夢見る魔女の贈り物
@altces
第1話 少年には、成さねばならぬことがある。
じめじめとした熱気が少年の肌を撫でる度、不快に顔が歪む。
尋常ではない汗の量で、衣服はすでに体力を奪うだけの拘束具となっている。ここまで来るのにも大変な思いをしたのだが、神とやらはよほど人間に試練を与えるのが好きなようだ。きっと加虐趣味の同性愛者なのだろう。少年の脳は色々とおかしくなっていた。
だが、それでも少年は当初の目的を忘れず、時折動かなくなる自らの身体を強引なまでの力技で動かしていく。
少年の名はヴィムといい、まだ16になったばかりであるが、今も浮かべている表情には歴戦の戦士を思い浮かばせる強い意思が込められている。外見だけは純朴な少年を思わせるが、肌着の下には鍛え上げられた身体が隠されており、今、その身体を使って常人には不可能とも思われる所業に挑んでいた。
ヴィムには目的がある。その答えは真下にあった。
今もヴィムの肌を撫でる不愉快な風は、直下の部屋付近から立ち昇っているものである。伏せながら四肢を動かして、極力音をたてないように這いながら移動していたヴィムは、様子を探るために耳を床につけ、情報収集を開始した。
「わー、アイネさんすごいっ! 何食べたらそんなに大きくなるんですかっ!?」
「べ、別にこれくらい普通だよぉ。もう少ししたらターシャちゃんも同じくらいになるよ」
「あらジャネットさん、いつ見ても綺麗な肌をしていらっしゃいますわね。髪も呆れるくらい艶やかですし、どうでしょう、今夜私の部屋で絵のモデルになってくださいませんことハァハァ」
「寄るな変態」
「ああっ、相変わらずクールなところも素敵っ! でも私泣いちゃいそうっ、ぐすんっ……」
聞こえてくるのはわいわいきゃいきゃいと言った形容が自然に当てはまりそうな黄色い声だった。ここからではその光景を見ることはできないが、少年の口元が先ほどまでとは違う意味合いで歪む。
ここで正解だ。侵入するまでには思い出すのも嫌になるくらいの苦労を払ったが、これで多少は報われた。最も、ここで二分の一すら引けないようではこの先で詰んでもおかしくはない。神はヴィムに味方したようだ。感謝しよう。でも加虐趣味の同性愛者はNGだ。
ヴィムははっとした。そうだ、こんなところで安心などしてはいられない。
目的としているのは有象無象ではない。狙っているのはこの国の最重要機密なのだ。
ヴィムは再度気合を入れなおすと、目的の場所に向かってゆっくりと、だが着実に進んでいきながら、ターゲットの情報を頭の中で整理する。
名はルドヴィカ・ライゼ・ミリエシーダ。
このミリエシーダ王国の王族、それも直系の末娘……らしい。らしいというのは、周囲の情報を鑑みれば王族なのは確定しているのだが、本人がそれを肯定したことはないし、また国もルドヴィカの存在を公表していないからだ。その理由は定かではないが、有力な説では現王族には直系に加えて傍系が多く、ルドヴィカを親族争いに巻き込ませないために王位継承権すら剥奪しているとかなんとか。真偽のほどはわからないが。話がそれた。年齢は15だったか。王族に特有のロイヤルシルバーとも呼ばれる髪を持ち、だからこそ国の祖であるライゼの名を与えられている……らしい。いいや、そう、そんなどうでもいい個人情報など今は重要ではない。
今この場で重要なのは、衣類を纏わないルドヴィカを直接見ることだ。そのためにここまでの危険を冒してきたのだ。
ヴィムが得た情報によると、今日はルドヴィカが共同浴場に興味を示したらしく、そのために従者を連れてここまで来ている。いや、正確には、従者が付いて来ている。本人は従者が付いてくるのを大層嫌がったらしい。
従者が邪魔なのはヴィムとて同じだ。しかし、ほとんどプライベートの時間を専用の個室、というか階で過ごすルドヴィカがこんな場所に来ることなど、もう一度あるかどうかわからない。だからこそ、警備が増えているという更なる危険を冒してまでも今日実行する必要があった。
音だけを頼りに更なる熱気に晒されながら慎重に進んでいくヴィムの耳に、いくつものぼやけた音が入ってくる。薄くなりつつある意識を覚醒させながら、記憶を頼りにルドヴィカの声を探し、なんとか場所を特定する。耳を澄ませると、何度か聞いたことのある声が聞こえてきた。
「う~ん、広々としているのはいいんだけど、やっぱり人が多いのがね。それとも、これくらいが普通なのかしら」
「はい。個人でこの広さを有しているところは、宰相邸か公爵家くらいでしょう。それに、人が多くともお嬢様の哀れな体型をじろじろと見る輩はおりません。ほら、あちらにも同じような方もいらっしゃいます」
「うるさいっ! だからミリエラと一緒は嫌なのよっ、こんなときに限ってアリーチェはいないし、それに私はそんなにひどくないしっ!」
「そうですね。完璧な私が隣にいると明らかに差が出てしまい、お嬢様が貧相に見えてしまいますものね」
「むきーっ!」
よし、と心の中でヴィムは声を上げる。どうやら目的のルドヴィカはすぐ下にいるようだ。彼女らの会話がどのような意図を持っているのかは判断ができない程度に疲弊しているヴィムであるが、目的とそれに対する情熱を忘れたわけではない。ミリエラは確か、ルドヴィカ付きの女中だったと記憶している。ルドヴィカの従者は複数おり、それなりに調べてきたつもりだったが、彼女については未知数なのが不安要素である。
――だが、それがどうした。ここまできたら、やるしかない。
ヴィムはできるだけ呼吸を整えると右手で拳を作り、うつ伏せのままゆっくりと持ち上げる。屋根裏は狭く、立ち上がれる幅もない。最高点まで持ち上げてから、再び深呼吸をする。どくんどくんと鳴る心臓の音だけに集中するように、精神を細く、鋭く。意識を心音と呼応させ、穿つほどに鋭利さを極めた精神と肉体を同調させる。
そうして、自らの肉体全てを把握し、波長の波を同期させた瞬間。
「ハァッ!」
――バガンッという激しい破砕音と共にヴィムのいた床が崩落する。
『キャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!』
悲鳴が轟く中、拳を振りぬいた格好のまま困惑しているヴィムは眼下にいたルドヴィカらしき人影を捉える。湯煙ではっきりとは見えないが、おそらくそうだろう。違和感を振り払い、自由落下に身を任せながら視線はルドヴィカから離さない。
下は大きな水たまり、最善であれば打撲程度で済むはずだ。最悪は知らない。
眼下のルドヴィカは自身を守るように手を掲げて唇を動かす。障壁の魔術詠唱。予定通りだ。
途端、隣にいた人物がルドヴィカを守るように手を広げて前に立ちふさがる。おそらくミリエラだろう。その体格はルドヴィカの姿を容易に隠すものであり、ヴィムは舌打ちした。詠唱速度次第では、落下前に拝める箇所が減ってしまう。
苛立つヴィムの視界に、ヴィムと共に落ちてきた破片が映る。瞬間、構築される次善策。
できるか、と意識が問う。やる、と熱意が即答する。
ヴィムは空中で手を動かして手近な破片を掴むと、それをミリエラに思い切り投げつけた。体勢が崩れる。意識を保つのも大変だ。無事な着水などできないだろう。それでも、ミリエラを排除する方が先だ。霞みゆく視界で、ミリエラが飛来する破片を素手で掴んだのが見えた。
嘘だろう。だが、手を動かしたお蔭でルドヴィカの身体が僅かなりとも見える。映った姿は、ヴィムの予想していた通りだった。
そしてルドヴィカの詠唱により展開される障壁魔法は、大浴場にいる生徒達全員を保護するように崩れた破片を全て空中で押しとどめ、バラバラになるように砕かれていく。
無論、突如大浴場に現れた闖入者をルドヴィカが把握しているわけがなく。
破片に紛れていた一人の少年はそれまでの疲労と障壁に当たった衝撃で意識を失っていた。
その後に響き渡った二度目の悲鳴を、少年が聞かなかったことは幸いかどうか。
それはきっと、加虐趣味で同性愛者の神のみぞ知ると言ったところだろう。
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