にぴったりになるように調整できるものだ。

この機械の中で高速に延慶は回転を繰り返し、硬貨の縁が出来上がる。

これを酸で洗浄する。工程中に付着した油脂分を取り除くためで、酸で洗ったあとアルカリ中和を行い、良く水洗いされて乾燥機にかけられる。

そして、最後の工程がプレス打刻だ。

硬貨の打刻は極印こくいんと呼ばれる。

偽造を防ぐためにはこの刻印は常に正確に同一で無ければならず、かつては造幣局にはこれだけを一生涯の仕事として勤めた彫刻師たちがいた。

この部分は、良之が錬金術で複製したらいいと考えている。


この打刻機によるプレス生成を、日本の造幣局では最大、一分間に1500枚の速さで生産できるという。

工場見学でその話を聞き、驚いた思い出があり、良之の記憶に深く刻まれている。


ここまでの工程を工業化する。

それに必要な工業設備を良之は想定した。


まず、地金の圧延に必要なのが鋳炉とローラーコンベアとモーターだ。

加圧には油圧も必要になるだろう。

次に円形にコインを打ち抜くプレス機。これも数十トンの油圧プレス機とプレス形が必要になる。

回転ドラムには、加熱器とモーター、洗浄器には産業ロボット、乾燥機には加熱送風機。

最後の貨幣打刻には、プレス機。

良之は、可能なら銭らしい四角い穴を開けたいと思っているが、おそらく、これが最後の技術的な課題になると思われる。

言うまでも無く、ここまでの工程で最も必要になるのは電力であり、次に、人力である。

全ての工程を自動で行うにせよ、機械を知り抜いた職人の監視が必要になるし、不具合に対応出来る知識も求められる。

完成品の検品も1000枚ごとに一貫として束ねるのも人力に頼るしか無いだろう。


油圧はパスカルの原理である。この原理を応用した器具を作成するために、この戦国時代で問題になるのは油の調達だった。

大山崎の油座を見学したのは、このためだった。

結果ははかばかしくない。

植物油生成のプラントを作らねば、到底数十トンの品質が求められる油圧プレス機に使うことは出来ない。

また、露天掘りである越後の原油もあまり油脂の精度に期待できそうに無い。


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