孤塔奇譚
セイ
第零章 天国の陰 …年代不詳
この章に収められた物語は「写本」のみが伝わり、原本は確認されていない。
内容から類推される年代は「塔」システム草創期をうかがわせるが、既知のいずれの資料とも大きく異なっており、裏付けが取れない。
また、一部登場人物について、幾つかのストーリーから特徴を取ってつなぎ合わせたと思われる節がある。
したがって、この物語については「塔」システムの存在を知っていた何者かが手すさびに書いた偽史に過ぎないというのが、今のところ研究者の一致した見解である。
――――――――
一
その塔は、昼なお暗い森の奥深く、木こりや守人すら訪れぬような所にあった。
この国の者なら、誰もが知っていることだった。
だが、いつからそこにあるのか、またなぜそこにあるのか。
人々は、それを知らない。
だが、彼らは寝物語に、子や孫に語るのだった。
「あの塔には、悪魔が住んでおってね……」
* * *
暗いらせん階段に、足音が響く。
いっとき闇の中に跳ね返ったそれは、うねりながららせんの底へと吸い込まれていく。
(……あの塔には、悪魔が住んでおってね……)
松明の灯りが、らせん階段を上っていく。二つの足音を引き連れて。
(……人を捕らえては、生きたまま喰うのだそうだ……)
らせん階段のさいはてには、大きな鉄の扉。
錆び付いた鍵を開ける音。
(……あれこそが地獄の一丁目……)
扉が開く。灯りを飲み込み、再び閉まる。
(……生きて帰った者などおらぬ……)
後にはただ、無明の闇。
(……生きて帰った者などおらぬ……)
* * *
王国は、小さな森林国家だった。
三つの大国に囲まれていることがかえって幸いし、三国のにらみ合いの内に千年の独立を保ってきた。
憂いも災いもない、平和な地。人々は、ささやかな喜びと幸せを手にしていた。
しかし、そんな国にも陰の部分は確かにあった。ほとんどの者は知らないけれども。
* * *
逆さづりの体が、松明の光の中に生白く浮かぶ。
それを調べる手。
「……死んだか」
低い、しわがれた声。
「……死にました」
静かな声。
死体をおろす、四本の腕。ごつごつした壮年の腕と、すらっとした若者の腕と。
「六日、か。意外に頑丈な奴だったな」
「ええ」
松明の光に浮かび上がる、生きたものの顔。
壮年の男の顔は、ちょうど獲物をしとめた蛇のように薄く笑っていた。
若者もまた、笑っていた。
それはまるで、冬空のもと冷たく冴え渡る三日月か、研ぎ澄まされた刃にも似て。
* * *
(……あの塔には、悪魔が住んでおってね……)
(……人を捕らえては、生きたまま喰うのだそうだ……)
(……あれこそが地獄の一丁目……)
(……生きて帰った者などおらぬ……)
昔語りは、奇しくも事実を指していた。
「悪魔」は、確かに塔にいたのだ。王の陰の側近として。
拷問官、という名で。
自白の強要。薄暗い政治の駆け引きには、時にこういう手段も必要だった。
「平和」なこの国でさえ、例外ではなかった。
もっとも、拷問官みながそのためだけに働いていたかどうかは、彼らに聞かねばなるまいが。
* * *
『師匠』
若者は、壮年の男をそう呼んでいる。
十二年前、森のはずれにあった家が夜盗に襲われたとき、一人生き残った子供が彼だ。
そして、森をさまよっていた彼を拾って養い親になったのが、『師匠』だった。
その『師匠』のもとで、彼は拷問の手ほどきをうけた。
十二年間。
拷問官としての彼の履歴は、普通の民としてのそれをとうに追い越してしまった。
* * *
……ごめんなさい……ごめんなさい……
悲鳴じみた哀願。
「どうしても、言わぬつもりか」
何かがへし折れる音。ぎえっ、と怪鳥じみた声。
そんな繰り返しのあと、囚人はついに、同志の名前を口に出した。
それを書き留めると、若者は腰の短刀を抜いた。
しゅっ、と銀光が一閃したかと思うと、囚人の息の根はもう止まっていた。
ふと指先を見ると、血がにじんでいた。知らぬ間に怪我をしていたらしい。
――傍らに、両親の死体。
燃え盛る炎。崩れ落ちていく家。
笑い騒ぐ男たち。炎を背に、それはまるで影絵のようで。
「お前も、ずいぶん腕を上げたな」
傍らで見ていた『師匠』の声。若者は我にかえった。指先の血を、やや乱暴にぬぐう。
「何年になる、ここへ来てから」
「……十二年です。ここに来たのは八つの年でした」
「そうだったな。あの幼子が、よくぞここまで成長したものよ」
『師匠』は、目を細めた。
「私の教えることは、もう無くなってしまったかも知れぬ」
ちょうど灯りに背を向けている若者の表情は、わからない。
* * *
――傍らに、両親の死体。
燃え盛る炎。崩れ落ちていく家。
笑い騒ぐ男たち。炎を背に、それはまるで影絵のようで。
心に焼きついた、あの日の幻影。
――そして、彼は見た。
それを振り払うように、若者は毛布をばさりとかぶった。
* * *
らせん階段をあがる、二つの足音。
外界の光も、ここには届かない。
(……あれこそが地獄の一丁目……)
(……生きて帰った者などおらぬ……)
ここにはただ、闇と沈黙。
師匠。師匠か。心の中で、若者はつぶやく。
――私の教えることは、もう無くなってしまったかも知れぬ。
『師匠』の声が、頭の中でこだまする。
だが、もうすぐ。
* * *
らせん階段の最上部、彼らの仕事部屋。
自分に背を向けた『師匠』の頭に、若者は隠し持った棍棒を振り下ろした。
……もうすぐ。
* * *
目を覚ました『師匠』は、自分が拷問台にくくられている事にすぐ気づいた。
慌てて傍らをみやると、そこには彼の愛弟子がいた。
その顔には、冷たい薄笑い。
それはまるで、冬空のもと冷たく冴え渡る三日月か、研ぎ澄まされた刃にも似て。
「何のつもりだ」
自分でも驚くほど、かすれた声。
若者は、腰の短刀を抜いた。美しい銀細工。ここの道具ではない。が、『師匠』はふと、それに見覚えがあるような気がした。
「これが何かお分かりですか、師匠?」
静かな声。
――傍らに、両親の死体。
燃え盛る炎。崩れ落ちていく家。
笑い騒ぐ男たち。炎を背に、それはまるで影絵のようで。
そして、彼は見た。
男たちが落とした、一本の短刀。
「これの出どころを突き止めるのには、だいぶ時間がかかりました。他に手懸りがなかったもので」
――下手人は、意外なところにいた。
薄暗い王宮の地下。
宮女とよからぬ行為に及んでいた男の腰に、同じ短刀が光っていた。
「その男を呼び出して、あらいざらい吐いてもらいました」
――息も絶え絶えになった男が漏らした真相。
「自分たちは、拷問官に雇われた。
短刀を用意したのも、そいつ。
仕事が済んだら処分するようにと言われたが、つい欲が出て捨てなかった。
一本落とした事には気づかなかった。
気づいていたら、とうに逃げていた……」
――彼は、その男をなぶり殺しにした。
その男が名前を挙げた他の下手人たちも、同じ道をたどった。
「それが四年前です」
普通の人間として生きた時間より、拷問官として生きた時間の方が長くなった頃。
「黒幕は、あなたですね、師匠」
若者の目が、ぎらりと光った。短刀のひらめきによく似ていた。
「あなたはどこでお聞きになったのです、私のこの体のことを」
若者は、自分の腕に短刀を突き立てた。見る見るうちに血があふれ床に滴ったが、彼はそれを見ようともしない。
無痛覚症。文字通り、痛みを感じない病気。
自分の師匠がそれをいたく気に入っている事ぐらい、悟らぬ彼ではなかった。
「無痛覚症の拷問官。確かに面白い趣向です。しかし、私とて心の痛みはある」
ふた親を殺された悲しみ。見知らぬ人を傷つける罪悪感。
そして、そんなものに次第に慣れていく自分への、言い知れぬ恐怖。
「だが、それももう終いです」
昨日、『師匠』がもらした一言。
……私の教えることは、もう無くなってしまったかも知れぬ……
「免許皆伝の卒業試験といきましょうか、師匠」
(……あの塔には、悪魔が住んでおってね……)
若者は、薄い笑いを浮かべた。
それはまるで、冬空に冴え渡る三日月か、研ぎ澄まされた刃。あるいは、
悪魔そのものか。
(……人を捕らえては、生きたまま喰うのだそうだ……)
「あなたの弟子の腕前がどれほどのものか、ご自身でお確かめください」
(……あれこそが地獄の一丁目……)
「不思議なものです。あなたが私に仕込んだ拷問術が、あなたへの復讐の術となろうとは」
(……生きて帰った者などおらぬ……)
若者は、短刀を片手に『師匠』へと近づいた。
* * *
「あの塔には、悪魔が住んでおってね……」
たぶん今夜も、この国のどこかで、誰かが語っている。
(天国の陰・了)
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